日清戦争は、明治27年(1894年)7月25日に勃発した日本と清国の間の戦争なのですが、何を目的として起こったかについては意外に知られていません。
全ての戦争が外交の延長上にあるものであって達成すべき戦略目標(政治目標)があり、当然日清戦争にもそれがあります。
では、日本と清国は何を求めて戦ったのでしょうか。
結論から先に述べると、宗主国として朝鮮を単独で支配したい清国と、朝鮮を清国の支配下から独立させて自らの支配下に置きたい日本との間における朝鮮半島を巡る利権が双方の目的です。
そして、この朝鮮半島の権益を巡る日清の野望が李氏朝鮮政権下で起こった甲午農民戦争をきっかけとして具体化し、朝鮮半島に駐留するに至った両軍が衝突することで大きな戦争に至ったのです。
本稿では、この日清戦争に至る日清両国の目的及びそこに至る経緯について、日清両国の朝鮮半島に対する支配意図を主たる内容として説明していきたいと思います。
【目次(タップ可)】
日清戦争の前段階となる東アジア政治体制
東アジアにおける中国冊封体制(~1869年)
日本は拒否していたのですが、19世紀後半頃までの東アジア各国は、中国を宗主国とする冊封体制の下にありました。
そして、朝鮮半島もまたこの構造下にあり、王である李氏が1637年に清国から朝鮮国王として封ぜられて中国の冊封体制下に組み込まれていたため、朝鮮は清国の属国扱いとなっていたのです。
中国冊封体制を拒否する日本
もっとも、日本は、東アジアに位置していながらこの中国冊封の受け入れを是としませんでした。
古くは、ヤマト政権下の推古天皇15年(607年)に、ときの摂政であった厩戸皇子(聖徳太子)が、「日出処天子至書日没処天子無恙云々」と記載した国書を遣隋使に預けて隋の皇帝・煬帝に届けさせるなど(隋書倭国伝)、古くから天子は中国皇帝しか認めないとする中華思想を否認して中国に対して対等外交を求めるなどしてきました。
そのため、中国冊封体制で成立していた東アジア秩序の中で、日本は中国冊封体制外にある異質な国となっていました。
日本が列強条約体制に組み込まれる
(1)欧米列強の近代国際法秩序という考え方
時代が下って19世紀になると、産業革命を成功させた欧米列強各国が東アジアに進出してくるようになり、前記のような中国冊封体制+αという東アジア秩序に風穴を開けるようになります。
19世紀(江戸時代末期)頃の欧米では、資本主義を確立させて経済力を強めた諸国が、その経済力を基に高めた軍事力をもって世界に進出していったのですが(帝国主義)、これらの欧米列強各国は、世界進出の根拠として西洋中心の近代国際法秩序(万国公法体制)という勝手な考え方を編み出しました。
この欧米列強による勝手な概念では、当時の世界中の国々を文明国(欧米列強)・半文明国(日本・清・朝鮮・トルコ・タイなど)・未開国(アフリカ諸国など)に分けて区分していました。
その上で、文明国は、半文明国に対しては文明の差による優越的地位にあると判断して半文明国に対して不平等条約を押し付け、未開国に対しては植民地化をするという行動正当化し、繰り返すようになります。
そして、欧米列強は、この勝手な法秩序を東アジアにも押し付けようとし始めます。
(2)中国が不平等条約締結(1842年)
まず、最初に欧米列強がアプローチを仕掛けたのは、当時の東アジア最強国であった清国でした。
当時の清国に対しては、イギリスがインドで製造したアヘンを清国に輸出して巨額の利益を得ていたのですが、アヘン中毒患者が続出したことから清国がアヘンの全面禁輸を断行した上でイギリス商人の保有するアヘンを没収・処分したため、1840年、これに反発したイギリスとの間で戦争にまで発展します(アヘン戦争)
アヘン戦争は1842年にイギリスの勝利に終わったのですが、イギリスは、清国を半文明国と考えていたため、清国に香港の割譲などをその内容とする不平等条約(南京条約)を押し付ける結果となりました。
これにより、中国は欧米列強との関係では列強条約体制に一部組み込まれることとなったのですが、東アジアだけをみると未だに冊封体制を失ったわけではなく、2つの異なる制度が併存するという異質な体制となってしまいました。
(3)日本が不平等条約締結(1854年~)
また、欧米列強諸国は、半文明国と考えていたため、幕末日本に対してもこの理を押し付けることとします(日本を半文明国と考えていましたので、植民地化するのではなく、不平等条約を押し付けるという手段をとることとしたのです。)。
この欧米列強の考え方の根本にあったのは、文明国でない国では法整備が進んでいないことから該当国との関係では文明国人の安全が保障されないため、条約により文明国の法理論を適用しないと危ないと考えていたのでした。
なお、ここでいう不平等条約とは、主なものとして①片務的最恵国待遇、②関税自主権の喪失、③治外法権の承認という3つの条項を認めさせられた条約をいいます。
前記不平等条項のうち、日本が最初に締結させられたのは、江戸幕府が、嘉永7年(1854年)3月3日に来航したマシュー・ペリーとの間で締結させられた日米和親条約です。
同条約は、アメリカが軍事力を示して江戸幕府を開国させ、貿易を強制することとした条約なのですが、その第9条に米国に、他国が日本との条約で得た権利は、自動的にアメリカにも適用されてその恩恵が与えられるという規定である片務的最恵国待遇を与えるとされたものでした。
アメリカと貿易が始まるということは、アメリカの人や商品が日本に上陸してくることを意味しますので、アメリカ人と日本人のトラブルが発生しますし、また商品貿易の調整も必要となります。
そこで、アメリカは、日本に対し、安政5年(1858年)、①片務的最恵国待遇、②関税自主権の喪失、③治外法権の承認を認めた通商条約(日米修好通商条約)を締結させました。
そして、同様の条約は、同年、ロシア・オランダ・イギリス・フランスとの間でも同様の通商条約(安政五カ国条約)を締結させられるに至りました。
関税自主権を喪失したことにより、輸入品は低関税で日本に流入し、また輸出品も開港場に居留する外国商人の手で操作されたことから日本の貿易が外国人に委ねられ、さらに関税収入を国庫に組み入れることも、関税による国内産業の保護・発展政策もとることができなくなりました。
また、治外法権を承認したことにより、日本に住む欧米人が罪を犯したとしても日本の法に服さずともよいこととなり、裁判官ではない領事や領事館職員による恣意的な裁判が可能となったのです。
以上の結果、日本は、外国人居留地などに居住する欧米人に対して主権がおよばず、また関税により自国産業を充分に保護することもできないという極めて不利な状況に置かれることとなりました。
その後、大政奉還により江戸幕府が滅び、明治政府が誕生します。
江戸幕府と新政府は異なる権力機構ですので、明治新政府は、江戸幕府が締結した不平等条約を白紙に戻すべく、慶応4年(1868年)1月15日、列国公使に対して、江戸幕府から外交権を引き継いだ旨と、江戸幕府が諸外国と取り結んだ条約のなかには弊害の無視できないものもあるので改正したい旨の声明を発します。
その後、明治新政府は、戊辰戦争のさなかの同年3月14日、五箇条の誓文により公議輿論の尊重と開国和親の方針を宣言しました。
その後、戊辰戦争が新政府優勢の戦況で推移すると、諸外国に明治新政府が日本の正統な政権であると認められるすようになったため、明治新政府は、明治元年12月23日(1869年2月4日)、諸外国に対して江戸幕府が結んだ条約は勅許を得ずに締結したものであることを改めて指摘し、将来的な条約改正が必要性であると通知しました。
ところが、明治新政府は、明治2年(1869年)正月、安政条約にない沿岸貿易の特権を新たにに与える内容の条約を北ドイツ連邦と結び、さらに、同年9月14日、オーストリア・ハンガリー帝国との間で、それまで各国との条約では抽象的であった不利益条項についても、列強側に有利になるよう解釈された上で、具体的かつ明確に規定した日墺修好通商航海条約を締結してしまいました。
そして、このとき締結された日墺修好通商航海条約の内容は、安政条約の片務的最恵国待遇規定により、他の欧米列強にも自動的に適用されました。
そのため、明治新政府の失態により、日本はさらなる不利益を強いられることとなってしまいました。
以上のとおり、失策を続けた日本側は、以降、この不利益を打開すべく、国を挙げた対応を強いられることとなったのです。
東アジアに2つの制度が併存
以上の経過を経て、東アジアにおいて、東アジアだけの関係では中国を頂点とする冊封体制、欧米列強諸国との関係では条約体制(近代国際法秩序)という2つの異なる制度が併存することとなりました。
この点、これらの異なる制度は、別々の場面(清国と朝貢国の2国間)で機能する場限りにおいては問題とならないのですが、多国間の問題となるととたんに問題が生じてきます。
本稿で問題となるのは、朝鮮に対して、冊封体制を維持しようとする清国と条約体制を適用させようとする日本という2つの国が異なる制度を押し付けようとしたことでした。
朝鮮半島への異なる制度の押し付け
日本から朝鮮への通告(1869年)
問題の端緒は、明治維新直後になされた日本の行動です。
明治維新を成功させて新政府を成立させた日本は、明治2年(1869年)、朝鮮に対し、新政権樹立の通告を行うと共に、日本が採用することとなった欧米列強型の条約体制に基づいた近代的な国際関係の樹立を求める国書を持つ使者を送りました。
もっとも、朝鮮は清を宗主国とする冊封体制に入って鎖国を続けていたため、この通告は、朝鮮に対しての清国の冊封体制下から離脱して条約体制下に鞍替えするようにとの提案を意味していました。
誤解を恐れずにいうと、朝鮮に対して清国と喧嘩別れするよう求める内容です。
朝鮮としては、大きな国力差がある清国に対して喧嘩を売ることなどできるはずがありませんので、中国皇帝が朝鮮に下す際に用いる「皇上」・「奉勅」などの言葉が用いられていることを理由に日本からの通告(国書の受取り)を拒否します。
その後、日本から何度も同様の国書を李氏朝鮮政府に送ったのですが、朝鮮側はその都度受け取りを拒否し続けました(書契問題)。
征韓論(1873年)
条約体制を取る日本の考え方では、正式な国書の受領を拒否することは大変無礼な行為です。
そのため、明治6年(1873年)頃には、日本国内では、朝鮮を武力で無理矢理開国させてしまおうという考え方が広まっていきます(征韓論)。
もっとも、日本国内での政争で、征韓論を唱えていた西郷隆盛や板垣退助らの留守政府組が富国強兵を優先すべきとする岩倉使節団組との政変に破れて一斉に下野することとなったため、征韓論は一旦下火となりました。
朝鮮開国(1875年)
その後も日朝間の関係は進展を見せなかったため、日本側では、膠着した協議を有利に進展させるため(朝鮮を清国支配化から離脱させた上で日本が採用した条約体制側に引き込むため)、測量や航路研究を名目として朝鮮近海に軍艦を派遣して朝鮮に圧力をかけることが検討されます。
そして、日本から2隻の軍艦(雲揚・第二丁卯)が朝鮮沿岸に派遣され、朝鮮を挑発することとなりました。
朝鮮側はこの日本側の徴発に乗ってしまい、明治8年(1875年)9月20日、朝鮮首府漢城北西岸の漢江河口に位置する江華島(現在の仁川広域市江華郡)に設置されていた砲台からこの2隻の軍艦に攻撃が加えてしまいました。
日本側は、朝鮮側から攻撃を受けたことを奇貨として、江華島砲台に対して反撃を加えて交戦状態となりました(江華島事件)。
そして、その後、日本から朝鮮側に対して先行攻撃をしてきた事実を指摘して批判し、軍事的圧力を加えた上でその責任を追及します。
その結果、日本は、朝鮮に対して日本有利の条件を認めさせることに成功し、朝鮮との間で、朝鮮を清国の冊封体制から離脱させる下地となる「朝鮮国は自主の邦にして日本国と平等の権を保有せり」と記載させた条約(日朝修好条規)締結に成功します。
こうして朝鮮取り込みの前段階を成功させたのですが、当然、これにより朝鮮を属邦と考える清国との対立が顕在化していくこととなりました。
そして、この日朝修好条規は、朝鮮国を自主の邦とする一方で、日本の治外法権を認めること・関税自主権がないなどの点で日本が欧米列強各国との間で結ばされた不平等条約と同様のものとなっていました。
また、この不平等条約に基づいて朝鮮は開国を強いられることとなり、明治8年(1875年)に釜山、明治13年(1880年)に元山、明治16年(1883年)に仁川が続けて開港することとなりました。
開国後の朝鮮の混乱
以上のように、外圧により開国を迫られた朝鮮では、清の冊封国としての立場の維持に重きをおいて事大交隣を主義とする守旧派(事大党)と、改革に成功した朝鮮の近代化を目指す開化派とに世論が二分します(なお、開化派でも、崩壊の危機に瀕している清国支配から独立してなされるべきとする急進開化派と、清国との関係は維持しつつ改革を進めるべきとする穏健開化派がありました。)。
この点、守旧派は高宗実父の興宣大院君などが、急進開化派は金玉均や朴泳孝などの青年官僚が、穏健開化派は閔氏らがその中心となり、政争を繰り広げていきました。
朝鮮支配権を巡る清国と日本の対立
壬午事変(1882年)
そして、開国直後の朝鮮では、以上のうちの閔妃を中心とする穏健開化派が力を強めて事実上の閔氏政権を樹立し、近代的軍隊として「別技軍」を新設し日本人教官を招致して教練を開始するなど日本の支援のもとで開化政策を進めていきました。
ところが、閔氏政権による急速な財政出費に朝鮮財政が追いつかず、兵士への俸給が滞ります。
これに新制度に対する不満も合わさって、明治15年(1882年)閔妃に反発する勢力が反乱を起こし、それに民衆も加わって閔氏一族の屋敷や官庁、日本公使館を襲撃し、朝鮮政府高官・日本人軍事顧問・日本公使館員らを殺害する事件に発展します(壬午事変)。
閔妃は何とか王宮の脱出に成功したものの政権を失い、これに代わって改革派が高宗の父である興宣大院君を担ぎ出すことで大院君政権が復活します。
この朝鮮国内の混乱に対し、日本は軍艦4隻と千数百の兵を派遣したのですが、朝鮮の宗主国を自称する清国もまた属領保護を名目に軍艦3隻と約3000人もの兵を派遣し反乱軍を鎮圧してしまいました。
反乱軍鎮圧に成功した清は、漢城府に清国兵を配置し、大院君を拉致して天津に連行した上で、朝鮮に圧力をかけて親清とした閔氏政権を復活させました。
甲申政変(1884年12月)
もっとも、閔氏政権が親清化した結果、開化派の中で清国重視の閔妃派と、日本との連携を強化しようとする派閥が対立するようになっていきます。
そして、日本との連携強化を図る派閥は、親清派勢力(事大党)の一掃を図って日本の援助の下でクーデターを起こし、王宮を占領し新政権を樹立したのですが、清国軍の介入したことにより3日で失敗します(甲申政変)。
この点、日本側は、朝鮮と清国に対し、甲申政変による在漢城日本居留民への朝鮮民衆と清国軍の暴虐と仁川へと退避しようとしていた公使一行が朝鮮人と清国人に攻撃を受けたことに対する抗議を行います。
その結果、日本は、1885年1月、朝鮮に対して政変の事後処理を定めた漢城条約を押し付けることに成功します。
他方で、これらの行為は日清関係に重大な緊張状態をもたらします。
天津条約(1885年)
甲申政変後の日清間の緊張関係を緩和するべく両国間で調整が続けられます。
その結果、日清間で、日清両国が朝鮮から即時に撤退し、以降朝鮮に対して軍事顧問は派遣しない、将来朝鮮に出兵する場合は相互通知をするとの内容の天津条約を締結します。
これにより、軍事上は以後の朝鮮出兵が日清同等となったのですが、親清政権の誕生により朝鮮への政治的影響力は清国が優位に立っていました。
甲午農民戦争(1894年1月)
この状況下の明治27年(1894年)1月上旬、重税に苦しむ朝鮮民衆が、宗教結社の東学党の指導下で蜂起し、大規模な農民反乱に発展します。
この反乱に対し、同年5月30日に独力での鎮圧が困難であると判断した親清の閔氏政権が宗主国である清国の来援を求めたため、同年6月2日から清国において朝鮮派兵の動きが始まります。
この動きを見た日本政府もまた、同年6月2日に朝鮮半島にいる日本人居留民保護を目的とし、天津条約に基づいて兵力派遣を決定した上で(同年6月5日に大本営を設置)、同年6月12日に混成旅団8000人の兵を仁川に上陸させました。
その後、朝鮮半島に入った清国軍と日本軍により朝鮮反乱軍が鎮圧されます。
漢城での日清両軍の対峙(1894年7月16日)
そのため、朝鮮政府は、駐留の必要がなくなったとして日清両国に撤兵を求めます。
これに対し、日本側が、内乱が収まっていないと主張して朝鮮の安全保障と内政改革の必要性を訴え、明治27年(1894年)6月15日に清国に対して日清共同での朝鮮改革案を提示したのですが清国に拒否されます。
日本案に対して清国からは、日清同時撤兵の提案がなされたのですが、これに対しては日本側が拒否し、日本政府は、同年6月24日に単独での朝鮮改革決行の宣言をした上で清国政府に最初の絶交書を送付するに至りました。
その後、同年6月30日に日本兵8000名の駐留部隊がソウル周辺に集結し(前記先遣隊に加えて追加部隊も朝鮮半島に派遣されています)、同年7月14日に二度目の絶交書を清国側に送付した上で、同年7月16日には漢城近郊に布陣して約2500人の清国軍と対峙することになりました。
日英通商航海条約(1894年7月16日)
明治維新直後から日本政府は各国との不平等条約の改正交渉を至上命題としていたのですが、明治27年(1894年)7月16日、ロシア帝国の南下政策に対抗するために日本と結ぶ決断をしたイギリスが日本との間で不平等条約の一部改正(領事裁判権の撤廃・関税自主権の部分回復・最恵国待遇を相互のものとする)を認める決断をしたため、日英間で日英通商航海条約を締結されました。
この条約により、日英間の不平等条約改正がなされたのですが、同時に、イギリスが日清間の紛争に中立的立場をとる(イギリスは介入しない)ことが確認されました。
この結果、清国との紛争に至っても欧米列強からの批判を受けることがないと判断をした日本政府は、同年7月17日、清国との開戦を閣議決定します。
清国軍攻撃の大義名分獲得(1894年7月23日)
そして、漢城付近に展開していた日本軍が、明治27年(1894年)7月23日に朝鮮王宮に侵入してこれを占拠して朝鮮国王・高宗を捕え、高宗に対して、日本に協力的姿勢を示す大院君が新政府首班となることを無理矢理認めさせてしまいました。
その上で、日本軍は、外形的には朝鮮のトップとなった大院君に清国兵追放を要請する文書を作成させました。
これにより、日本軍は、朝鮮の要請による清国兵追放という清国と戦う大義名分を獲得するに至りました。
日清戦争勃発
日清戦争開戦(1894年7月)
以上の経過を経て、清国と戦う大義名分を得た日本軍は、明治19年(1894年)7月25日に海戦(豊島沖海戦)で、同年7月28日に陸戦で清国駐留部隊を駆逐することで漢城周辺を制圧するという日本有利の状況から日清戦争を始めます。
宣戦布告(1894年8月1日)
そして、明治19年(1894年)8月1日に清国に対して宣戦布告することにより、正式に日清戦争が始まることとなりました。
その後も戦局は日本有利に展開し、明治20年(1895年)2月に日本軍が山東半島・威海衛を攻略して黄海及び渤海の制海権を掌握したことにより、日本側が清国首都の北京や天津などへの攻撃が可能となったことにより清国の戦意が喪失し、同年3月20日から日本優位の状況下で日清両国での講和交渉が始まりました。
朝鮮が清国から完全独立(1895年4月17日)
そして、明治20年(1895年)4月17日、日本全権伊藤博文・陸奥宗光と清国全権李鴻章の間において、①清が朝鮮独立を承認(宗主権の放棄)、②清が遼東半島・台湾・澎湖諸島を日本に割譲、③清が2億両の賠償金を日本に支払う、④日清修好条規を破棄して新たな通商条約を締結する、⑤開港場・開市場での外国企業による工場経営を正式に認める、⑥揚子江の航行権を認め、沙市・重慶・蘇州・杭州を開市・開港場とする内容の日清戦争の講和条約(下関条約)が締結され、日清戦争が集結します。
これらの内容は、いずれも日本に有利な特筆すべきものなのですが、本稿ではこのうちの清が朝鮮への宗主権を放棄してその独立を承認したことが重要なものとなります。
そして、この後、独立国となった韓国に対した日本がその影響力を強く及ぼしていき、ついには併合するにまで至るのですが、長くなりますのでその話は別稿で行いと思います。