日本一の桜の城と聞いてどこを思い浮かべますか。
多くの人は、青森県弘前市にある弘前城を思い浮かべるのではないでしょうか。
それほどまでに、弘前城の桜は有名です。
では、弘前城がなぜ桜の名所となっているのでしょうか。
以下、弘前城の歴史と共に、桜の由縁を見ていきましょう。
【目次(タップ可)】
弘前城築城
弘前城の立地
弘前の地がある本州北端部は、古くから日本民族とアイヌ民族との戦いが続けられた場所でした。
そのため、戦国大名であり陸奥国弘前藩初代藩主となった津軽為信は、周囲に点在するアイヌ民族の脅威を防いで安全に弘前の地を治めるため、慶長8年(1603年)、西の岩木川と東の土淵川に挟まれた台地の北端に位置する鷹岡(後の弘前)の地を選んで築城を開始します(もっとも、津軽為信は、慶長12年(1607年)12月に、城の完成を待たずに死亡しています。)。
弘前城完成
そして、慶長16年(1611年)、2代藩主となった津軽信牧の手によって弘前城が完成します。
弘前藩は小藩であったのですが、このアイヌの脅威を防ぐという目的から、小藩としては分不相応な規模の巨大な城と天守が築かれました。
防衛目的の変更
このようにアイヌに対する防衛拠点として築かれた弘前城でしたが、時間を経るにしたがその目的が変化していきます。
技術革新によって海に乗り出してきた西の大国ロシアが、クロテンの毛皮を求めて極東へ進出し、カムチャッカ半島の領有権を主張し始めたからです。
また、ロシアは、さらに当時国の専売品として高い値が付いていたラッコの毛皮を追って南下し、ロシアの艦船が、蝦夷地のみならず津軽海峡まで探索をして様々な測量をしてくるに至り、北方領土にまで迫って来ていたのです。
このロシアの動きに危険を感じた江戸幕府は、18世記後半から蝦夷地(北海道)の調査を進め、ロシアへの備えを始めます。
そんな中、ロシアは、文化3年(1806年)9月、樺太にあった松前藩居留地を、また翌文化4年(1807年)、択捉島箱館奉行管理地を攻撃するという事件が勃発したのですが、このときは、旧式装備の幕府軍では強力なロシア軍に全く歯が立たず、一方的な敗北で終わるという結果となりました。
この結果、日本全体における対ロシアへの防衛力強化が緊急課題となり、弘前城の役割はも対アイヌから対ロシアへの防衛施設へと変わっていきました。
弘前城の縄張り
弘前城は、西側を数kmに及ぶ高さ20mもの急峻な崖とこれを造った川で守る梯郭式(ていかくしき)平山城です。東西約500m、南北約1km、総面積50haにも上る城域を持ち、別名鷹岡城、高岡城とも呼ばれています。
高低差による防衛力を考えて城の要となる本丸を大地の北西端に寄せて配置し、そこから想定攻城ルートとなる場所に沿って反時計回りに二の丸(南側)・三の丸(東側)・四の丸(北側)が順に配置されています。また、これらと本丸の周囲にさらに北の郭(北側)・西の郭(西側)を設置して最終防衛ゾーンを構築しています。
そして、西側の川と崖を天然の障害物を利用しつつ、本丸を中心に幾重にも掘りを巡らし、城の周囲に広がる武家屋敷・城下町も防衛施設として機能しています。
この結果、弘前城は、四の丸→三の丸→二の丸を突破しなければ本丸(及びこれを守る北の郭・西の郭)にたどり着けない構造となっています。
近世城郭としての完成形ともいえる弘前城ですが、現在まで築城当初の曲輪構造をほぼ残している歴史的価値が非常に高い城でもあります。
四の丸
前記のとおり、四の丸は、弘前城の最も北側に位置する曲輪です。
築城当初は、四の丸北側にあった北門が大手門とされており、攻撃を受ける際には最初に戦いの場所となったであろう曲輪となります。
江戸時代は、ほぼその全てが侍屋敷の敷地とされていました。
① 亀甲橋
四の丸(亀甲門)の外側には亀甲橋(かめのこばし)が架けられており、四の丸に取りつくためにはまずはこの橋を渡る必要があります。
② 亀甲門(重要文化財)
亀甲門は、築城時から弘前城の大手門とされた門であり、当初は北門と呼ばれ、後に亀甲門と呼ばれるようになりました。中国の伝説の北の守護神である亀の玄武からその名が付けられたと言われています。
城門を破るための開門兵器を使いにくくするため門は小さめに作られてあり、また攻めてきた敵を城の内部や門の上から弓・鉄砲などで攻撃するために門が虎口の右側に設けられています(よだんですが、弘前城の門は、豪雪地帯の津軽地方では雪が積もっても出入りができるよう他の城と比べて高く設計されていることも注目です。)。
なお、戦渦に巻き込まれたことのない弘前城ですが、この亀甲門には矢が刺さった跡が残されているため、この門が南部氏の城であった大光寺城から移築されたものと言われています。
後に、参勤交代の便宜のために、大手門が四の丸北側の北門から三の丸南側に移されたため、以降は搦手門として扱われています。
③ 一陽橋
④ 護国神社
また、四の丸内には、明治3年(1870年)、津軽藩12代藩主・津軽承昭によって箱舘戦争の戦没者慰霊のために創建された護国神社が建っています。
⑤ 春陽橋
春陽橋は、昭和7年(1932年)に市民の便宜のために架けられた橋です。往時の橋ではないですが、その美しさからいわゆる映えスポットとなっています。
三の丸
三の丸は、四の丸を突破した後に到達する曲輪です。
江戸時代には、ほぼその全てが侍屋敷の敷地とされていました。
① 賀田橋
四の丸と三の丸の間には堀が設けられており、そこに賀田橋が架けられています。
賀田橋は、以下の賀田門に由来されて名づけられた橋であり、かつては架け橋であり、戦の際には敵の侵入を防ぐため壊されることが想定されていました。
賀田橋を突破した直後に西に折れ曲がる構造となっており、かつてはそこに大浦城(賀田城)から移築された賀田門(現存していませんので古地図で確認してください。)が設置されており、足止めされている間に二の丸北東角にある丑寅櫓とから狙撃される構造となっていました。
② 東門(重要文化財)
三の丸東門は、三の丸と城外とを隔てる外堀に架けられた橋であり、東側から攻撃してくる敵がいた場合には最初の防衛拠点となります。
③ 東内門外橋
東内門外橋は、三の丸と東内門との間に架けられた橋です。
元々土橋として設置されていたのですが、弘化5年(1848年)に石造りの端に架け替えられています。
④ 大手門(重要文化財)
大手門は、三の丸最南端(弘前城南端)に設けられた門です。
築城当時は搦手門として造られたのですが、参勤交代で江戸に向かう際の出発の便器上大手門に格上げされた門です。
造りとしては、小さめに作られた城の入り口(虎口)の右側に門が配置されています。
大手門の瓦は、雪が積もって割れたりしないよう、銅で造られているのも特徴です(天守の屋根も同様です。)。
二の丸
二の丸は、三の丸を突破した後に到達する曲輪です。
① 東内門(重要文化財)
東内門は、三の丸と二の丸東側とを隔てる門です。
築城時に設置された門と考えられており、元々は瓦葺であったところ文化年間に銅瓦葺に改修されています。
② 杉の大橋
杉の大橋は、三の丸と南内門との間に架けられた橋です。
杉の大橋は、築城当時はその名のとおり杉で造られており(今は、真っ赤な鉄の橋となっています。)、敵が攻めてきた場合には、簡単に壊したり燃やしたりしてすることができる構造となっていました。
③ 南内門(重要文化財)
南内門は、三の丸と二の丸南側を隔てる門です。
南内門も、大手門同様左に曲げて門が配置されています。
④ 辰巳櫓(重要文化財)
弘前城辰巳櫓は、その名のとおり二の丸南東部を守る3層3階の土蔵造り・入母屋造り・とち葺形銅板葺の櫓です。
享保19年(1734年)に修復作業が行われています。
⑤ 未申櫓(重要文化財)
弘前城未申櫓は、その名のとおり二の丸南西部を守る3層3階の土蔵造り・入母屋造り・とち葺形銅板葺の櫓です。
元禄12年(1699年)8月2日に修復作業が行われています。
⑥ 丑寅櫓(重要文化財)
弘前城丑寅櫓は、その名のとおり二の丸北東部を守る3層3階の土蔵造り・入母屋造り・とち葺形銅板葺の櫓です。
⑦ 与力番所
西の郭
西の郭は、天守の西側を防衛するための郭です。
北の郭(小丸)
北の郭は、天守の北側を防衛するための郭です。
本丸南東部の二の丸を突破して回り込んでくる敵を防衛するための郭ですので,その北東角部には子の櫓、南東部には館神櫓という2つの櫓で防衛されていました。
また、北の郭内には籾蔵が建てられていました。
本丸
弘前城の本丸は、大地の北西角部に位置するため、城外の北側・西側から直接攻め上られる可能性はほぼあり得ない曲輪であるため、四の丸・三の丸・二の丸を突破してようやく到達する最後の曲輪です。
最期の曲輪と言っても、北側に北の郭、西側に西の郭を従えていますので、これらの3つの曲輪をもって最終防衛ラインとしています。
① 下乗橋
下乗橋は、二の丸と本丸東側を繋ぐ橋です。
江戸時代には、本丸に入る際にこの前で馬から降りていたためにこの名がつけられたと言われています。
② 馬出
下乗橋と本丸の間には、馬出しが設けられています。
これにより、本丸まで到達した敵を馬出しに引きつけ天守・北の郭・西の郭から出撃した兵で取り囲んで攻撃することができ、また攻め込んできた敵に対して打って出る拠点とすることもできる構造となっています。
③ 鷹丘橋
鷹丘橋は、北の郭と本丸北側を繋ぐ橋です。
④ 旧天守
弘前城本丸には、その南西部に築城と同時に5層6階という小藩としては破格の大きさの天守が築かれましたが、 寛永4年(1627年)9月に、落雷で天守3層にあったとされる火薬庫に火が回り全焼し消失しています。
なお、このときまで高岡城と呼ばれていたのですが、厄払いの意味も込めて翌寛永5年(1628年)に弘前城に改名しています。
天守
前記のとおり寛永4年(1627年)に失われた弘前城天守ですが、その後も弘前藩は江戸幕府に天守再建のお願いを続けます(実は、弘前藩は、謀反の意思がないことを明らかにするため、天守再建ではなく天守「櫓」移築という名目で請願をしています。)。
そして、文化5年(1808年)12月、ようやく江戸幕府が、弘前藩の天守再建の許しを認めることとなったため、文化7年(1810年)、2年弱の工事期間を経て、本丸南東角部に、2代目天守が再建されています。なお,江戸幕府が出した再建許可は、天守についてのものではなく、櫓の建設というものでしたので、弘前城は、初代のような巨大なものではなく、わずか三層三階の小ぶりな天守を再建するにとどまったため御三階櫓(ごさんかいやぐら)とも呼ばれます。
これが、現存12天守の1つに数えられる東北地方唯一の現存天守として残る現在の弘前城天守です(櫓の移築として許可されていますので、弘前藩にとっては天守ですが、幕府にとっては櫓でした。)。
現存天守を天守と呼ぶにはちょっとした疑問もありますが、城門や櫓などの築城当時の貴重な城郭建築物が極めて良い保存状況で残ることとも合わせ考えると、弘前城は歴史的価値の高い城と言えます。
なお,余談ですが,大手門と同様,天守も積もった雪で破損しないように屋根には瓦ではなく銅が葺かれています。
補足(南側防衛)
なお、余談ですが、弘前城の南側は、台地となって起伏があるものの土地自体は開けており、攻城の際に攻撃方の軍の駐屯地となりえます。
そこで、津軽藩は、城の南西部に33もの禅宗の寺を集めて出城的な役割を果たさせるなどし(通称、禅林街)、さらにこの地域への入り口に升形道路を造り土塁で覆うなどして防御ラインを構築し、また南側にも同様の構造を構築して南側防御を補強しています。
弘前城廃城
弘前城廃城
250年以上もの長きに亘って弘前藩・津軽家の居城とされた弘前城ですが、明治3年(1871年)廃藩置県により津軽家が弘前城を出ることとなります。
その結果、明治維新政府が弘前城を引き継ぎ、陸軍において使用されることとなったのですが、陸軍によって城自体の維持に力を入れられることはなく、以降、弘前城は荒れていく一方となりました。
元弘前藩士・菊池楯衛の憂い
ここで、荒れていく弘前城を見兼ねた元弘前藩士・菊池楯衛が動きます。
菊池楯衛は、廃藩置県後、リンゴを中心とする果樹栽培で生計を立てていたのですが、荒れていく弘前城を嘆き、往時の繁栄を取り戻すべく、明治15年(1882年)、弘前城内の天守が見える場所を中心に、1000本ものソメイヨシノの苗木を植えていきます。
まさに、「花は桜木、人は武士」です。
最初の植樹は、他の元弘前藩士の反感を買って荒らされたりもしたのですが、明治27年(1894年)、日清戦争にて戦死した青森出身兵士を慰霊するという目的で、市の事業として再度100本の桜の苗木が植えられ、明治28年(1895年)には弘前公園として再出発することとなりました。
また、日露戦争の頃にも、同様の理由で追加の植樹が行われました。
このとき植えられた桜が、今も弘前城を彩り、訪れる人の目を楽しませ、現在に至る桜の城としての評価を得ていくこととなったのです。
補足(修復工事)
天守再建後の弘前城も、その後の時間の経過によって徐々に劣化が進みます。
特に本丸東面の石垣には多数のふくらみが確認され、崩落の危険が指摘されていました。
そこで、平成27年(2015年)から、曳屋にて天守を西側にずらして移動させることにより、天守を解体することなく、その土台である本丸東面石垣の修復工事がはじめられました。
なお、この修復工事の過程で、弘前城に優れた技術が使われていたことが明らかとなりました。
天守のあった本丸東部は、元々地盤の緩かった場所なのですが、そこに建てられた再建天守を支える石垣の角石(すみいし)にイカの形をした細長いものが置かれ、その角石に2箇所穴が開けられて2本の天守の柱をはめ込んで、沈下を防ぐという技術が使われていたことが明らかとなりました。
また、角石と隣り合う石垣の石を鉛の金具で繋ぎ、ズレたり外れたりするのを防ぐ工夫もなされていたようです。
石垣を一度解体して、再度忠実に再現するという難工事の過程で、かつての進んだ土木事実を知るというのも、面白い発見です。