【岩倉使節団】明治新政府の遣唐使

岩倉使節団(いわくらしせつだん)は、明治維新期の明治4年(1871年)11月12日から明治6年(1873年)9月13日まで、欧米列強諸国計12ヶ国を歴訪した使節団です。

岩倉具視を特命全権大使とし、首脳陣や留学生を含む100名を超える大集団で構成されました。

訪問先の欧米各国で視察した議会・銀行・工場・病院・学校などの近代設備を学び、それを日本に持ち帰ったという意味で日本近代化の原点として明治政府の国家建設に大きな影響を与えた一団であり、その大きな効果から、日本の歴史上でも遣唐使に比すべき意味をもつ使節とも言われています。 “【岩倉使節団】明治新政府の遣唐使” の続きを読む

【藤原京】都城制・条坊制を備えた日本初の都

藤原京(ふじわらきょう)は、現在の奈良県橿原市と明日香村にかかる地域にあった飛鳥時代の都城です。

壬申の乱により即位した天武天皇によって計画され、その妻である持統天皇の時代に完成しています。

それまで天皇が変わるたびに遷都していた習慣を改めて恒久的な都とするために計画された唐風の都であり、日本史上初めて都城制・条坊制が採用された革新的な都でした。

また、その規模は、後の平城京や平安京よりも大きなものであり、ヤマト政権の首都として長年に亘って統治の中枢となる予定だったのですが、実際には3代の天皇というわずか16年でその役割を終えてしまいました。 “【藤原京】都城制・条坊制を備えた日本初の都” の続きを読む

【江戸幕府の宗教統制】信仰心の薄い多くの日本人が仏教徒とされている理由

日本人の多くは仏教徒と言われています。

もっとも、著者を含めて多くの日本人の仏教信仰は決して強いものではなく、一言で仏教徒といっても他の宗教を信じる人から見ると無神論者と呼べる程度の薄い信仰の人が多いように見受けられるため、仏教徒と呼んでいいかという点に疑問が生じます。

なぜ、このような薄い信仰心しか持っていないにも関わらず、多くの日本人が仏教徒ということになっているのでしょうか。

実は、その原因は、江戸幕府による宗教政策にあります。

より具体的にいうと、江戸幕府が、より安価かつ簡便に民衆を統制する手段として、全ての一般民衆をいずれかの寺(末寺)の檀家にし、その末寺を本山が、その本山を江戸幕府が管理する制度を整えました。

これの制度により、江戸幕府は簡便な民衆・寺院統制手段を、本山は末寺に対する人事権・上納金徴取権を、末寺は民衆からの上納金徴取権を得ることに成功し、それぞれが大きな利益を得たのです。

他方、これらにより日本仏教の世俗化が進み、現在のような信仰心の薄い仏教徒出来上がるに至っています。

本稿では、これらの歴史的経緯について簡単に説明していきたいと思います。 “【江戸幕府の宗教統制】信仰心の薄い多くの日本人が仏教徒とされている理由” の続きを読む

【第41代・持統天皇】日本史上初の太上天皇となった女帝

持統天皇(じとうてんのう)は、皇室史上3人目の女性天皇として第41代天皇となった女性です。

強権を誇った天智天皇の娘として生まれ、叔父である天武天皇の皇后となり、壬申の乱では異母兄弟である弘文天皇を滅ぼして夫を即位させるという複雑な家庭環境下での生活を強いられました。

夫である天武天皇崩御・子である草壁皇子薨去後に、孫である軽皇子が成長するまでの中継ぎ天皇として即位したのですが、その他の女性天皇とは異なり、形式的即位ではなく、実権を持って政治を行なった女性天皇です。

政治的にも相当優秀であったと考えられ、飛鳥浄御原令施行・庚寅年籍編纂・藤原京遷都など数々の大事業を成功させています。

また、譲位後にも政治に関与し、大宝律令完成や日本への国号変更にも携わったと考えられています。 “【第41代・持統天皇】日本史上初の太上天皇となった女帝” の続きを読む

【白村江の戦い敗北後のヤマト政権の国防策】

618年に建国された中国王朝の唐は、建国直後から朝鮮半島への軍事的野心を示し、朝鮮半島北部の高句麗と対立すると共に、朝鮮半島南部新羅と組んでその他地域の侵攻を試みます。

この結果、7世紀の朝鮮半島は、唐からの軍事侵攻にさらされる戦いの世紀となったのです。

そして、この唐と朝鮮半島諸国家との戦いに、朝鮮半島南部国家であった百済からの援軍要請に応じたヤマト政権(倭国)も参戦します。

もっとも、海を渡ったヤマト政権軍は、白村江の戦いで唐・新羅軍に大敗し、朝鮮半島内の拠点を全て失って倭国(日本)に逃げ帰ります。

それだけなら良かったのですが、超大国である唐に喧嘩を売ったヤマト政権としては、その報復として唐・新羅連合軍からの侵略の危機に晒されるという、国家存亡の危機を迎えることとなったのです。

そこで、ヤマト政権は、この後に内政・軍事・外交というあらゆる面でその対策に追われることとなってしまいました。

本稿では、白村江の戦いの敗戦後にヤマト政権が、迫り来る唐・新羅軍の侵攻の脅威に備えてどのような対策を取ったのかについて説明していきたいと思います。 “【白村江の戦い敗北後のヤマト政権の国防策】” の続きを読む

【鎌倉時代の東大寺再建】南都焼討後の再建について

奈良時代創建された当初の東大寺は、唐の文化を受けた天平文化を色濃く反映した伽藍でした。

ところが、平家による焼き討ちに遭った後、鎌倉時代に復興した東大寺は、それまでの伽藍に復元することはせず、新たに南宋の文化を色濃く反映した大仏様(天竺様)の伽藍に変更されて再建されました。

本稿では、平安時代末期に創建当初の東大寺が焼失するに至った経緯と、鎌倉時代初期の再建事業・再建内容について簡単に見ていきたいと思います。 “【鎌倉時代の東大寺再建】南都焼討後の再建について” の続きを読む

【倭と呼ばれていた頃の日本】中国歴史書から見る古代日本の歴史

倭とは、中国に朝貢していた時期である古代日本の呼び方です。

奈良時代に入るまでの日本には記録を残す文化がなく、現存する最古の書物である古事記ですら和銅5年(712年)に完成したものですので「倭」の時代を日本の同時代資料から確認することはできません。

そのため、主に中国に残された歴史書により、「倭」と呼ばれた古代日本について振り返っていきたいと思います。 “【倭と呼ばれていた頃の日本】中国歴史書から見る古代日本の歴史” の続きを読む

【鎌倉仏教の興り】貴族の特権から民間信仰に変遷した仏教革命

鎌倉仏教は、鎌倉時代初期、比叡山延暦を下りた幾人かの高僧によって開かれた一般庶民・武士向けの仏教です。

それまでの仏教は、国家の判断によって導入された皇族・貴族の特権的文化であったのですが、鎌倉仏教では、これを易行・選択・専修を特色とする「簡単な修行を1つだけ選びそれだけを行えば足りる」とすることで一般大衆に門戸を開き、日本全国への爆発的な普及のきっかけとなりました。

この鎌倉仏教の広がりは、大きく分けると他力本願を是とするグループと、自力本願を是とするグループという2つの派閥で広がっていき、他力本願グループは主に庶民層に、自力本願グループは主に武士階級の支持を得ました。

そして、他力本願を是とするグループでは法然・親鸞・一遍・日蓮などを開祖とする宗派が生まれ、自力本願をとするグループでは栄西・道元などを開祖とする宗派が生まれています。

本稿では、この皇族・貴族から庶民・武士へと担い手が変化するに至った革命的ともいえる鎌倉仏教について、その成立に至る経緯から簡単に説明したいと思います。 “【鎌倉仏教の興り】貴族の特権から民間信仰に変遷した仏教革命” の続きを読む

【第52代・嵯峨天皇】律令体制の再編成を行った平安時代初期の名君

嵯峨天皇(さがてんのう)は、先代の平城上皇方との政争である薬子の変に勝利して朝廷をまとめ上げた上で、律令体制の崩壊が進むとともに国家財政が悪化していた9世紀前半に、天皇直属の令外官を設置するなどして官庁を再編し、また天皇の権威・権力を強化させた天皇です。

天台宗・真言宗などの密教を保護して神仏習合を進め、また安定した政治力を基に平穏な治世を送る一方で、伝統的社会を変容させて唐風の儀式や文化を浸透・定着しさせたことでも有名です。 “【第52代・嵯峨天皇】律令体制の再編成を行った平安時代初期の名君” の続きを読む

【市中引き回し刑(大阪編)】江戸時代大坂での見せしめ刑の実体と引き回しルートについて

市中引き回し(しちゅうひきまわし)は、江戸時代の日本で行われた、死罪以上の判決を受けた罪人が受ける付加刑でした(独自の刑罰ではなく、あくまでも付加刑です。)。

死罪以上の判決を言い渡された者が馬に乗せられ、罪状を書いた捨札等を持ったものと共に刑場まで連れられて行くという公開連行制度(見せしめ)であり、抑止的効果をも狙ったものでした。

市中引き回しは、元々江戸幕府将軍のお膝元であった江戸で行われた刑罰だったのですが、豊臣家が滅んで大坂が徳川家の直轄地になると、ここを西国統治の拠点と定めた江戸幕府が大坂に江戸の統治システムを持ってきます。

その結果、大坂でも江戸で行われていたものと同様の刑罰システムが採用され、その一環として市中引き回しも採用されることとなったのです。 “【市中引き回し刑(大阪編)】江戸時代大坂での見せしめ刑の実体と引き回しルートについて” の続きを読む