露寇事件(文化露寇)は、19世紀初めにロシア帝国から日本へ派遣された外交使節ニコライ・レザノフが、長期間軟禁と通商要求拒否に対する報復として部下に命じたことにより勃発したロシア兵による日本北方拠点攻撃事件です。
それまでにロシアの脅威に備えて東蝦夷地(北海道の太平洋側と北方領土)を幕領化していた江戸幕府が、太平洋側の防衛だけでは不十分であると判断してさらに西蝦夷地(北海道の日本海側と樺太)をも幕領化するに至るきっかけを作った事件でもあります。
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露寇事件に至る経緯
ロシア船の接近
17世紀にはじまった鎖国政策により海外情勢から隔離されていた日本に対し、世界の動きは目覚ましく、1776年7月にアメリカがイギリスから独立し、1795年にはフランス革命により王政と旧体制が崩壊するなど西欧諸国では政治構造の大変革が起こっていました。
また、これに加えて、18世紀半から19世紀にかけて、一連の産業の変革と石炭利用によるエネルギー革命が起こり、これにともなう技術革新によって社会構造の大変革が起こりました(産業革命)。
こうした世界情勢の中、発展した技術に起因する植民地政策・販路拡大政策により各国が極東にも進出してくるようになり、18世紀後半頃からは日本にも外国艦船が接近してきます。
この頃にまず最初に近づいてきたのは、地理的に近いロシア帝国でした。
東に向かって勢力を拡大させてベーリング海に到達したロシア帝国は、中国向け商品となる毛皮を獲るためオホーツク海・北太平洋においてラッコの捕獲を始めます。
そして、獲れた毛皮を中国に運ぶための中継地点となる蝦夷地の優位性に目をつけて日本との通商の検討を始めます(このころのロシアは蝦夷地を日本領として認識していました。)。
ラクスマンの根室来航(1792年)
それまでにも何度も日本近海にロシア船が現れていたのですが、最初に大問題となったのはラクスマン来航でした。
当時のロシア皇帝であったエカチェリーナ2世が、寛政4年(1792年)、イルクーツク総督イワン・ピールの通商要望信書を持たせてアダム・ラクスマンを根室に派遣し、漂流民となって保護されていた伊勢船頭の大黒屋光太夫ら3人を引き渡すと共に、松前藩を通じて江戸幕府に通商交渉を求めます。
これに対し、江戸幕府・老中松平定信らは、漂流民3人を受け取ったものの鎖国下であるとの理由で通商要望信書は受理せず、もしどうしても通商を望むならば日本の対西欧国窓口となっている長崎に廻航するようにと指示して長崎への入港許可証である信牌を与えて時間稼ぎを行います。
信牌を受け取ったラクスマンは、一旦ロシアに戻ったのですが、その後1796年11月16日にエカチェリーナ2世が死去するという混乱があり、ラクスマン自身が長崎に向かうことはできませんでした。
イギリス船の内浦湾内停泊(1796年)
その後、寛政8年(1796年)8月、イギリスの海軍士官ウィリアム・ロバート・ブロートンの指揮するプロヴィデンス号が蝦夷地の内浦湾内に停泊する事件が起こります。
江戸幕府は、ロシア船に続いてイギリス船が蝦夷地に現れたことに衝撃を受け、急ぎ見分役を松前に派遣して事実関係の調査を行います。
調査の結果、プロヴィデンス号は測量中に漂流しただけであったことが明らかとなります。
そこで、プロヴィデンス号が同所にいたこと自体は特別な問題とならなかったのですが、他方で、イギリス船が日本近海の測量を実施していたことは江戸幕府内で北方防衛上の大問題となります。
蝦夷地の日本領化
以上のように、日本近海に頻繁に外国船が現れること、特にロシアによる南下政策が警戒されることなどから国内からも海防の重要性を指摘する声が上がります。
そして、特に問題となったのが頻繁に外国船が接近してくる蝦夷地でした。なお、ここでいう蝦夷地とは、松前藩の城下町松前を中心とする和人地を除く北海道本島・樺太島・千島列島を含む周辺の島々を合わせた地域の総称です。ロシアも日本(江戸幕府)のいずれも蝦夷地を日本領と認識していたのですが、その形状すら判明しておらず、当然ロシアと日本との国境戦も不明確でした。
それまでの蝦夷地は、石高制を採用していた江戸幕府にとっては寒すぎて米が収穫できない無価値地域と考えて松前藩知行地以外の場所をアイヌ人が居住する無政府地帯という扱いにしていたのですが、寛政9年(1797年)9月に幕臣で探検家でもあった近藤重蔵が大学頭・林述斎を通じて行った江戸幕府への海防強化提言(江戸湾の脆弱性や蝦夷地の無防備性など)などにより、日本領として支配権を及ぼしていこうとする方向性が示されます。
(1)蝦夷地調査
そして、蝦夷地の幕領化の前提としてまず行われることとなったのが蝦夷地の調査でした。
実体がわからないのに支配などできるはずがないからです。
それまでにも天明5年(1785年)から最上徳内が蝦夷地の調査を行っていたのですが、寛政10年(1798年)からは近藤重蔵らもこれに加わって蝦夷地に渡るなどしてより詳細な調査が始まります。
(2)国後島・択捉島の実効支配(1799年)
そして、国後島や択捉島を発見・調査した上で、色丹島に船の避難港を設けたり、野付半島・国後島間の航路開発をしたり、国後島内の道路開発事業を進めたりするなどして、ロシアに先んじて北方領土の実効支配を急ぎ進めていきます。
また、寛政10年(1798年)に択捉島南端に近いタンネモイに大日本恵登呂府と彫られた標柱を建てたり、寛政11年(1799年)には海運業を営んでいた高田屋嘉兵衛に国後・択捉間の航路(択捉航路)を開かせたりするなどして、同地が日本領であることを対外的にも明示していきます。
(3)東蝦夷地の仮上知(1799年)
そして、江戸幕府は、寛政11年(1799年)、最上徳内・近藤重蔵らの調査の結果明らかとなった実情を基に北辺警固目的にて松前藩が治めていた東蝦夷地(北海道太平洋岸および北方領土や得撫郡域)の仮知行召し上げ(仮上知)を行い蝦夷地を幕領化します。
その上で、東北各藩から兵を徴用して蝦夷地に派遣し、その防衛を図ります。
(4)伊能忠敬の蝦夷地測量(1800年)
また、蝦夷地統治のため、寛政11年(1799年)から堀田仁助による蝦夷地の地図作成が開始されます。
さらに、寛政12年(1800年)閏4月14日に江戸幕府から正式に蝦夷地測量の命を受けた伊能忠敬は、同年4月19日に蝦夷地に向かって出発し、同年5月29日から函館を出発地とする蝦夷地測量を開始します。
この後、伊能忠敬は、117日間かけて蝦夷地の測量データをとり、同年11月上旬からこれを基にして地図の製作にかかり約20日間を費やして地図を完成させます。
そして、同年12月21日、完成した蝦夷地の地図を下勘定所に提出しています。
(5)アイヌ民族への和風化政策
また、蝦夷地を調査していた近藤重蔵が、寛政12年(1800年)4月、国後島のトマリにおいてアイヌの乙名たちに酒やタバコを振舞うなどし、また同年閏4月には択捉島に渡って振別郡オイト(老門)に会所を開き、さらに同年6月には恵登呂府全島の人別帳を作成するなどしてアイヌ民族の和風化政策を進めています。
さらに、同年7月には再び択捉島に渡って日本の風俗を広める活動に従事し、択捉島北端のカモイワッカ岬に大日本恵登呂府と彫られた標柱を建てて同地が日本領であることを対外的に明示しています。
その後、近藤重蔵は、得撫島に渡って踏査しています。
(6)東西蝦夷地の永久上知(1802年)
江戸幕府は、享和2年(1802年)2月に東蝦夷地を永久上知とし、上箱館に蝦夷奉行(同年5月箱館奉行に改称)を設置して蝦夷地近辺の警固強化と東蝦夷地の幕領化を進めていきます。
また、同年7月24日には仮上知とされていた東蝦夷地が永久上知とされます。
また、文化4年(1807年)2月22日には、西蝦夷地(北海道日本海側と樺太)も上知がなされ、あくまでも江戸幕府の主張としてですが、蝦夷地のうち現在の北海道と北方領土全体を幕領として日本に組み込まれることとなりました。
樺太の調査
また、江戸幕府は、間宮林蔵を樺太に派遣して調査を進め、蝦夷地のうちの樺太への進出も始めます。
当然ですが、樺太の幕領化の前提としても、まず行われることとなったのが樺太の調査でした。
江戸幕府は、寛政11年(1799年)に蝦夷地に渡って以降、新道開発・植林・測量などに従事していた間宮林蔵を樺太に派遣し、同地の調査を開始させます。
なお、間宮林蔵は、樺太(サハリン島) がユーラシア大陸(北満洲・沿海地方、ハバロフスク地方)と海で隔たれた島であったことを確認したことにより、その間にある海峡が「間宮海峡」と名付けられ、世界地図に名を残すただ一人の日本人となっています。
また、この時点で現在の北海道と北方四島が日本領であることは確定していたのですが、得撫島と樺太については日本とロシアの国境があいまいなままでありその確定は1875年の千島樺太交換条約によることとなります。
レザノフの長崎来航(1804年)
以上のように、現在の北海道全域・北方領土を支配下に治めた上で樺太にまで進出していた日本(江戸幕府)に対し、南進政策を進めるロシアが直接アプローチしてくるという事件が長崎で起こります。
ロシア帝国外交官であったレザノフが、文化元年(1804年)9月、ラクスマンに寛政4年(1792年)に根室で渡された信牌(長崎への通行許可証)を携え、正式な遣日使節としてロシア皇帝アレクサンドル1世の親書を持って(さらに、日本に返還するための日本人漂流民の津太夫一行を連れて)長崎・出島に来航したのです。
そして、長崎に入ったレザノフは、正式な遣日使節代表として日本に対して通商を要求します。
この要求に対し、長崎奉行が江戸に使者を派遣してレザノフの要求を伝えてそれに対する江戸幕府の回答を長崎まで使者を通じて受け取るということを繰り返していたために交渉にとても長い時間がかかります。
約半年前間もの長きに亘って長崎と江戸とで使者を通じてやり取りしていたのですが、最終的には、江戸幕府が「鎖国は先祖以来の祖法である」ことを理由としてレザノフの通商要求(ロシアとの国交)を拒絶します。
この江戸幕府の回答に対し、レザノフは、出島において半年間にも及ぶ軟禁状態を強いられた上、最終的に要求を拒絶されたとして烈火のごとく怒ります。
その上で、レザノフは、全く検討の余地を示さない日本に対し、武力をもって開国を要求する以外に道はないと判断します。
露寇事件
樺太の松前藩居留地攻撃(1806年9月)
以上のとおり、成果が得られないまま長崎・出島から出航することとなったレザノフですが、出航後もその怒りは全く収まりませんでした。
そこで、レザノフは、部下であるニコライ・フヴォストフに対し、報復として、当時幕領(日本領)と考えられていた樺太や択捉島などへの攻撃を命じます。
この命を受けたニコライ・フヴォストフは、まずは文化3年(1806年)9月11日、短艇に20人のロシア兵を乗せて樺太・久春古丹に上陸させ、銃で威嚇して1名のアイヌ人青年を拉致します。
その上で、同年9月13日、再び30人の兵を再上陸させ、運上屋の番人4名を捕えると共に米六百俵と雑貨を略奪した上で11軒の家屋・魚網・船などに火を放ち、前日拉致した青年を解放して帰船させます。
また、その後、ニコライ・フヴォストフらは、同年9月17日、目的を達成して樺太を後にします。
なお、ロシア兵の放火によって船を失った松前藩守備隊では、樺太から海を渡る手段が失われていたために、松前藩や江戸幕府に被害報告ができず、翌文化4年(1807年)4月になってようやく被害報告をするに至っています。
択捉島の幕府会所攻撃(1807年4月)
その後、文化4年(1807年)4月23日にロシア船2隻が択捉島の西側の内保湾に入港し、択捉島に駐留していた幕府軍を攻撃します。
この攻撃を受け、番人は急ぎ択捉島紗那にあった幕府会所に通報します。
択捉島攻撃の報を聞いた箱館奉行配下の役人・関谷茂八郎は、急ぎ幕府会所に詰めていた弘前藩・盛岡藩兵を率いて内保に向かったのですが、その途中で兵を率いて内保まで海路で向かうがその途中、内保の盛岡藩の番屋が襲撃され、中川五郎治ら番人5名が捕えられた上、米・塩・什器・衣服を略奪して火を放ち、既に出帆したとの報を受け取ります。
そこで、関谷茂八郎は、内保行きを取りやめて紗那に戻り、紗那の防備を固めることとします。
これに対し、同年4月29日、内保を荒らしたロシア船が紗那に向けて進んできました。
このロシア船の動きに対し、弘前藩や盛岡藩兵の兵は即時交戦を主張したのですが、幕吏達はまずは対話の機会を探るとして箱館奉行配下の通訳・川口陽介に白旗を振らせて短艇で上陸しようとするロシア兵を迎え入れようとします。
もっとも、ロシア兵はこのような日本側の行動を無視して根室に上陸した後、即座に日本側に銃撃をしかけたため、通訳の川口陽介の股部を銃撃されて負傷します。
このロシア側の動きを見て幕吏側も対話の困難を認め、弘前藩兵・盛岡藩兵に応戦を命じるも、初動の遅れから日本側は苦戦します。
その後、同日夕方になって上陸していたロシア兵が船に戻ると、今度はロシア船から紗那の幕府会所に対する艦砲射撃が始まります。
艦砲射撃を受けて戦意を失った幕府方は、戸田又太夫・谷茂八郎の判断により紗那を捨てて留別に撤退することに決まります。なお、このとき幕吏の間宮林蔵や久保田見達は徹底抗戦を主張したのですが退けられています。
留別へ向けて撤退していた幕吏でしたが、途中の野営陣地で戸田又太夫が自害し、残った一行は振別に到着後に幾人かを箱館に送還した上、弘前藩兵・南部藩兵を振別に駐屯させて、留別に向かいました。
他方、幕府会所に詰めていた弘前藩・盛岡藩兵らが撤退したことを見たロシア側は、同年5月1日に再び上陸し、日本側が去った紗那の幕府会所に入って倉庫を破り、米・酒・雑貨・武器・金屏風その他の物を略奪した後で火を放ち幕府会所を焼き尽くしてしまします。
そして、翌同年5月2日、再び上陸したロシア兵は、負傷して動けなくなっていた南部藩砲術師・大村治五平を捕虜にして、同年5月3日にロシア船を出帆させて紗那を後にしています。
蝦夷地全域を幕府直轄領(1807年)
以上の2度に亘るロシア人からの攻撃は元寇以来500年ぶりの外国からの攻撃であり、平和に慣れ切っていた江戸幕府は大きな衝撃を受けます。
焦った江戸幕府は、急ぎ対外防衛策をとることを強いられます。
北方防衛が急務となった江戸幕府は、文化4年(1807年)、すでに幕領化していた東蝦夷地に加え、西蝦夷地(北海道日本海岸とオホーツク海岸および樺太)までも幕領化し、蝦夷地全域を直轄化して防衛を図ることとします。
そして、直轄化した蝦夷地全域を統括する機関として箱館奉行(蝦夷地一部の統治)を松前に移転させた上で松前奉行(蝦夷地全域の統治)に名を改めて、その下に東北諸般から集めた3000名の武士を配属させて北方防衛に当たらせます。
露寇事件終結(1808年)
蝦夷地近辺を荒らしまわっていたニコライ・フヴォストフ率いるロシア船でしたが、その攻撃はあくまでもメンツをつぶされたレザノフの命による私的報復に過ぎず、ロシア皇帝の許可を得ての作戦行動ではありませんでした。
そのため、後にニコライ・フヴォストフ率いるロシア船が蝦夷地近海を荒らしまわっていると聞かされたロシア皇帝は、日本との関係悪化を恐れて、ニコライ・フヴォストフに帰還命令を出します。
そのため、命令を受けたニコライ・フヴォストフ率いるロシア船が蝦夷地近海から撤退したことにより、露寇事件は集結します。
露寇事件後
日本の対外姿勢硬化
露寇事件により日露間の緊張が高まり、また文化5年(1808年)8月には長崎でイギリス船による侵犯事件であるフェートン号事件が勃発するなどしたため、日本の対外姿勢は一気に硬化し、文化の薪水給与令も廃止されるに至りました。
樺太への進出
そして、江戸幕府は、ロシアの脅威に備えるため、文化6年(1809年)に樺太を西蝦夷地から分立させて北蝦夷地と改称し、警備を目的として同地に東北諸藩からの出兵を命じます。
ゴローニン事件(1811年)
以上の状況を経て、日本とロシアとの関係が緊張状態となっていたのですが、文化8年(1811年)、千島列島を測量中であったロシアの軍艦ディアナ号艦長のヴァシリー・ミハイロヴィチ・ゴローニンらが、国後島に上陸したところ、松前奉行配下の役人に捕縛されるという事件が起こります。
ゴローニンの身柄拘束に対し、文化9年(1812年)8月、ロシア艦ディアナ号が国後島に来航して日露間でゴローニンの身柄交換交渉が行われたのですが、交渉中に日本側の拉致被害者である中川五郎治と歓喜丸漂流民6名が脱走したために交渉が決裂します。
交渉決裂により帰途についたディアナ号艦長ピョートル・リコルドは、その報復として附近を航行していた歓世丸を襲撃して高田屋嘉兵衛やアイヌ船員ら数名を拉致し、カムチャッカ半島に強制連行して文化10年(1813年)年6月まで抑留します。
ペトロパブロフスクに連行された高田屋嘉兵衛たちは、役所を改造した宿舎で彼を拿捕したディアナ号副艦長のピョートル・リコルドと同居して仲良くなり、協力して事件解決に尽力することとなります。
そして、同年9月26日、約2年3ヶ月も抑留されていたゴローニンが解放され、事件解決に至ります(ゴローニン事件)。
その後の蝦夷地
ゴローニン事件の平和的解決などにより、日露関係に改善が見られたため、ロシアの脅威が薄れたと判断した江戸幕府は、財政負担軽減のために蝦夷地全域直轄化政策を転換し、文政4年(1821年)12月7日に蝦夷地の大半を松前藩へと返却します。
なお、その後、幕末期の安政2年(1855年)に諸外国との緊張が再び高まったとして再び蝦夷地の直轄化がなされています。