【堺台場】幕末大坂に築かれたお台場

堺台場(さかいだいば)は、江戸時代末期に、現在の大阪府堺市堺区大浜北町と波止町に築かれた西洋式砲台(砲撃専用の城)です。

お台場というと、東京に築かれたものが有名なのですが、幕末に外国船の脅威に備え日本各所の海岸(河岸・陸地)に数百〜1000基築城されており、堺台場もこのとき築かれた台場の1つです。

本稿では、堺台場が築かれるに至る経緯・その構造・明治維新後の跡地利用などについて解説したいと思います。

堺台場設置に至る経緯

プチャーチン来航(1854年)

嘉永6年(1853年)7月、通商・国境確定交渉のためのロシアの使節プチャーチン提督が、軍艦4隻を率いて長崎に来航し、国書を長崎奉行に提出します。

その後、プチャーチンは、イギリス艦隊との戦闘に備えるために旗艦以外の3隻を沿海州に残し、嘉永7年(1854年)8月30日、旗艦ディアナ号単艦で箱館に入港したのですが、同地での交渉を拒否されたため大阪へ向かいました。

同年9月に天保山沖に到着したプチャーチンは、江戸幕府に対して交渉要求をしました。

もっとも、ここでも大阪奉行から下田へ回航するよう要請を受けたため、プチャーチンは、大坂を離れて同年10月14日に下田に入港しています。

江戸海運の危機

以上の結果、大坂で何らかの問題が起こったわけではないのですが、外国船が易々と大坂湾に入ってこられる状況となっていることに江戸幕府は危機感を覚えます。

この危機感の根幹は、当時の物流システムにあります。

江戸時代は、江戸が江戸幕府の本拠地として多くの人が集まる一大政治都市となったのですが、政治都市であったが故に生産力のない武士が多数居住することとなりました。

また、これらの武士を商売相手とする商人までもが江戸の町に流入していったため、江戸時代初期の関東地域の生産力のみではこれら増え続ける江戸の町の非生産人口を支える消費物資(農産物など)を工面することができませんでした。

そこで、江戸幕府としては、江戸の町機能を支えるため、全国各地から大量の物品(農産物・消費財・建築資材など)を江戸に運び込むシステムを構築する必要に迫られました。

この点、五街道等の陸上交通網を利用して江戸への物資搬送については、起伏の激しい山地が障害となり、また牛馬の去勢技術を持たなかったために気性の抑えられていない牛馬に馬車を引かせて悪路を進むことが困難だったため、大八車や荷駄を利用して難路を進まざるを得なかったのですが、これでは輸送容量が小さすぎて江戸の消費生活を支えるだけの物資大量輸送が出来ませんでした。

そのため、必然的に、日本全国から江戸に向かって大量かつ安価に物資を運搬するため、完全海運での物流システムが構築されていました(詳細は、別稿:江戸時代の海上流通革命‐消費物資はどうやって江戸に運ばれたのか参照)。

このとき、江戸に物資を運搬する上で当初から最も重要視されたのが、産業の中心であり全国の物資集散地でもあった大坂と、政治の中心として日本最大の消費地となっていた江戸とを結ぶ航路でした。

そこで、1619年の菱垣廻船・1730年の樽廻船の運行や、1672年の西廻航路やその延伸路線である北前船などの開発により、物資が大坂を経由して江戸に運ばれるということが常態化し、江戸時代を通じて、大坂は物流のハブとして欠かすことのできない一大経済都市となっていました。

このような状況下で、大坂湾に外国船が侵入して海運を封鎖してしまうと、日本全国(特に江戸)が直ちに飢えてしまうという危機に陥ります。

大坂湾各所への台場設置計画

江戸幕府としては、このような危機を放置しておくことはできません。

そこで、江戸幕府は、大坂湾への外国船の接近を封じるために大坂湾各所に台場を築くこととし、その一環として、堺奉行所に対して堺港の防衛のために堺の町を守る形で堺港の入口に北台場と南台場を続けて築城するよう命じます。

堺台場の縄張り

北台場

江戸幕府の命を受けた堺奉行所は、安政元年(1854年)、まず現在の大浜北公園内の位置(北緯34度35分2.5秒 東経135度27分39.9秒)に南北約90m・東西約70mのコの字型の土塁を有する方形型の北台場を築城を開始します。

北台場は、翌安政2年(1855年)、汐除けとして浜手に築いてあった台場を再利用する形で完成し、36貫目の臼砲(モルチール砲)大砲8門が備えられました。

なお、北台場については、安政2年の堺御台場之図にその構造が描かれています。

南台場

堺奉行所は、続けて現在の大浜公園内の位置(北緯34度34分56.6秒 東経135度27分40.7秒)に南北約360m・東西最大約183mの方形型の南台場を築城を開始し、安政5年(1858年)頃に竣工したと考えられています。

その後、南台場は、元治元年(1864年)6月頃から警備を担った彦根藩による稜堡式城郭への大改築工事が始められ、慶応2年(1866年)正月に工事を引き継いだ伯太・和歌山・岸和田藩の手により南北約295m・東西約195mの稜堡式台場として完成しました。

改修後の南台場は、南北に堀を設け、北・西・南側を石垣で囲んだ中に大砲18門を備える規模となっていました。

なお、南台場については、堺浦両御台場絵図にその構造が描かれています。

また、堺図書館には、両台場が描かれた堺御台場之図が残されています。

 

明治維新以降の堺台場

大浜公園として整備

開国・明治維新を経て外国船の寄港制限がなくなったことにより、堺台場も不要となります。

そこで、明治時代に入って一旦は兵部省(後の陸軍省)の所管となった後、明治12年(1879年)7月に堺県が大浜公園(北公園及び南公園)として整備されます。

なお、現在は旧堺港の南側(大浜北町側)だけを大浜公園と称しているのですが、当初は北側(北波止町側)を含むむ大きな公園であり、それぞれ南公園、北公園と呼び分けていました。

関西有数のレジャー施設となる

明治14年(1881年)2月に堺県が大阪府へ編入されたのを受け、明治23年(1890年)1月に大浜公園も大阪府から堺市へ移管されます。

その後、南公園は、明治36年(1903年)に大阪で開かれた第5回内国勧業博覧会の会場となり、世界に誇る東洋一の水族館と言われた堺水族館が設置されました(昭和36年/1961閉園)。

また、南公園には、公会堂・潮湯・海水浴場・料理旅館・土産物屋などが立ち並ぶなど、関西有数のレジャー施設として賑わいました。

他方、北公園は、別荘地・住宅地として開発が進められて失われたため、今日では大浜公園とは大浜南公園だけを指すようになりました。

現在残る堺台場の遺構

堺台場のうち南台場跡地は、現在は「大浜公園」となって市民の憩いの場となっています。

そして、南台場跡地の北側から西側にかけて石垣と土塁が残り、また南側の「外堀」跡は花菖蒲園として利用され、その水際には石垣が残っています。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA