戦国時代に合戦のやり方から、城の構造まで、武士の作法の全てを一変させた新兵器があります。鉄砲(火縄銃)です。
その伝来場所から種子島とも言われます。
そして、その鉄砲の一大生産地として有名なのが近江国坂田郡国友(現在の滋賀県長浜市国友町)です。
では、なぜ種子島から遠く離れた国友が鉄砲の一大生産地となったのでしょうか。
以下、鉄砲の里・国友の歴史について簡単に説明したいと思います。
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日本への鉄砲伝来
鉄砲伝来(1543年8月25日)
諸説ありますが、鉄砲伝来は、天文12年(1543年)8月25日とされるのが従来からの通説です(鉄炮記)。
同日、種子島の最南端にあった大隅国西ノ村小浦の浜辺(前之浜)に100人余りの外国人が乗る一艘の船が漂着したのがその始まりです(このことを記念して、同地に「鐵砲傳来葡國人上陸之地」の石碑が建てられています。)。
漂着した船から降りてきた人は異国人で、種子島の島民とは言葉が違ったため話が通じませんでした。
そこで、やむを得ず、種子島の島民が砂浜に漢字を書いてみたところ、乗員の中にいた五峯(倭寇の頭目であった王直とも)と筆談できることがわかりました。
五峯によると、この船は西欧の貿易船で、ポルトガル人が代表者とのことでした。
早速、代表のポルトガル人は、種子島領主の若き領主であった種子島時堯と話をすることとなりました。
その話し合いの際に、ポルトガル人が鉄砲(火縄銃)を披露したところ、種子島時堯はその威力に驚き、この鉄砲の価値を評価した上で、今の貨幣価値に直すと1億円ともいわれる大金を出して、ポルトガル人から鉄砲を2丁購入します。
そして、種子島時堯は、鉄砲について学ぶため、家臣の篠川小四郎に火薬の調合を学ばせました。
種子島で鉄砲の複製にとりかかる
その上で、種子島時堯は、島の刀鍛冶である八板金兵衛尉清定らを集めて1丁預け、分解して構造を理解した上で複製を製作するよう命じます。
種子島は、砂浜で砂鉄が多く採れる島であったことから刀鍛冶が盛んであったため、元々島内には優秀な鍛治師が沢山いました。
ところが、そんな優秀な鍛治師達も、鉄砲の複製には苦労します。
特に苦労したのが、尾栓のネジでした。
火縄銃は玉を打つと銃身にススが溜まるため、これを棒で突き出して排出する作業が必須となるのですが、この作業を行うためにら銃身の後方が取り外しできる構造でなければならないのです。
ところが、銃を打った際に分解してしまわないよう銃身の後方は固く止めておかなければなりません。
つまり、分解できる構造ながら強く固定できなければならないというジレンマがあります。
このジレンマを解決するため、火縄銃では尾栓ネジが使われていたのですが、これが問題でした。
このときまで日本にネジというものが存在しておらず、種子島の鍛治師達には、雄ネジ(ボルト)へのネジ切りと、雌ネジ(ナット)の鍛造の方法がわからなかったのです。
しばらくして、雄ネジの問題は解決したのですが、雌ネジに苦労します。
筒の内側に溝を彫ることができなかったのです。
国産鉄砲の完成(1544年)
それでも、流石は職人です。
試行錯誤した結果、加熱した筒に雄ねじを銃のクチの部分から入れていき、それをハンマーなどで叩いて雌ねじの形に仕上げていくという方法で何とか雌ねじの製作に成功します(どうしても上手くいかなかった八板金兵衛尉清定が、娘をポルトガル人に嫁に出して製法を聞き出したという伝承もありますが、真実はわかりません。)。
これにより、天文13年(1544年)、種子島において国産鉄砲第1号が完成します。
日本国内への鉄砲の伝播
種子島で完成した鉄砲は、その有用性からたちまち日本全国主に伝播し、日本全国で製作されるようになります。
その中で、鉄砲鍛冶に特化した根来・堺・国友という3つの地域で、特に優秀な鉄砲が作られるようになり、ブランド化していきます。
この3地域への伝播ルートは以下の通りです。
紀伊国・根来
紀伊那賀郡吐前城主の津田監物が、種子島時尭が複製した鉄砲1丁を手に入れて、堺出身の鍛冶屋である芝辻清右衛門に作らせます。
そして、それを根来寺の杉之坊をはじめとする根来衆にこれを広め、また自身でも津田流砲術の祖となったとされています。
和泉国・堺
また、根来衆に広まった鉄砲は紀伊根来寺の僧杉坊明算による製法修得によって紀伊国・根来で生産が始まったのですが、堺の商人である橘屋又三郎がその鉄砲を見て商売になると判断します。
そこで、橘屋又三郎は、鉄砲製法を入手するために自ら種子島を訪れて一両年滞在し、八板清定から鉄砲の製法技術を学んで堺に戻り大掛りに鉄砲の製造・販売を行いました。
なお、橘屋又三郎は、その後堺を全国有数の鉄砲の産地に成長させ、「鉄砲又」との異名をとって堺の鉄砲業者の中心となりました。
近江国・国友(1544年8月12日)
他方、種子島時尭は、複製した鉄砲のうちの数丁を主家であるである島津義久に献上したのですが、これを受け取った島津義久がそのうちの5丁を室町幕府将軍・足利義晴に献上します。
鉄砲5丁を受け取った足利義晴はこれを自ら複製できないかと考えて管領の細川晴元にその製作を命じます。
鉄砲の生産という難題を命じられた細川晴元は、北近江国の守護であった京極氏に相談したところ、京極氏から領国内に製鉄が盛んなために優れた鍛冶の技術を持つ鍛冶師がいるとのことで国友村の鍛冶職人を推薦されました。
そこで、細川晴元は、国友村の鍛冶師である国友善兵衛・藤九左衛門・兵衛四郎・助太夫らに鉄砲の制作を命じ、天文13年(1544年)8月12日には国友村での鉄砲の生産が始まったと言われています(国友鉄砲記)。
鉄砲の里・国友の隆盛
鉄砲の登場による戦の概念の変化
鉄砲の登場は、それまでの戦の概念を一変させます。
初期の武士の合戦は主に騎馬武者同士の一騎打ちを原則としており、訓練された者同士の戦いでした。刀・槍・弓などの武器に精通していない者に戦馬に出る幕はありませんでした。
ところが、戦国期になってくると、長槍(長柄足軽)・弓(弓足軽)などが組織化され、軍事訓練を受けていない足軽が主力となっていきます。
そして、鉄砲の登場がこれに拍車をかけます。
鉄砲は、引き金を引くだけで弾を飛ばせ、相手を殺傷できますので(それまでの槍・刀・弓を想定して作られた鎧兜を簡単に貫通していきます。)、兵を訓練する必要がないため時間と手間が短縮され、鉄砲を得た者が足軽鉄砲隊を組織して一気に軍事力を強化できるようになりました。
諸大名が鉄砲を求める
鉄砲の登場により、足軽が主力部隊に格上げそれ、また鉄砲により城が攻められた場合の防衛も容易になったことなど、鉄砲が合戦を一変させる新兵器となりました。
そして、鉄砲伝来により鉄砲を得た大名が周囲の大名を駆逐していくようになります。
この鉄砲の効用を見て、全国の大名がこぞって鉄砲を求めるようになりました。
国友の隆盛
当然、大名達は、名の知れた鉄砲鍛冶に鉄砲の発注をします。
ところが、鉄砲鍛冶の中でブランド化した根来、堺、国友のうた、根来と堺は畿内を支配した三好長慶に押さえられたため全国に大量に流通させることができませんでした。
そこで、必然的に、自由度の高い国友村で製作された鉄砲が全国に広まっていきます。
国友は、周囲にあるケラ田、タタラなどの地名から見てもわかるように、古来以来製鉄が盛んな地で、姉川流域の川砂鉄を用いた刀・槍などの製造にも長けていた技術者集団でした。
そんな国友では、鉄砲製作に取り掛かった後はその技術の全てを鉄砲生産に特化させ、鉄砲の里として名を上げていきます。
そして、国友でも鉄砲の生産は飛躍的に拡大し、銃身など主要部分を作る鍛冶のほかに、銃床を作る「台師」、「からくり」と呼ばれる機関部や各種の金属部品それに銃身や地板(機関部基板)等に施す装飾の象嵌等にそれぞれの専門職人を配した分業体制がとり、大量生産を行うようになりました。
国友は、東国や北陸と京とを結ぶ街道が通る交通の要衝にあり、また背後には琵琶湖の水運をも利用できる好立地に恵まれていたため、川砂鉄だけでは不足することとなった製鉄の材料として良質の出雲の鉄材が敦賀に陸揚げされて容易に入手できたこと、製造した鉄砲を出荷して商品化することが容易であることも、国友の隆盛に繋がりました。
そして、「国友」の名は単なる地名に留まらず、国友の工人「国友鍛冶」や、国友で生産される銃「国友筒」をも指し、鍛冶銘は「国友」姓で統一されるようになりました。
イメージだけでいうと、現在のフランスワインみたいなブランドとなったのです。
結果、日本の古式銃の約4分の1は国友銘と云われる程、国友で戦国期に大量に鉄砲が生産されました。
最盛期ともいえる大坂夏の陣があった慶長20年・元和元年(1615年)ころの時点には、国友村には鉄砲鍛冶が73軒あり、500人を超える鉄匠がいたと記録されています。
なお、国友と人気を二分していた堺の銃は豪華な装飾金具や象嵌を施した「見た目の付加価値」を追求したものが多くあるのに対し、国友の銃は究極的に「機能美的」特化した高性能なものが多いとされています。
国友の衰退
国友は、徳川家康の求めに応じ、百目玉(従来の鉄砲の20倍の重さの玉)を約2kmも飛ばせる約22kgもの重量を有する大筒を200丁も納品するまでになりました。
もっとも、この大筒の活躍もあって、大坂の陣によって豊臣家が滅亡すると、日本は太平の世となっていきます。
当然の話ですが、太平の世になると鉄砲の需要は激減します。
その後、国友は江戸幕府の御用鉄砲鍛冶となり、幕府から一定量の発注を受けていたようですが、国友の鉄砲職人が生きていける量ではありませんでした。
そのため、国友は次第に衰退していき、鉄砲の国友の時代は終わりを迎えます。
その後、安永7年(1778年)〜天保11年(1840年)に活躍した国友一貫斎(藤兵衛重恭)が「気砲」と呼ばれる蓄気ボンベ式の空気銃や高性能望遠鏡の開発で知られるなど、新たな分野で国友の鉄砲技術が生かされます。
また、その後も長浜八幡宮の祭りに繰り出される曳山(山車)や長浜仏壇の金具に国友の技術が生かされ現在に続いています。