大姫(おおひめ)は、初代鎌倉殿である源頼朝と、尼将軍と呼ばれる北条政子との間に生まれたプリンセスです。
プリンセスではあったのですが、その人生は悲劇でしかありませんでした。
6歳のときに和睦の証として木曾義仲から鎌倉に送られてきた木曾義高と婚約するも、夫となるはずの木曾義高が父・源頼朝に殺害されるというけど悲劇に見舞われます。
その後も、源頼朝から政略結婚の駒として扱われ、心の傷が癒えることなく僅か20歳で悲しい生涯を終えています。
本稿では、そんな悲劇のプリンセス、大姫の生涯について見ていきたいと思います。
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大姫の出自
大姫出生(1178年?)
大姫は、治承2年(1178年)ころ、伊豆国に流されていた源頼朝の長女として、北条政子を母に生まれます。
なお、大姫というのは長女を意味する通称であり、本名は不明です(一幡とする説もあります。)。
源頼朝は、伊豆国に流された直後は伊東祐親の下に預けられていたのですが、伊東祐親の娘(八重姫?)を妊娠させて伊東祐親の怒りを買い、北条家預かりとなっていたのですが、その北条家で北条政子を手を出して生まれた子が大姫です。
鎌倉に入る
治承4年(1180年)8月に源頼朝が挙兵した際には、3歳であった大姫は、母・北条政子と共に伊豆山に止まってその勝利を祈願し、源頼朝が鎌倉に入った後で北条政子と共に鎌倉に迎えられます。
木曾義高との婚約と悲劇的結末
木曾義高の許嫁となる
治承4年(1180年)9月、源頼朝の従兄弟である木曾義仲が、反平家を掲げて挙兵します。
その後、木曾義仲は、北陸方面に進出して行ったのですが、寿永2年(1183年)2月、源頼朝に敗れて本拠地を失った志田義広を、木曾義仲が保護したことから、木曾義仲と源頼朝との関係が急激に悪化します。
この時期は、平家方が、木曾義仲に奪われた北陸地方の失地を回復するため、10万人とも言われる大軍を編成していたタイミングであったため、木曾義仲としては、平家に加えて源頼朝まで敵対するわけにはいきませんでした。
そこで、木曾義仲は、11歳となっていた嫡子・木曾義高を人質として鎌倉へ差し出すこと(形式的には、木曾義高を当時6歳であった大姫の婿として受け入れる形)で源頼朝に対して敵意のないことを示し、これによって両者に和議が成立します。
木曾義高はイケメンであったらしく(木曾義仲はイケメンだったそうですので、その子である木曾義高もおそらくイケメンと推測。)、大姫は、鎌倉にやってきた木曾義高を見てのぼせ上がってしまいます。数え6歳の子供ですので、淡い恋心だったのかもしれません。
木曾義仲敗死(1184年1月)
源頼朝との関係を改善して平家との戦いに専念した木曾義仲は、ついに平家を都から追放し、上洛を果たします。
もっとも、田舎武者であった木曾義仲は、京の治安維持に失敗したり、皇位継承問題に口を出したりするなどして朝廷の信頼を失います。
困った木曾義仲は、ついに京で武力によるクーデターを起こします。
そして、国このクーデターは、源頼朝に木曾義仲討伐の口実を与え、源頼朝によって派遣された源範頼・源義経を大将とする討伐軍に敗れて、寿永3年(1184年)1月、死亡します。
木曾義高逃亡(1184年4月21日)
父・木曾義仲が討たれたことにより、人質として鎌倉にいた木曾義高は命の危機に陥ります。
敵の子を生かしておいたらどのような結末になるかを自らの経験によって一番理解しているのが源頼朝です。
源頼朝が木曾義高の命を見逃すはずがありません(もっとも、木曾義高を慕う大姫に配慮して結構時期については迷っていました。)。
そして、源頼朝が木曾義高の命を見逃すはずがないことは、北条政子や大姫も分かっています。
ただ、木曾義高を助けたい大姫は、北条政子に助けを求め、寿永3年(1184年)4月21日、同年の側近であった海野幸氏を身代わりとして双六をしているかのよう偽装させ、その隙に女房姿に変装させた木曾義高を大姫の侍女達と共に馬に乗せて脱走させます。
この木曾義高の脱走劇は、同日夜、源頼朝の耳に入ります。
こうなると、源頼朝としても捨て置けません。
源頼朝は、将来の禍根を断つために、木曾義高殺害を決め、木曾義高逃亡に加担した海野幸氏を捕らえた上、堀親家らに木曾義高を追跡して討ち取るよう命じます。
木曾義高の最期(1184年4月26日)
そして、木曾義高は、寿永3年(1184年) 4月26日、武蔵国の入間河原の八丁の渡し付近で堀親家の郎党であった藤内光澄に捕らえられて斬首されます。享年12歳でした。
大姫の悲嘆
木曾義高誅殺については、幼い大姫に配慮して内密にされていたのですが、程なく大姫もこれを知ることとなります。
木曾義高が死亡したことを知った大姫は、悲嘆に暮れ、以降、水も喉を通らなくなるほどに落ち込んでいきました。
同年6月27日、北条政子が、病床に伏した大姫を見て、日を追って憔悴していくのは木曾義高を討ったためだと憤り、ひとえに討ち取った男の配慮が足りなかったせいだと源頼朝に強く迫ったため、木曾義高討伐の実行者であった藤内光澄が晒し首にされるという理解に苦しむ処断が行われました。
もっとも、そのようなことをしても僅か7歳の大姫の傷ついた心が晴れるはずもなく、その後10数年に亘って床に伏す日々が続きます。
これに対して、源頼朝や北条政子によって、木曾義高の追善供養や読経、各寺院への祈祷などが尽くされたが効果はありませんでした。
大姫の縁談話とその立ち消え
近衛基通との縁談(1184年8月)
木曾義仲を討伐して源頼朝軍が京に入ったため、京で権勢を振るう後白河法皇は、源頼朝との誼を構築しようと考えます。
この朝廷と鎌倉の関係強化という点については、源頼朝にとっても異論はありませんでした。
そこで、元暦元年(1184年)8月、後白河法皇は、源頼朝の娘を摂政・近衛基通に嫁がせる意向を示します(玉葉・同年8月23日条)。
もっとも、源頼朝は、近衛基通ではなく叔父・九条兼実を摂政として推す意向をもっていたため、このときの縁談は進展することなく源頼朝の拒絶により終わってしまいます。
一条高能との縁談(1194年8月)
病気がちとなっていた大姫は、建久5年(1194年)7月29日、危篤状態に陥り、同年8月8日、源頼朝は、日向薬師で大姫の病気治癒祈願を行わせています。
その甲斐もあってか、大姫の病状が小康状態となったため、源頼朝と北条政子は、大姫と一条高能(源頼朝の甥)との縁談を勧めます。
そして、建久5年(1194年)8月、一条高能が縁談を進めるために鎌倉へ下ってきたのですが、大姫は、一条高能に嫁ぐくらいなら深淵に身を投げると言ってこれを拒絶したため、この縁談は破断となります。
後鳥羽天皇への入内工作(1195年2月)
その後、小康状態を保った大姫は、建久6年(1195年)2月、源頼朝に連れられ、北条政子(母)、源頼家(弟)と共に上洛します。
このときの源頼朝一行の上洛目的は、表向きは東大寺の落慶供養でしたが、実際は大姫を後鳥羽天皇の妃とするための入内工作でした。
源頼朝にも、木曾義高を失って負った大姫の傷も天皇の妻になれば癒えるのではないかという親心があったのかもしれませんが、基本的には大姫を天皇とのパイプとなるよう駒として使うのが本心でした。
そのため、京に入った源頼朝は、朝廷内の実力者であった土御門通親と丹後局にさかんに接触を図ります。
まず、同年3月29日、丹後局を招き、北条政子や大姫と対面させた上で、砂金300両を納めた銀製の蒔絵箱や白綾30反など多くの派手な贈り物をするなどして関心を引きます。
大姫の最期(1197年7月14日)
もっとも、源頼朝の大姫入内工作は、建久8年(1197年)7月14日、大姫は病から回復する事なくに死去したことにより失敗に終わります。大姫の享年は20歳でした。
なお、常楽寺の裏山の木曾義高の墓とされる木曾塚に向かう途中に、大姫の墓と伝えられる塚が残されています。
また、大姫の守り本尊であった地蔵を祭った地蔵堂(岩船地蔵堂)が扇ヶ谷に残り、大姫を偲ぶことができます。
その後
大姫が死去すると、源頼朝は、その妹である三幡を次なる入内者候補として工作を始めます。
なお、この源頼朝の度重なる娘の入内工作は、娘の入内と外孫の即位による権力支配という中央貴族の末裔としての意識を捨てきれなかった源頼朝の限界とも評されています。
そして、三幡には女御の称を与えられ、正式の入内を待つばかりとなり、頼朝は三幡を伴って上洛し朝廷の政治についての意見を具申する予定となりました。
もっとも、三幡を前にした建久10年(1199年)1月13日、源頼朝が死去したため、入内は保留となります。
また、同年6月30日に三幡までもが死去したため、入内工作は完全に頓挫します。