【三種の神器の所在】天皇の証はどこにあるのか

三種の神器とは、天照大神(アマテラス)が、天孫降臨する邇邇芸命(ニニギ)に対して授けた①八咫鏡(やたのかがみ)・②天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)・③八尺瓊勾玉という3つ宝物の総称です(古事記)。なお、神器は、一般に「じんぎ」と呼ばれることが多いのですが、「しんき」・「しんぎ」・「じんき」などと呼ばれることもあります。

鏡が智、剣が勇、玉が仁という三徳を示しているとされています。

これらの神器は、邇邇芸命と共に地上世界に降りてきた後、その子孫である天皇に引き継がれていき、代々の天皇が神の子孫であることの証明とされる宝物となりました。

三種の神器とひとまとめにされているのですが、その格式に序列があることや、それらの所在、三種と言いながら実際には5つ存在していることなどはあまり知られていないように思いますので、その辺りを踏まえて三種の神器の所在について解説していきたいと思います。 “【三種の神器の所在】天皇の証はどこにあるのか” の続きを読む

【ヤマト政権の成立】鉄の独占差配により連合政権盟主となった古墳時代の天皇家

ヤマト政権は、三輪山麓に成立した小国が、弥生時代後期に朝鮮半島との交易によって鉄へのアプローチを手にしたことを利用して全国の小国を束ねることによって勢力を高め、現在の天皇家へと繋がる国家の盟主となった古代王権です。

ヤマト政権が成立・発展していった時代は、王墓として古墳が造られていった時代であることから、そのことにちなんで古墳時代と呼ばれています。

古墳時代にはまだ国内で文字が使われていませんでしたので、ヤマト政権成立の詳細を示す国内文献が残されておりませんが、大陸の文献や考古学的調査から明らかとなった結果がありますので、本稿ではこれらを基に現在の到達点を紹介していきたいと思います。 “【ヤマト政権の成立】鉄の独占差配により連合政権盟主となった古墳時代の天皇家” の続きを読む

【綏靖天皇陵】かつての神武天皇陵跡地に治定された2代天皇の陵

綏靖天皇陵は、第2代天皇であるとされる綏靖天皇の陵です。

宮内庁により奈良県橿原市四条町の遺跡名・俗称「塚山」「塚根山」がこれに治定されており、陵の名としては桃花鳥田丘上陵(つきだのおかのえのみささぎ)と呼ばれます。

日本で長い間尊崇を集めてきた天皇の中の墓所ですので、丁重に祀られた上で引き継がれてきた場所だと思われがちなのですが、中世には荒廃してその場所すらわからなくなっています。

そのため、前記の桃花鳥田丘上陵が本当に綏靖天皇陵であるかは必ずしも明らかではありません(そもそも、綏靖天皇が実在していたかすら定かではありません。)。

以下、紆余曲折を経て現在地の治定に至った経緯を基に綏靖天皇陵について説明していきます。 “【綏靖天皇陵】かつての神武天皇陵跡地に治定された2代天皇の陵” の続きを読む

【神武天皇陵】その所在が諸説ある初代天皇の陵

神武天皇陵は、その名のとおり日本の初代天皇とされる神武天皇の陵です。

宮内庁により奈良県橿原市大久保町の遺跡名・俗称「四条ミサンザイ」がこれに治定されており、陵の名としては畝傍山東北陵(うねびやまのうしとらのすみのみささぎ)と呼ばれます。

日本で長い間尊崇を集めてきた天皇の中でも特別な存在ともいえる初代天皇の墓所ですので、丁重に祀られた上で引き継がれてきた場所だと思われがちなのですが、中世には荒廃してその場所すらわからなくなっています。

そのため、前記の畝傍山東北陵が本当に神武天皇陵であるかは必ずしも明らかではありません。

以下、治定に至る経緯から順に神武天皇陵について説明していきます。 “【神武天皇陵】その所在が諸説ある初代天皇の陵” の続きを読む

【大阪という名称の由来】上町台地北端部の地名が広域行政区域を指すに至った歴史

大阪の名称の由来をご存知ですか。

「おおさか」とは、元々は上町台地北端のみを指す地名であったのが、大坂本願寺寺内町成立とその後の豊臣秀吉による大坂城及び城下町の整備により現在の大阪市中央区近辺一帯を指す言葉に意味が拡張され、明治期に大阪府・大阪市が成立したことによりほぼ現在と同じ範囲を示す名称となるに至りました。

読み方は「ヲサカ」→「オオザカ」→「オオサカ」と変遷し、表記は「大坂」→「大阪」と変遷して現在に至ります。

本稿では、現在の大阪という概念が生まれるに至った歴史的経緯について、簡単に説明していきたいと思います。 “【大阪という名称の由来】上町台地北端部の地名が広域行政区域を指すに至った歴史” の続きを読む

【藤原摂関政治の始まり】外戚の地位を利用した藤原北家による権力独占の経緯

摂関政治(せっかんせいじ)とは、平安時代前期に摂政が天皇の代理人(天皇が幼少・病弱などの理由により政務を行うことができない場合にこれに代わって政治を行う役職)となり、また関白が天皇の補佐人(太政官からの意見を成人天皇に奏上する役職・令外官)となることにより、これらが天皇に代わって政治を行う政治形態を言います。

藤原氏が外戚の地位を利用して摂政・関白をはじめとする朝廷の要職を独占したことから藤原摂関政治とも言われます。

摂政という役職自体は奈良時代からあり、当初は天皇の代理人という職責の強さから元々は皇族のみが就任できる役職だったのですが、貞観8年(866年)に藤原良房が人臣初の摂政に任じられ、また仁和3年(887年)11月17日に新たに関白職が設置されて藤原基経が就任したことにより、藤原氏の人間がこれらの職に就いて天皇に代わって政治を行う政治形態となり、平安時代前期の藤原氏の栄華の代名詞となりました。

この藤原摂関政治は、貞観8年(866年)に藤原良房が人臣初の摂政に任じられた後、白河院が院政を始めた応徳2年(1086年)まで約220年間もの長きに亘って続きました。

本稿では、藤原氏による政治=藤原摂関政治の始まりについて、そこに至る経緯から順に説明していきたいと思います。 “【藤原摂関政治の始まり】外戚の地位を利用した藤原北家による権力独占の経緯” の続きを読む

【飛鳥時代】飛鳥に都が置かれていた7世紀日本の時代区分概略

飛鳥時代(あすかじだい)は、日本の歴史の時代区分の一つであり、推古天皇が即位して飛鳥豊浦宮に都が置かれた推古天皇元年(593年)から奈良盆地に平城京を造営して遷都する和銅3年(710年)までの117年間を飛鳥時代と言うのが一般的です。

この117年の間には、一時的に難波宮・大津宮に都が置かれていたことがあるものの、主に飛鳥(現在の奈良県高市郡明日香村・橿原市・高取町付近)に都が置かれていたことからその名称が付されました。

飛鳥時代は、大別すると蘇我氏独裁政権時代(前期)・唐と新羅からの侵攻対策に追われた混乱時代(中期)・律令国家形成時代(後期)の3つの時代に区分されます。

以下、これらを順に見ながら飛鳥時代の概要について説明していきたいと思います。 “【飛鳥時代】飛鳥に都が置かれていた7世紀日本の時代区分概略” の続きを読む

【第56代・清和天皇】藤原摂関政治の基礎を作ってしまった日本史上初の幼帝

清和天皇(せいわてんのう)は、日本の第56代天皇です。

母が臣籍降下して初めて臣下に嫁いだ嵯峨天皇皇女であったこともあり、文徳天皇の第四皇子でありながら生後8か月で立太子し、その後、文徳天皇の突然の崩御によってわずか9歳で天皇となった日本初の幼帝です。

幼くして天皇となったことから、母方祖父である藤原良房の傀儡となり、藤原良房を人臣初の摂政に任命することによって藤原摂関政治の基礎を作ってしまった天皇でもあります。

他方で、多くの子を儲けてこれらを臣籍降下させ、その中から後に武門の棟梁となる清和源氏を誕生させたことから清和源氏の祖としても有名です。 “【第56代・清和天皇】藤原摂関政治の基礎を作ってしまった日本史上初の幼帝” の続きを読む

【守口宿】東海道五十七次最後の宿場町

守口宿(もりぐちしゅく)は、現在の大阪府守口市本町1・2丁目、竜田通1丁目、浜町1・2丁目付近にあった東海道最後の宿場町(東海道五十七次の57番目の宿場町)です。

淀川洪水対策として大坂と伏見を結ぶ全長約27kmの淀川堤防上の道(文禄堤)沿いに建ち並ぶ特徴的な宿場町でした。

大坂からわずか2里(約8km)・枚方宿からも3里(約12km)という距離の近さから、当初から馬継ぎがなく人足のみの勤めとなっていた上、淀川に面していながら川舟との連絡がなかったために淀川舟運の発展につれて次第に客を失っていった宿でもあります。 “【守口宿】東海道五十七次最後の宿場町” の続きを読む

【石清水八幡宮】京の裏鬼門を守る国家第二の宗廟の歴史

石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)は、現在の男山山頂(京都府八幡市八幡高坊30)に位置する八幡大神(誉田別命=応神天皇・比咩大神=宗像三女神・息長帯姫命=神功皇后)を祀る神社です。

かつては八幡宮寺とも言われて神仏習合の霊地とされ、伊勢神宮(天照大神)に次ぐ国家第二の宗廟とされていました。

第56代天皇である清和天皇の健康を祈願して平安京の裏鬼門(南西)の方角に創建された神社であるために清和天皇の子孫(清和源氏)の氏神となったのですが、後に清和源氏(源頼朝・足利尊氏)が武士になって武家政権を開くなど隆盛を極めるに至ったことから、信仰対象となっていた石清水八幡宮が武神として扱われるようになりました。

男山山頂から山麓に至る一帯が境内となっているところ、宇治川・桂川・木津川の合流点近くにあり、淀川を挟んで山崎天王山と相対するという交通・軍事の要衝地にあったため、実質的な意味でも京防衛の拠点と位置付けられました。 “【石清水八幡宮】京の裏鬼門を守る国家第二の宗廟の歴史” の続きを読む