【豊臣政権を崩壊に導いた慶長伏見大地震】

慶長伏見地震(けいちょうふしみじしん)は、文禄5年(1596年)閏7月13日子の刻に山城国伏見(現在の京都市伏見区)付近で発生した大地震です。

天下統一を果たした豊臣秀吉の隠居城として豊臣政権の中枢地となっていた伏見を中心として発生した大地震であるため、物理的な意味で豊臣政権にダメージを与えた地震です。

もっとも、それ以上に、晩年に失策を続けて求心力を失いつつあった豊臣秀吉政権に対し、政権崩壊に繋がる決定打をもたらした地震でもあります。

以下、慶長伏見地震発生以前から人心を失いつつあった豊臣政権において、慶長伏見地震がそれをどのように加速させたかについて簡単に説明していきたいと思います。

次第に人心を失っていく豊臣政権

10年前の天正大地震(1585年)

慶長伏見地震は、文禄5年(1596年)閏7月12日深夜から翌同年閏7月13日にかけて発生した大地震だったのですが、実は豊臣政権を揺るがした大地震はこれが初めてではありません。

実は、慶長伏見地震発生の約10年前にも大地震によりその後の政権に影響を及ぼす事態に発展しています。

豊臣秀吉において、小牧・長久手の戦いで攻め滅ぼすことができなかった徳川家康を、再度攻撃するための準備を行っていた天正13年11月29日(1586年1月18日)夜、中部地方を震源とする未曾有の巨大地震(天正地震)が発生したのです。

この大地震は、西日本を中心に勢力を強めていた豊臣家支配地域に特に甚大な被害をもたらすこととなり、徳川家康攻撃の最前線兵站基地としていた大垣城が倒壊・焼失し、そこに集めていた15万人分の兵糧などが失われました。

また、対徳川最前線となる近畿・中部地方にある領地に甚大な被害が出たため、領内復興が最優先となった豊臣秀吉に徳川家康征伐を行う余裕はなくなります。

その結果、豊臣秀吉は、武力による徳川家康征伐を諦め、外交政策により徳川家康を臣従させる方法へと政策変更することとしたのです。

その後、豊臣秀吉は、徳川家康を臣従させることには成功したのですが、結果的には徳川家康を軍事力にて完全に屈服させることには失敗しており、不完全な主従関係を維持したまま豊臣政権を確立させたことから豊臣秀吉死後に徳川家康の台頭を許してしまったことは周知のとおりです。

文禄の役に起因する不満

その後、豊臣秀吉は、九州征伐・小田原征伐を経て天正18年(1590年)7月から8月にかけて行われた奥羽地方に対する領土仕置(奥州仕置)により、日本全国の武力統一を達成します。

これは、日本全国が豊臣秀吉の支配下に置かれたことを意味し、日本中から争いがなくなったことをも意味します。

一見すると平和という喜ばしい状況となったとも思えるのですが、必ずしもそうではありません。

なぜなら、争いがなくなってしまうと、それまで腕っぷしで出世を重ねてきた支配階層である大名・その配下である武士・さらにその下層に位置する足軽などの存在価値が失われてしまうからです。

また、争いがなくなって存在価値を失った大名・武士・足軽がリストラされる事態が生じると、そのような事態をもたらした豊臣政権への不平不満が高まり、大規模な反乱へと進展していく可能性が出てきます。

歴史上、武力で国内統一を果たした者は、このような反乱を可能性を未然に防ぐために反乱可能性者を次々と粛清していくか(秦の始皇帝・漢の劉邦など)、政治システムを大転換するか(江戸幕府の徳川家康など)、新たな敵を創設するか(マケドニアのアレキサンダー・モンゴル帝国のチンギスハンなど)などの抜本的な対策を行ってきました。

このうち豊臣秀吉が選択したのは、新たな敵を創設することでした。

そこで、豊臣秀吉は、天正19年(1591年)8月23日、北京遷都を最終目的とする「唐入り」と称する明国遠征への決意表明をし、その旨が諸大名に発表しました。

その後に始まった侵攻戦(文禄の役)では、釜山攻略戦から始まり、日本軍が快進撃を続けて漢城や平壌などの朝鮮半島の主要都市を次々と攻略していったのですが、明国軍の参戦により潮目が変わります。

唐入りの前提として朝鮮半島全域支配を目指していた日本軍に対し、明国軍が敵対したことで侵攻の足が止まっただけでなく、平壌城を奪還されるなどして前線を押し戻されて行きました。

こうなると戦いは消耗戦となり、現地で戦いを続ける将兵に不満が溜まっていきます。

もっとも、消耗戦による疲弊は明国側も同様であり、最終的には、明国側・日本側の現地担当者が、互いに相手方が降伏したとすることで自国の為政者をたばかることにより何とか文禄の役講和交渉を成功させて戦いが終わります。

秀次事件に起因する反目(1595年)

他方、日本国内では、天正19年(1591年)12月27日に関白職を譲られたことにより、豊臣秀吉の甥である豊臣秀次が豊臣政権の後継者となることに決まっていたのですが、文禄2年(1593年)8月3日に豊臣秀吉の側室・茶々が豊臣秀吉の子(拾)を産んだことで事態が急変します。

豊臣秀吉は、一旦は、豊臣秀次を豊臣政権の後継者と定めていたのですが、拾が成長していくに従って心変わりが起き始め、甥ではなく息子に豊臣政権を継がせたいとの気持ちが大きくなっていきました。

そして、豊臣秀吉は、文禄4年(1595年)6月20日、天皇の侍医であった曲直瀬道三が同時に病を患った後陽成天皇の診察より豊臣秀次の診察を優先した事件を問題視し、豊臣秀次に対して高野山への蟄居処分を言い渡してしまいます。

その後、高野山に入った豊臣秀次は、同年7月15日に同地で切腹してしまいました(豊臣秀吉の切腹命令だったのが、謀反を疑われた豊臣秀次が真実を訴えるために自発的に切腹したのかは不明)。

また、豊臣秀吉は、後の拾への家督相続への妨げになる可能性を排除するため、同年8月2日、京の三条河原に男児(4名)、女児、側室・侍女・乳母ら計39名を集めてその全員斬首して後顧の憂いを断つこととしたのです。

通常、謀反があった場合、その関係者男子(男児を含む)は処刑されるのですが、妻や女児は出家させるなどして命は助けられるのが一般的です。

ところが、豊臣秀吉は、このときはこの一般論を無視して女性を含めて豊臣秀次に関係する者を悉く無惨な方法で処刑したのです。

この点、豊臣秀次は、次期天下人確定者でしたので、有力大名を含めた各界の有力者から近しい者を妻として貰い受けている状態でしたので、豊臣秀吉が惨殺した女性達は、これらの有力者の関係者だったのです。

当然ですが、この豊臣秀吉の判断は、家族を無残に殺された多くの有力者を敵に回す下地となってしまいます。

再度の唐入り指示による更なる不満

文禄の役終結後の文禄5年(1596年)、明国から正式な使節が派遣されたのですが、これを迎えた豊臣秀吉は、同使節から、明皇帝が豊臣秀吉を日本国王として認めて金員を授ける、勘合貿易は認めないとする意向が伝えられました。

この話を聞いた豊臣秀吉は、降伏したと聞かされていた明国が実は降伏しておらず、そればかりか明国側では豊臣秀吉が降伏したこととなっていることを知らされます。

困惑した豊臣秀吉は、実務担当者であった小西行長を呼び出してその理由を問い質したところ、小西行長から日明双方の実務担当者においてお互いの国の為政者に相手国が降伏したとする虚偽報告をすることで文禄の役の講和交渉を進めていたと聞かされます。

まさかそのような話になっているとは知らなかった豊臣秀吉は、騙されていたことを知って激怒します。

怒りが収まらない豊臣秀吉は、使者を明国に送り返すと共に、汚名を晴らすため諸大名に対して再度の唐入り(朝鮮出兵)準備を命じます。

この結果、2度目の唐入りの準備が進められることとなったのですが、それまでの消耗戦の傷が癒えていない将兵からの豊臣政権に対する不満はさらに高まっていきました。

慶長伏見地震発生

予兆(群発地震)

すぐさま急ピッチで再度の唐入り(朝鮮出兵)の準備が整えられていったのですが、文禄5年(1596年)閏7月9日に慶長伊予地震、その3日後の同年閏7月12日に慶長豊後地震が発生し、国内に大きな被害が生じます(いずれもマグニチュード7.0程度と推定)。

なお、この頃の西日本では、大小の地震が頻発していたため、豊臣秀吉も「なまつ大事」とし伏見城などの地震対策に力を入れていたところでした。

慶長伏見地震発生(1596年閏7月12日)

そんな中、同年閏7月12日子の刻ころ(深夜から13日にかけて)、豊臣秀吉がいる山城国伏見(現在の京都市伏見区相当地域)付近でもマグニチュード7.5前後・最大震度6と言われる大地震が発生しました(慶長伏見地震)。なお、この大地震は、有馬高槻断層帯と六甲淡路島断層帯を震源断層として発生した内陸地殻内地震(直下型地震)と考えられており、 震源が豊予海峡を挟んで近いことから直前の2つの大地震に誘発された連動型地震である可能性が指摘されています。

慶長伏見地震発生時の豊臣秀吉の動静

伏見城内の御殿にて裸で寝ていた豊臣秀吉は、慶長伏見地震の激震で目を覚まします。

そして、すぐに傍らで寝ていた拾(豊臣秀頼)を抱きかかえて御殿から飛び出した庭に出ました。なお、この後、豊臣秀吉が寝ていた御殿はしばらくして倒壊しているため(日本西教史)、このときの豊臣秀吉の判断は正解でした。

この地震により伏見城は台所一棟を残して全壊し、天守も二階より上の部分がゆり落されるという被害を受けたのですが(板坂朴斎覚書)、豊臣秀吉はなんとか命を取り留めます。

他方で、慶長伏見地震発生当時、2度目の唐入りを予定していた豊臣秀吉は、明国の使者に日本の国力を見せつけるために伏見城内に日本中から美女を集めていたところだったのですが、伏見城二の丸所在の長屋に押し込められていた美女達は、長屋の倒壊によりその多くが圧死するに至るなど、伏見城内において数百人(日本西教史では700人、伊達治家記録では50人とされ人数は未確定)の死者が出るという大惨事となりました。

豊臣秀吉が木幡山に移る(1596年閏7月13日)

夜が明けると、豊臣秀吉の下に慶長伏見地震の甚大な被害報告が次々と届きます。

また、火災こそ起きなかったものの指月伏見城も大きく崩れ、城内だけで600人もの人が圧死してしまったことがわかりました。

この惨状に恐怖した豊臣秀吉は、倒壊した指月伏見城を放棄し、指月伏見城北東約1kmの場所にある高台(木幡山)に仮の小屋を造り、そこで避難生活を送ることとします。

各地の被害状況

慶長伏見地震は、当然ですが伏見城にのみ被害をもたらしたわけではありません。

豊臣秀吉天下統一後の安定期に起こった地震であったためその様子は数々の古文書に事細かに記載されており、その被害は、京阪神から淡路島にかけての広い地域に及び、さらには讃岐国(現在の香川県高松市)にまで及んだことが明らかとなっています(讃岐一宮盛衰記)。

特に京の被害が大きく、当時の京の人口は40万人程度であったと考えられているところ、慶長伏見地震によりそのうちの約4万5000人が犠牲となったといわれています(地震雑纂)。

また、慶長伏見地震に起因する余震も長く続いたこともあって東寺・天龍寺・二尊院・大覚寺などの様々な建物が倒壊し、後陽成天皇から一般の民衆まで多くが屋外で生活せざるを得なくなってしまいました。

さらには、豊臣秀吉が建立させた方広寺大仏殿は無事であったものの、あわせて造立させた方広寺大仏(京の大仏)も、工期短縮のために木造で造立したことが裏目に出て胸が崩れ・左手が落ち・全身にひび割れが入るなどの様々な損壊が生じました(義演准后日記)。

損壊した方広寺大仏は、畳表で覆い隠されて人目につかないようにした状態で放置されたのですが、豊臣秀吉は、損壊した方広寺大仏を見て自身の身すら守れぬ大仏が人びとを救えるはずもないと憤り、怒りのあまり大仏の眉間に矢を放ったと伝えられています。

その後、豊臣秀吉が、解体を命じたことにより、方広寺大仏は解体処分とされてしまいました(義演准后日記・慶長2年5月23日条、ぺドウロ・ゴメス書簡)。

慶長地震による唐入出兵延期

以上のような大規模被害を受けた豊臣政権では、唐入りどころの騒ぎではなくなり、2度目の唐入り作戦は延期とされて国内復興に取り掛かることとされました。

また、文禄5年(1596年)閏7月18日に行われる予定であった明国使節を招いての馬揃えも中止とされました(慶長記)。

慶長伏見地震発生後

木幡山伏見城築城開始(1596年閏7月15日)

甚大な被害を目の当たりにして木幡山に避難した豊臣秀吉でしたが、その直後に明らかに誤った命令を下します。

被害地域の復興に先駆けて、自身が仮住まいの地としていた木幡山に第2の伏見城を築城するよう指示したのです。

この点、指月伏見城では、城内が崩壊したものの火災が発生しなかったために櫓や殿舎の木材などが再利用可能な状態でした。

そこで、同年閏7月15日、指月伏見城から資材の多くを運び込んで再利用することにより木幡山伏見城の築城が始まります(当代記)。なお、余りに早いタイミングでの工事スタートであるため、従前から木幡山移転計画があり縄張りが既に確定していたものと思料されます。

移築を含め建設資材を再利用することで始まった木幡山伏見城築城工事は急ピッチで進められ、同城本丸は同年10月10日に完成し、その後慶長2年(1597年)5月には天守閣と殿舎が、同年10月には茶亭も完成しています。

一般民衆の支持を失った伏見城再建

この木幡山伏見城築城は、諸大名・民衆の大きな不興を買います。

大地震により大きな被害を追ったのは豊臣秀吉だけではなかったからです。

為政者としては、本来優先すべきは領内の震災復興であり、城の復興など後回しでよかったはずです。

しかも、その内容は、地震で倒壊したそれまでの伏見城(指月伏見城)よりも豪華な伏見城(木幡山伏見城)の建築を命じるというものであり、震災により被害を被った被害者に鞭打つものであったため、民衆の心が豊臣政権から大きく離れてしまいました。

ましてや、このときの伏見城再建は、唐入りのための名護屋城改修・方広寺建設・大坂城整備・聚楽第破却などの大型土木工事が続けられていた中で行われたものであり、日本中でこれに対する不満は爆発寸前のところにまで達していました。

このことは、後に紀州徳川家から将軍家に献上された書物である「創業記考異」によると、朝鮮征伐により武士領民が苦しむ中で伏見城の再建で困窮した民に豊臣家の滅亡を願わないものはなく、これらのことにより人望は徳川家康に帰したと記載されています。

なお、慶長伏見地震の被害を契機として同年10月27日、それまでの文禄から「慶長」に改元されています。

慶長の役を強行

また、この失策に加えて、豊臣秀吉は、まだまだ震災復興中の慶長2年(1597年)2月22日に、再度の唐入り(朝鮮出兵)のための陣立を立案し、家臣団・人民の不満を抱えたまま無理な対外作戦を始めてしまいました。

唐入りについては多くの将兵が長期間に亘って朝鮮半島に渡って行きますので、兵站に要する負担は相当なものになります。

当然ですが、豊臣家において震災復興や国内事業に充てる費用は削られていきます。

この点は諸大名も同様であり、全国で年貢徴収強化や治安悪化などが発生し、日本国内の統治が乱れていきました。

これらの負担は豊臣政権への不満に繋がり、次第に豊臣政権の求心力が失われていきました。

豊臣秀吉死後の豊臣家

以上の豊臣家に対する不満も、一代で日本全国を統一したカリスマである豊臣秀吉存命中は抑えつけられていました。

ところが、慶長3年(1598年)8月18日に豊臣秀吉が死去して為政者が幼い豊臣秀頼に引き継がれると、この不満を抑え続けることは出来なくなってしまいます。

この結果、豊臣秀吉の死後、豊臣政権内で豊臣秀吉存命中の政策の継続の是非を巡って大名間の対立が起こり、ここに後継体制への不安が合わさって政権の崩壊が進んでいくこととなってしまいます。

そして、その後、豊臣政権が終結し、諸大名の不満を吸い上げることに成功した徳川家の天下となっていくのですが、長くなりますので以降の話は別稿に委ねたいと思います。

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