東京都内にある山城と聞かれて真っ先に名が挙がると思われる八王子城。
広大な敷地に建つ場内に様々な技巧を凝らした極めて興味深い城です。
後に、豊臣秀吉の小田原攻めの際に凄惨な殲滅戦が行われたため、その恨みを持つ人が多いためとして現在は心霊スポットともなっているようです。
一度是非訪れていただきたい城ですので、本稿では、そんな興味深い八王子城について、築城の経緯・縄張り・廃城に至る経緯について順に説明していきたいと思います。
【目次(タップ可)】
八王子城築城
八王子城築城の経緯(滝山城の限界)
八王子城の歴史は、北条氏康の三男・北条氏照が、永禄6年(1563年)から永禄10年(1567年)までの間に、滝山城を築いて入城したことに始まります。
その後、永禄12年(1569年)、武田信玄の軍勢2万人が、小田原城攻撃のため碓氷峠を越え武蔵国に侵攻し、相模国・小田原城を目指して北条方の支城を攻略しながら南下をしてくるという一大問題が起こります。
このとき武田軍は、滝山城の北にある拝島町に陣を敷き、北条氏照が治める滝山城にも迫ります。
さらに悪いことに、前記武田本隊とは別に、小山田信茂率いる武田軍別動隊1000人が、間道を抜けて小仏峠から侵攻を開始します。
このとき、北側に武田本隊が陣を敷いているため、北条氏照は、滝山城の兵を動員して全軍で武田別動隊を攻撃できませんでした。
やむなく北条氏照は、家臣の横地監物、中山勘解由、布施出羽守らに2000人の兵を与えて武田別動隊の迎撃に向かわせたのですが、1569年(永禄12年)10月1日、高尾山麗の廿里(現在の八王子市廿里町・廿里古戦場近辺:JR高尾駅の約400m北側付近)にて待ち伏せしていた小山田隊に大敗北を喫します(廿里合戦・廿里の戦い)。
この勝利に勢いづいた武田軍別動隊はそのまま北条氏照の守る滝山城に攻め込み、ここに北側からの武田軍本体の攻撃が加わったため滝山城は三の丸まで攻めたてられることとなりました。
何とか滝山城の陥落は阻止した北条氏照でしたが、この戦いで滝山城では小仏峠から甲州口を抜けてくる武田軍に対応できないことが明らかとなりその後防衛力に限界を感じたため、小仏峠を越えてくる武田軍を抑えるための防衛拠点の構築が求められることとなりました。
そこで、北条氏照は、滝山城を本拠地とすることを諦め、小仏峠沿い新たな本拠地を建築することを決めます。
八王子城の立地
このとき、北条氏照の新たな本拠地の場所として選ばれたのが標高445 m(比高約240 m)の深沢山(城山)でした。
小仏峠を越えて東進してくる武田軍を攻撃できることはもちろん、北側の碓氷峠を越えて武蔵国に入った場合であっても南進中の武田軍を横撃できる絶好の立地だったからです。
北条氏照は、この北浅川と南浅川に囲まれた深沢山山頂部を利用して、東西約3km・南北約2~3kmの範囲に曲輪を配置し、さらに山の尾根や谷など複雑な地形を利用して用途をいくつかの地区に分けて全体として八王子城を構成します。
八王子城築城開始(1571年)
そして、北条氏照は、元亀2年(1571年)に八王子城の築城を開始するのですが、織田信長の安土城を参考に石垣で固めた山城構築を行っています。
なお、八王子城の築城時期が、土で切られ盛られた典型的な中世の山城から、石垣を積み上げた平山城・平城への過渡期であったため、山城と石垣と双方の特徴をミックスして見ることができるという、興味深い城でもあります。
また、小仏峠を越えて東進侵入してくる武田軍を防ぐという築城目的を達するため、八王子城には一般的な山城のような尾根と堀切を利用した縦深防御に加えて、侵入してくる敵に対しいたる所から側射をかける仕組みが随所にちりばめられています。
八王子城の一応の完成(1587年)
そして、天正15年(1587年)、八王子城が一応の完成を見たため、北条氏照は、本拠を滝山城から八王子城に移します。
もっとも、北条氏照が、最初に八王子城に入った際には、御主殿など含む主郭部と一部の主要な要所部分のみが完成しているだけであり、その他の箇所については、その後も築城が続けられました。
後に八王子城の戦いが起こった天正18年(1590年)の時点においてなお八王子城は完成をしておらず、同合戦が始まる直前まで築城が繰り返されていたそうです。
八王子城の縄張り
八王子城は、①山頂に置かれた要害地区、②有事の際の詰城、③居館地区、④居館地区と要害地区と結ぶ中腹曲輪群、⑤城下町を形成した根小屋地区、⑥東進してくる武田軍を攻撃するために太鼓曲輪群などで構成される深沢山を巧みに利用して築かれた山城です。
太鼓曲輪
太鼓曲輪は、根小屋地区(城下町)・居館地区から南浅川を挟んだ対岸、つまり八王子城の南側大外にある広大な曲輪群です。
八王子城の南側にある八王子城に並行して存在する尾根に、曲輪と堀切を延々と並べた曲輪群として整えられ、八王子城の壁となる強力な防衛施設となっています。
この太鼓曲輪があることにより、武田軍が甲斐国から東進して小仏峠を越えて武蔵国に入ろうとする場合、北側の八王子城と南側の太鼓曲輪曲輪の双方から挟撃と十字砲火に晒して殲滅することができますので、武蔵国・相模国防衛のための極めて重要な曲輪であると言えます。
根小屋地区(城下町)
深沢山麓にある根小屋地区は、八王子城の城下町として利用され、武家屋敷のある中宿、刀剣鍛冶職人の居住区である鍛冶屋村に加え、滝山城下から移転した商業地区の八日市、横山、八幡といった3つの宿場があったと言われています(もっとも、実際には落城時に至っても未完成であったとも言われています。)。
① 北条氏照及び家臣墓
現在、この根小屋地区に北条氏照の墓がありますが、北条氏照は豊臣秀吉による小田原征伐の際に小田原城にて切腹していますので、ここにあるのは墓ではなく供養塔です。
② 宗関寺
延喜年間(901年~923年)に、曹洞宗の僧・妙行により開山されたとする寺で、当初は「牛頭山神護寺」という名称であったそうです。
北条氏照が僧・舜悦を招聘し、現在の位置よりも約400m奥(現在北条氏照墓の付近)に再興されました。
豊臣秀吉による小田原攻めに際して消失したのですが、文禄元年(1592年)、再度復興され、北条氏照の菩提を伴うため、北条氏照の戒名と禅室から名を取って「朝遊山宗関寺」に改称したされました。
その後、明治25年(1892年)に現在の位置に移転され、現在に至っています。
居館地区(城主屋敷・政庁)
居館地区は、その名の通り八王子城主・北条氏照の居館が置かれた地域です。城山川沿いの山腹に御主殿と呼ぶ館を構えてその東側にアシダ曲輪で防衛する構造となっています。
居館地区には、城主の居館(主殿)のみならず、会所などの様々な政治的役割を担う建築物も建てられ、まさに八王子城の政治の中心だった場所です。
① 大手門跡
② 古道
③ 曳橋
曳橋は、古道から御主殿へ渡るために城山川に架けられた橋です。
現在架かる橋は、近年再建されたものですが、再建に際して参考としたのが、わずかに現存する橋脚部の資料のみであり、橋脚以外の部分は現在の建築技術を基に16世紀当時の道筋を再現して架けられたものにすぎず当時ものと一致しているかは不明です(築城当時の構造については諸説あり、敵の侵入時に板を外せる構造や、橋桁ごとスライドする構造であったなど言う説もありますが、真実はわかりません。)。
また、御主殿側の橋台の位置は築城当時より5mほど東側にずれているため段差が生じたことにより石段が設けられています。さらに、橋台の西側の石垣は林道整備のために削られ移築されています。
④ 虎口
虎口付近には、築城当時の野面積の石垣が残されています。
途中(上の写真の石段の上部)には櫓門があったようです。
上の写真の石段を登り切って左に曲がると、復元された冠木門(かぶきもん)が迎えてくれます(この門も推定復元ですので、実際に存在した門がどのようなものであったのかは不明です。)。
⑤ 御主殿跡
石段を登り切り、冠木門をくぐった先にあるのが御主殿跡です。
御主殿跡は、八王子城主・北条氏照の屋敷があった場所であり、八王子城の政治の中心だった場所でもあり、土塁で囲われ、道路整備もなされ、主殿や会所などの大型建築物が建てられていたことが明らかとなっています。
八王子城廃城後は徳川氏の直轄領となり、また明治以降は国有林であったために落城当時のままの状態で保存されており、礎石も土砂で被われ表面は芝生となっているものの今でも当時のまま残っています。
昭和63年(1988年)の発掘調査の結果、建物跡の礎石や水路の跡等の多数の遺物が出土したのですが、遺構の保護のため、平成24年(2012年)から地中の遺物のレプリカを地上に設置する整備が行われましたので、現在みられるのは復元遺構です(往時のものは、庭園部にある石の1つのみです。)。
⑥ 御主殿の滝
御主殿の滝は、御主殿から下った先にある滝です。
八王子城の戦いに敗れた守備隊や婦女子らが次々と滝に身を投じた滝と言われています。
中腹曲輪群
中腹曲輪群は、八王子城の麓から要害地区へ向かう尾根をひな壇状の曲輪にして防御施設とした曲輪群です。
下から、金子曲輪・金子丸(八王子城の戦いの際に金子三郎左衛門家重が守備をしていたとい言われる曲輪です。)・高丸などがあったのですが、現在は荒れてしまって訪れても曲輪の形がほとんどわかりませんでした。
要害地区(山頂曲輪群)
要害地区(山頂曲輪群)では、山頂部に本丸を構え、東側を大手口・西側を搦手口としています。また、
また、要害地区内にいくつもの砦を配し、それらを結ぶ連絡道の要所には深い堀切や竪堀、兵舎を建てるための曲輪などが造成されていた。特に、居館地区の南側尾根にある太鼓曲輪は5つの深い堀切で区切られ、南側を石垣で固めるなど、容易に尾根を越えられない構造となっていた。城全体があまりに広大であったため、落城時には未完成であったという説もあるが、戦国時代のお城は、増築の繰り返していたので一概に言えない。
① 小宮曲輪(三の丸・一庵曲輪)
本丸の東側にある曲輪であり、三の丸とも言われます。
主に大手口の防衛を担当しています。
八王子城の戦いの際には、狩野一庵が守備していたのですが、搦手の隠し通路である棚沢道を突き止めた上杉景勝軍に背後から奇襲されて陥落したと言われています。
② 松木曲輪(二の丸)
本丸の南西部にある曲輪であり、中の丸・二の丸とも言われます。大手口・搦手口のいずれをも防衛できる曲輪となっています。
八王子城の戦いの際には、中山勘解由家範が守備していたのですが、前田利家軍に攻略されています。
現在は展望スペースとなっており、正面に高尾山・左手に八王子市内を眺めることができます。
③ 八王子神社
八王子神社は、城の守護神として八王子権現を祀る神社であり、地名の由来となったとも言われています。
この八王子神社は、西側の本丸、南側の松木曲輪、北東側の小宮曲輪に囲まれた窪地に建っており、八王子城に攻め込む場合、大手側から攻めたとしても搦手側から攻めたとしても、本丸に辿り着くためには、八王子神社を通る構造となっているのですが、この八王子神社は、前記本丸・松木曲輪・小宮曲輪からの十字砲火に晒される最も重要な防衛拠点となります。
守備兵からすると最も敵を殺せる場所であり、本丸防衛の最終・最重要拠点です。
逆に言うと、ここが落ちたら八王子城を終わりと言える場所でもあります。
④ 本丸
八王子城の中心にあり、かつ八王子城で最も重要な曲輪です(八王子城の戦いの際、横地監物吉信が守備した曲輪です。)。
本丸跡には現在は祠と石碑が建っています。
本丸平地部は10m四方程度の広さしかなく、登ってみると意外な小ささに面食らうかもしれません。
なお、八王子城は山城ですので、山頂部の本丸に天守建築物は築かれませんでした。
⑤ 井戸
山頂付近にはいくつか井戸が確認されている。南側斜面にある坎井(かんせい)という井戸は、水質検査にも合格するレベルであるが、飲用としての厳密な管理はされていない。
詰の丸(伝大天守跡)
八王子城には、要害地区のさらに西側に、広大な詰城が残されています。
ここは、八王子城の本丸が陥落した際に最後の拠点にするべく構築された詰城と言われており、部分的に石垣が残されており、西側に深さ10m以上の大堀切を見ることもできます(なお、現在でも歩いていくことはできますが、大人の足でも要害地区から30分位かかりますので、行かれる際は覚悟をして下さい。)。
要害地区から伝大天守跡に向かう尾根筋には、両翼600mに渡って石塁が築かれており、現在も石自体は残されていますが、残念ながら現在ではほとんどが崩れてしまっていて石塁としての機能は維持していません。
また、伝大天守跡と言われていますが、大天守らしき建物が建っていた痕跡はありませんので、名前の由来は謎です。
八王子城廃城
八王子城の戦い(1590年6月23日)
豊臣秀吉が、天正18年(1590年)、惣無事令違反を理由として北条氏の本拠地・小田原城攻めを始めます。
このとき、豊臣秀吉は、小田原城を攻める前に周囲の支城群を攻略していく作戦を取ったため、各支城が防衛を強いられたのですが、八王子城主・北条氏照が主要家臣団を伴って小田原本城への籠城をしていたため、八王子城内には城代の横地監物吉信、家臣の狩野主善一庵、中山勘解由家範、近藤出羽守綱秀らわずかの将兵と、領内から動員した農民と婦女子を主とする領民を加えた約3000人しか残されていませんでした。
このように人手不足の八王子城に、豊臣秀吉軍の上杉景勝、前田利家、真田昌幸らが率いる1万5000人が取りつき、前夜のうち霧をぬって主力が東正面の大手口(元八王子町)と北側の絡め手(下恩方町)の2方向より侵攻してきます。
そして、天正18年(1590年)6月23日深夜、豊臣秀吉軍1万5000人が、八王子城への力攻めを開始し、一気に八王子城の麓の曲輪群を制圧し、守備隊を要害地区まで追いこみます。
その後、要害地区の守りを固めた守備隊に手こずった豊臣秀吉軍と守備隊との間で戦況が拮抗するのですが、豊臣秀吉方の搦め手別働隊の奇襲が成功して守備兵が総崩れとなり、その日のうちに八王子城は陥落します(八王子城の戦い)。
八王子城の陥落に際し、豊臣秀吉は見せしめとして(その後の北条方の支城に城に籠ろうという意思を持たせないようにするため)、守備隊の殲滅戦を行い、婦女子に至るまで殺戮し尽します(城代の横地監物も落城前に一旦は檜原村に脱出したのですが、その後小河内村付近で切腹しています。)。
凄惨な殺戮の現場を見た八王子城守備兵は、捕まっても助からないと判断し、八王子城落城時には、将兵のみならず婦女子までもが要害地区内でで自刃して次々と滝に身を投じたため、麓にある御主殿の滝が三日三晩、血に染まったとも言われています。
伝承
八王子城落城時にあまりに多くの血が流れたため、八王子城の麓の村で合戦後に近くにある城山川の水で米を炊けば、血の色で赤く米が染まるほどであったと伝えられます。
この言い伝えから、八王子城は、現在では心霊スポット化しており、夜中に城に行けば陣太鼓の音が聞こえるなどとまことしやかにささやかれています。
その後、本城である小田原城も落城し、八王子城主であった北条氏照は、兄である北条氏政と共に切腹し、八王子城が北条の手から失われます。
八王子城廃城(1590年)
天正18年(1590年)、滅亡した北条氏に代わって関東に入った徳川家康によって八王子城は廃城となりました。