楠葉台場(橋本台場)は、幕末期に、日本近海に出没し始めた異国船と過激化していく尊王攘夷派の活動から京を防衛するために築かれた江戸幕府の要塞です。
この頃には、欧米列強の外国船への備えのために日本全国に多くの台場が設置されたのですが、その多くは海岸に造られているため、内陸部の河川に造られた河川台場は珍しく、その中でも比較的良好に遺構を残す楠葉台場は高い歴史的価値があります。
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楠葉台場設置(1865年)
幕末時期になると、日本近海に外国船が現れるようになり、この外国船が淀川を遡って京に攻め込んで来ないよう配慮する必要がありました。
また、攘夷派と佐幕派との争いが激化していったため、過激化していく長州藩を中心とする尊王攘夷派の活動から京を防衛する必要性も出てきました。
そこで、京都守護職である会津藩主松平容保が、文久3年(1863年)、淀川を遡ってくる船舶を撃退する目的で淀川の両岸に台場を建築することを江戸幕府に建白します。
これを受けて、江戸幕府は、勝海舟を奉行として淀川の両岸に稜堡式構造の台場建設を始め、慶応元年(1865年)、2つの台場を完成させます。
西国街道を取り込む形で淀川北側に設置された台場である梶原台場と、京街道を取り込む形で南側に設置された台場である本稿で紹介する楠葉台場です。
なお、翌慶応2年(1866年)には、北側にもう1つ、高浜台場も完成しています。
楠葉台場の縄張り
楠葉台場は、水堀を備えた西洋式の稜堡式砲台であり、水堀で囲まれた内側の総面積は約3万8千平方kmでした(上写真の灰色部は、遺構消失箇所。)。
楠葉台場の外郭
① 南側の大堀と土塁
楠葉台場の南正面(淀川下流側)には、西洋の築城様式である稜堡式が採用され、その稜堡が高い土塁、深い堀などで防衛されました。
具体的に言うと、南側大堀は、西側の放生川から水を取り込んだ幅12〜16m、深さ約4.9m水堀で、側面は石垣で固められました。
そして、その上部には、高さ2.2m、幅約14.3mの芝が張られた土塁が築かれ、大砲の弾が着弾しても崩壊しない構造となっていました。
なお、土塁の内側には武者走りがあり、砲台間を移動できる構造となっています。
② 北側の土塁と堀
前記のとおり、楠葉台場は、淀川を遡上してくる船舶のための防衛施設であるため、北側の防衛には重きを置いていませんでした。
そこで、経費節約のため、北側には稜堡式は採用されず、直線的な造りとなりました。
また、北側土塁も、高さこそ南側と同様でしたが幅は南側の3分の1、北側堀の幅も僅か4〜8mという極めて脆弱な造りとなっていました。
③ 放生川(西側の堀として利用)
楠葉台場の西側は、八幡の市街地から流れる放生川(大谷川)を天然の堀として利用しています。
そして、淀川を遡ってくる船を攻撃できるよう、淀川に沿ってまっすぐに流れていた放生川を一部角度をつけて斜めにし、砲台をせりださせています。
京街道南方向からの陸上部隊への備え
楠葉台場の設置に際し、京街道を楠葉台場の中を通るように付け替えられたため、京街道を通って大坂から京に行くためには、必ず楠葉台場を通ることとなりました。
① 南門(南虎口)
大坂から京へ行く際に通ることとなった楠葉台場は、南側入口(虎口)として、大堀と土塁が設置され、土塁の切り目に門が設置されました。
この南虎口の両側には砲台が設置されるとともに(西側の2台が淀川用、東側の1台が京街道用)、この砲台の稜堡から南虎口に対する横矢がかかる構造となっていました。
また、南虎口の脇には衛兵が詰める箱番所が設置されていました。
そして、南虎口から楠葉台場に入ると、目の前は見切塁という土塁で塞がれて左に誘導される構造となっており、目隠しの役割と大軍での突撃防止の構造となっています。
② 見張台
見張台は、楠葉台場の南東角部に設置され、京街道に対する見張りの役目を果たしていました。
③ 番所
見切塁の先には、梁行4間、桁行8間の番所が設置されており、京街道の通行者の関所となっていました。
畳敷の建物であったと考えられており、楠葉台場内で唯一人が居住できる場所でした(なお、番所建物の瓦が出土しています。)。
④ 北門
京街道を北上して南門から楠葉台場に入った後、北門とそれに続く土橋を通って外に出て行く構造です。
南側と同様に北門の脇には衛兵が詰める箱番所が設置されていました。
淀川の南方向からの船舶への備え
① 砲台
砲台は、放生川沿いの南西部に2台、南東部に1台の計3台が設置され、南西の2台は淀川南方向に、南東の1台は京街道南方向に向かって設置されていました。なお、大砲や火薬・弾などを運び込まなければならないため、いずれの砲台にもスロープが設置されていました。
そして、各砲台には、カノン砲が各1門配備されていました。
残念ながら、西側の2台の砲台跡は、京阪電車の線路敷設の際に取り壊され、消失していますので遺構は確認できませんでした。
② 火薬庫
楠葉台場が南西から淀川を遡上してくる船舶のための防衛施設であるため、大砲に使用する火薬の保管庫は敵の砲撃から最も遠い位置となる北東角部に設置されました。
そして、火薬暴発の際の被害軽減のため、火薬庫の周囲を分厚い土塁で覆っていたそうです。
ところが、火薬庫が北東角部に設置されていることが、楠葉台場の脆弱性の1つとなっています。
角部にあるため陸上部隊により火をつけられる危険が極めて高いためです(しかも、北側の防衛は極めて脆弱でした。)。
③ 船番所(補足)
楠葉台場の外になりますが、楠葉台場の西側の放生川を越えた先に船番所が設けられ、淀川の通航監視を行っていました。
もっとも、残念ながら、船番所跡は、京阪電車の線路敷設の際に取り壊され、消失しています。
楠葉台場の放棄
鳥羽伏見の戦い(1868年1月)
楠葉台場の活躍の機会は、幕末期の戊辰戦争の際に訪れるはずでした。
慶応4年(1868年 )1月3日の鳥羽・伏見の戦いで、薩摩藩・長州藩の新政府軍に敗北し、さらに淀藩に裏切られたため、江戸幕府軍は淀から南に押し込まれて行きました。
このとき、江戸幕府軍は、主力を橋本陣屋に、また軍勢を男山(八幡市)・橋本周辺に集めて立て直しを図ります。
そして、楠葉台場には小浜藩を詰めさせて守備につきました。
ところが、同年1月6日、淀川北側の大山崎・高浜台場・梶原台場を守備していた津藩(藤堂家)が幕府を裏切って新政府軍につき、旧幕府軍に砲撃を開始したため、楠葉台場はこれに応戦して高浜台場への反撃を行います。
このとき、砲撃に加えて新政府軍が北側から進軍してきたため、幕府軍は総崩れとなり、橋本を引き払った上、楠葉台場も捨てて大坂に退却します。
楠葉台場の欠陥
こうして楠葉台場は、一切活躍することなく新政府軍の手に落ちました。
その理由は明らかです。
楠葉台場は南側は堀幅も大きい稜堡式で高い防御力を有していたのですが、北の京側から攻められる場合を全く想定していなかったため、北側は堀幅も小さくて大砲も無い上、火薬庫が北側の端に備えられているなど、楠葉台場が北側からの攻撃に対する防御陣地としてはほとんど意味がないものだったからです。
結果、楠葉台場は、北側から進軍してきた新政府軍に対し、防御陣地として役に立ちませんでした。
楠葉台場の放棄
楠葉台場を接収した明治政府も、防御力の乏しさから楠葉台場を使用することなく放棄します。
そのため、楠葉台場は、南側の堀だけを残し、その他は田畑となります。
そして、明治43年(1910年)に、楠葉台場跡の西側に京阪電気鉄道が開業したため、西側の遺構は完全に消失しました。
その後、平成17年(2005年)に古文書から場所が特定されたことから枚方市により発掘調査を開始され、平成23年(2011年)2月7日に楠葉台場跡として国の史跡に指定され現在に至ります。