不破関(ふわのせき)は、天智天皇の死後に皇位継承を巡って勃発した壬申の乱に勝利して即位した天武天皇により、天武天皇2年(673年)に現在の岐阜県不破郡関ケ原町に設けられた古代東山道の関所の1つです。
不破関が置かれた場所であったため、同地周辺は関ヶ原と呼ばれます。
当初は、東山道を監視することによって都(飛鳥浄御原宮)を防止する役割を担っていたのですが、次第に周囲の警察・軍事の機能を兼備するようになります。
また、律令制度の整備により、伊勢鈴鹿関(東海道)・越前愛発関(北陸道)と共に3関の1つに数えられ、関西(畿内)と関東(東国)とを分ける境目にもなっています。
もっとも、膨大な費用を要する三関の維持が困難となった朝廷は三関の廃止を決定し、延暦8年(789年)7月、不破関もまた廃止されるに至ります。
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不破関設置に至る経緯
天智天皇が病に倒れる(671年9月)
天智天皇10年(671年)9月、当時絶対的権力を有していた天智天皇が、当時の都であった近江国・大津宮で病に倒れます。
天智天皇は、天智天皇7年(668年)4月10日に同母弟の大海人皇子(後の天武天皇)を皇太弟としていましたので(日本書記)、この時点で天智天皇が亡くなると、弟が後を継ぐこととなるはずでした。
もっとも、死期が迫っていることを知った天智天皇は、自然な親の感情として、弟の大海人皇子ではなく、子の大友皇子に皇位を継承させたいと考えるようになります。
天智天皇の本心を察知した大海人皇子は、身の危険を感じ、皇太子として大友皇子を推挙して自らは出家して妻の鸕野讃良(後の持統天皇)と共に吉野宮(現在の奈良県吉野町)に下ります。
これにより、皇太子が大海人皇子から大友皇子に変更されることとなりました。
天智天皇崩御(671年12月3日)
天智天皇10年12月3日(672年1月7日)、近江宮近隣の山科において天智天皇が46歳で崩御します。
その結果、24歳の大友皇子が弘文天皇(第39代天皇)として即位します(なお、明治3年・1870年に明治政府によって歴代天皇に列せられてはいますが、実際に大王に即位したかどうかが必ずしも定かではありませんので、本稿では大友皇子と表記することとします。)。
こうして父の後を継いだ大友皇子ですが、その後すぐ、白村江の戦いや大津宮遷都などの多大な負担を強いた天智天皇の独裁政治に不満を持っていた豪族らが反乱を繰り返すようになります。
大海人皇子が不破の道を閉鎖
大津宮で政務を行う大友皇子の混乱ぶりを見た大海人皇子は、妻・鸕野讃良の説得もあって、中央政権への返り咲きを目指し、自身の有する領地である美濃国へ行き大友皇子と戦うことを決めます。
そこで、大海人皇子は、まず村国男依を先遣隊として美濃国に派遣し、先行して兵を集めさせた後、天武天皇元年(672年)6月24日、吉野を出立し美濃国へ向かいます。
吉野を出立した大海人皇子は、積殖山口・鈴鹿郡家・桑名郡家を経由し、道中の豪族を取り込みながら美濃に向かって進んでいき、途中、積殖山口(現在の伊賀市柘植)で大津宮を脱出した長男・高市皇子と、鈴鹿郡家で第3皇子・大津皇子とそれぞれ合流します。
その後、大海人皇子は、美濃国にたどり着いたのですが、到着時点で既に大海人皇子の指示を受けて兵が結集しており、すぐに行動できる状態となります。
そこで、大海人皇子は、集まった兵で東西交通の要衝であった不破の道を封鎖し、大津宮にいる大友皇子と東国との連携を遮断します(実際、大友皇子は、東国に兵力動員を命じる使者を派遣したのですが、大海人皇子に阻まれて失敗しています。)。
その結果、大友皇子が東国(東海道・東山道)の兵を失い、これを大海人皇子が取り込んでしまいます。
東国を失った大友皇子は、畿内、西国、吉備、筑紫(九州)に兵力動員を命じる使者を派遣したのですが西国・九州の動きは鈍く、畿内周辺の兵力のみで戦う必要に迫られます。
壬申の乱
そして、美濃国で体制を整えた大海人皇子は、天武天皇元年(672年)7月2日、軍勢を二手にわけて鈴鹿関から大和方面軍(南軍)と、不破関から近江方面軍(北軍)を送り出し、大友皇子がいる大津宮を目指して進軍させます(実際には、規模は劣りますが琵琶湖の北側を反時計周りに進める部隊も出していますので、実際には3軍と言った方がいいかもしれません
そして、瀬田の戦いで大友皇子を破り、退却した先の山崎で大友皇子が自決したことにより壬申の乱は収束し、近江朝廷も滅亡します(壬申の乱)。
遷都と即位(673年2月27日)
壬申の乱に勝利した大海人皇子は、大津宮を廃し、飛鳥浄御原宮(奈良県高市郡明日香村)を造営して遷都します。
その上で、大海人皇子は、翌天武天皇2年(673年)2月27日に天武天皇として即位し、天智天皇よりもさらに中央集権制を進めていき、服制の改定、八色の姓の制定、冠位制度の改定などを行って、奈良時代に繋がる政治を形作っていきます。
また、都に定めた飛鳥浄御原宮を守るために、様々な施策が施されていきます。
このとき施された飛鳥浄御原宮を守るための政策の1つが美濃不破関(東山道、後の中山道)・伊勢鈴鹿関(東海道)・越前愛発関(北陸道)という3つの関所の設置でした。なお、この3つの関より東側を「関東」または東国と呼ばれるようになりました。
不破関設置
不破関設置(673年)
このときに不破に関が設けられた理由は、天武天皇が壬申の乱の際に自らが防衛拠点として戦ってその重要性を認識した場所であったためです。
なお、不破関は、東国から攻め上って来る敵に対してというよりも、謀反者などが畿内から東国に逃れるのを防ぐことを主目的として設けられたと考えられており(天武天皇自身が美濃・尾張で兵力を蓄えて壬午の乱を戦ったことに留意)、庁舎も西門の側に建てられています。
不破関の縄張り構造
不破関は、藤古川(揖斐川の支流である牧田川の支流の一つ)を西側の守りに利用した関所であり、藤古川左岸の河岸段丘(川面と段丘上面との高度差は10~20m)を巧みに利用して、その上に主要施設を配置して防衛する構造を採用しました。
当初は簡易な柵を配しただけのものだったのですが、時代を経るに従って土塁(北側・東側・南側)や門などの防衛施設が整備され、最終的には土塁の長さは北側約460m・東側432m・南側112mにも及び、これと藤古川とで囲まれた空間は12万㎡に及ぶ広大なものに造り上げられたことが判明しています。
そして、この要塞化された不破関のほぼ中央部を東西に整備された東山道が通り抜けており、関の西端・東端に城門や楼が設けられて守りが固められました。
(1)西城門(大木戸)
西城門は、不破関の西側に設けられた門です。
日の出時間に開門され、日の入時間に閉門されるならわしとなっていました。
また、都で事件が起こった場合などの国家的な問題が生じた場合には、中央からの指令によって東西の門が閉じられて東山道の全ての通行が禁止される「固関」が行われることとなっていました。
(2)東城門
東城門は、不破関の東側に設けられた門です。
(3)庁舎
不破関庁舎は、西城門のすぐ傍の東山道の北沿いに設けられました。
最終的には瓦屋根で囲まれた約1町(約108m)四方の関庁となり、各種舎営が造られていました。
(4)土塁
不破関の西側は藤古川を天然の堀として利用していたのですが、その他三方の防衛も必要となります。
そこで、その他三方には、北側約460m・東側432m・南側112mにも及ぶ土塁を設け防衛する構造とされました。
① 北限土塁
不破関北側の土塁は東西約460mに亘るものであり、現在の高さは約2m・基底部の幅約5~6mが確認できます。
また、北東角部は鬼門にあたる重要な場所であり、土師器甕に入った和同開珎が発見されていることから鎮壇が行われた場所であると考えられます。
また北東角部には土塁をまたいで望楼が建てられ守られていました。なお、現在では北東角部の土塁跡が最も形状を留めています。
② 南限土塁
不破関北側の土塁は東西約112mに亘るものであり、東南角部の土塁の内側から炉壁や鉄片などが出土していることから、東南角部には蹄鉄や武具を製作するための鍛冶場があったと考えられています。
(5)東山道
不破関は東山道を監視してその通行を管理するために設けられましたので、不破関のほぼ中央部を東西に東山道が通り抜ける形で設けられました。
法的整備
その後、大宝元年(701年)の大宝律令によって三関が警察・軍事の機能を兼備することが法的に規定されて、正式に「不破関」と定められました。
この結果、不破関には多くの兵士が配置された上で、美濃国府の国司四等官が分番守固することとなり、一般の通行を取り締まったり国家の非常事態に備えたりする施設となります。
また、和銅年間には勅命によって三関国の国守に仗(武官)2人が配属されるようになります。
不破関廃止
不破関廃止(789年)
もっとも、これらの施設を維持するための膨大な費用が惜しまれ、延暦8年(789年)7月、三関の廃止が決定されます。
このとき廃止された不破関からは、兵器・兵糧などが美濃国府に運ばれ、また内部にあった建物は便郡(不破郡)に移築されたため、不破関の機能が失われてしまいました。
平安時代以降の不破関
そのため、平安時代以降は、文学作品や紀行文に遺構の情景が記されるなどするにとどまっています。
・「人住まぬ 不破の関屋の 板庇 あれにし後は ただ秋の風」(藤原良経)
・「秋風や 藪の畠も 不破の関」(松尾芭蕉)など
もっとも、関としての機能が失われた後も、不破関において非常時に関の封鎖を命じる「固関」(こげん)の儀式は江戸時代(江戸幕府によってそれまでの東山道が中山道として整備された頃)まで続けられ、また鎌倉時代には関守が置かれて関銭が徴収されていたことが確認されています。
なお、関守宿舎は、関庁推定値の西南隅に東山道を挟んで位置する段丘の際に設けられていました(木曽路名所図絵)。