幕末京の土佐藩ゆかりの地を歩く

京都を観光するに際して、特定の目的をもって回ってみると歴史を体感出来て興味深いものです。例えば、幕末の英雄・坂本龍馬が所属した土佐藩ゆかりの地を巡ってみてもいいかもしれません。

そこで、本稿では、1日で巡れる幕末の土佐藩ゆかりの地紹介したいと思いますので、観光の一助としていただければ幸いです。

土佐藩邸近辺の土佐藩ゆかりの地

土佐藩邸跡地石碑

土佐藩邸は、元禄3年(1690年)に築かれた京における連絡事務所である土佐藩の屋敷であり、高瀬川の西側から河原町通りの間に設けられていました。

高瀬川沿いにも門が設けられ、またその門に入るために高瀬川に土佐橋が架けられていました(現在石碑が建てられている場所は、当時の土佐藩邸の南西角部と推定されます。)。

土佐稲荷(岬神社)

土佐藩邸の西側に鎮座する岬神社(土佐稲荷)は、倉稲魂命と石栄神の二柱を祀る神社であり、元々は室町幕府初期に鴨川中洲の岬(突端部)に建てられた祠が始まりとされています。

その後、数度の移転を経て、江戸時代初期に土佐藩邸が建てられた際に、土佐藩邸内に移されて鎮守社として祀られることとなりました。

以降、土佐藩士のみならず、先斗町・木屋町などの町衆の信仰を集め、土佐藩邸内にあったにもかかわらず町衆の参拝のための通路が敷設されたほどでした。

明治維新後に土佐藩邸が売却されると、岬神社(土佐稲荷)の社殿も移転させられたのですが、大正2年(1913年)に現在の場所に社殿が建立され、現在に至ります。

酢屋(坂本龍馬寓居地跡)

中岡慎太郎寓居地跡石碑

武市半平太寓居地跡石碑

吉村寅太郎寓居地跡石碑

近江屋跡石碑(坂本龍馬・中岡慎太郎遭難地跡)

近江屋は、現在の四条河原町一帯に土地を有する名家・井口家が営む醤油屋であり、幕末の井口家当主であった井口新助が、土佐藩の出入商人となっていたこともあって、坂本龍馬や岩崎弥太郎などの土佐藩士を支援し、部屋の提供や金銭的援助等をしていました。

そのため、元々海援隊本部があった酢屋を下宿としていた坂本龍馬が、寺田屋事件により幕府から命を狙われたとして近江屋に移り生活の本拠としていました。

ところが、慶応3年(1867年)11月15日夕刻、近江屋を訪ねてきた盟友・中岡慎太郎と政局について論じていたところ、十津川郷士と称する男たちに襲撃を受けて、坂本龍馬は即死に至り(享年33歳)、中岡慎太郎も2日後に死亡するという(享年30歳)、有名な近江屋事件の現場となりました。

東山近辺の土佐藩ゆかりの地

明保野亭跡石碑

明保野亭は、倒幕の志士による密議にも多く利用された料亭・旅宿でした。坂本龍馬の常宿の1つであったとも言われています。

ここでは、新撰組隊士と会津藩士が、元治元年(1864年)6月10日、池田屋事件の際に逃亡した長州系浪士探索中に明保野亭に踏み込み、逃げようとした武士を背後から手槍で突き後ろ傷を負わせるという事件が起こります(明保野亭事件)。

このとき、逃げた武士が、長州藩士ではなく土佐藩士の麻田時太郎であると名乗り確認が取れたため解放されて土佐藩邸に引き取られることとなったのですが、逃亡した麻田時太郎が武士にあるまじき行為として土佐藩に切腹を命じられ、他方、土佐藩の面子を立てて事態を収拾するために両成敗として会津藩士・柴司も切腹を命じられて果てています。

現在も東山区清水三年坂(産寧坂)に明保野亭の店舗と石碑が現存していますが、事件があった当時の明保野亭は、現在よりもやや北東に位置していたとされています。

京都霊山護国神社

京都霊山護国神社は、明治天皇の発案により創建された日本初の招魂社であり、坂本龍馬・中岡慎太郎をはじめとする維新志士たちの墓が設置されています。

なお、坂本龍馬・中岡慎太郎と共に、近江屋事件で亡くなった山田藤吉もまた京都霊山護国神社に埋葬されています。

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