【倶利伽羅峠の戦い】平家の大軍を壊滅させた木曾義仲の奇襲戦

倶利伽羅峠の戦い(くりからとうげのたたかい)は、寿永2年(1183年)5月11日、北陸地方で勢力を高めていた木曾義仲(源義仲)を討伐するために派遣された平維盛率いる平家軍と木曾義仲軍とが激突した戦いです。

倶利伽羅峠の戦いの直前は戦局が平家方有利に進んでいたのですが、倶利伽羅陶芸での木曾義仲による奇襲によって、それまでの戦局が一変するというターニングポイントとなりました。

本稿では、歴史の転換点となった倶利伽羅峠の戦いについて、合戦に至る経緯から説明していきます。 “【倶利伽羅峠の戦い】平家の大軍を壊滅させた木曾義仲の奇襲戦” の続きを読む

【摺上原の戦い】伊達政宗が南奥州の覇権を確立した戦い

摺上原の戦い(すりあげはらのたたかい)は、天正17年(1589年)6月5日に、磐梯山裾野に位置する摺上原で行われた、伊達政宗軍と蘆名義広軍との合戦です。

敗北した戦国大名・蘆名家が滅亡し、勝利した伊達政宗が南奥州の覇権を確立した戦いであります。 “【摺上原の戦い】伊達政宗が南奥州の覇権を確立した戦い” の続きを読む

【浅井畷の戦い】織田家重臣2世の間で勃発した北陸の関ヶ原

浅井畷の戦い(あさいなわてのたたかい)は、慶長5年(1600年)8月9日に起こった北陸地方における前田利長(東軍・前田利家の子)と丹羽長重(西軍・丹羽長秀の子)の戦いです。

慶長5年(1600年)9月15日に美濃国不破郡関ヶ原(現在の岐阜県不破郡関ケ原町)で行われた関ヶ原の戦いの前哨戦として北陸で勃発したため、「北陸の関ヶ原」とも言われます。

局地戦として発生した戦いは、3000人の丹羽長重軍(西軍)が、2万5000人の前田利長軍(東軍)を破るという戦術的勝利に終わったのですが、その後の関ヶ原の本戦の結果により違った結論となっています。 “【浅井畷の戦い】織田家重臣2世の間で勃発した北陸の関ヶ原” の続きを読む

【長谷堂城の戦い】北の関ヶ原と言われる慶長出羽合戦のクライマックス

長谷堂城の戦い(はせどうじょうのたたかい)は、慶長5年(1600年)に出羽国で行なわれた上杉景勝軍(西軍)と最上義光・伊達政宗連合軍(東軍)の戦いであり、「北の関ヶ原」といわれる慶長出羽合戦の中の主要な戦いの1つです。

長谷堂城を囲み、最上家の居城・山形城まであと一歩に迫った上杉軍が、関ヶ原の戦いで石田三成軍(西軍)が敗れた余波により敗れ、東北地方最大の大名家から一地方大名に成り下がるきっかけとなった戦いでもあります。

長谷堂城の戦いに至るまでに、上杉家と最上家には長い因縁がありましたので、本稿ではその辺りから紐解いて長谷堂城の戦いについて見ていきたいと思います。 “【長谷堂城の戦い】北の関ヶ原と言われる慶長出羽合戦のクライマックス” の続きを読む

【第二次上田合戦】真田昌幸が徳川秀忠を下した戦略的大勝利

第二次上田合戦(だいにじうえだかっせん)は、上田城主・真田昌幸が、関ヶ原の戦いに向かう徳川秀忠率いる徳川主力軍を上田城で足止めし、関ヶ原の戦いに参加させないという大戦果を挙げた戦いです。第二次上田城の戦いとも言われます。

徳川家康が、主力軍なしに関ヶ原の戦いを勝利してしまったためにその評価が埋もれがちですが、この第二次上田合戦は、その後の歴史を大きく変えてしまう可能性を有していた歴史の転換点となるはずの戦いでした。

本稿では、そんな第二次上田合戦について、発生の経緯から順に見ていきたいと思います。 “【第二次上田合戦】真田昌幸が徳川秀忠を下した戦略的大勝利” の続きを読む

【今川義元】今川家の全盛期を築いた海道一の弓取り

今川義元(いまがわよしもと)と聞いてどんなイメージが浮かびますか。

大大名今川家の第11代当主でありながら、桶狭間の戦いで織田信長に討ち取られたという最期から、今日においては、公家のようにお歯黒をつけて置眉・薄化粧をしている貴族趣味に溺れたとか、合戦の際に輿に乗っていたことをもって騎馬に乗れなかったなどというダメなイメージがつけられているようです。

もっとも、実際の今川義元は、堅実な領国経営・合理的な軍制改革・巧みな政治手腕などによって、父・今川氏親からの領土拡大政策を引き継ぎ、最終的には駿河国・遠江国・三河国を治めるに至ったという今川家の最盛期を築き上げた武将です。

当時から「海道一の弓取り」として高く評価されており、全くダメなイメージもありません。

本稿では、不当なイメージをつけて貶められることの多い今川義元の実際について見ていきたいと思います。 “【今川義元】今川家の全盛期を築いた海道一の弓取り” の続きを読む

【清洲会議】山崎の戦い後の織田家四宿老の話合い

清洲会議・清須会議(きよすかいぎ)は、天正10年(1582年)6月27日、織田家の宿老であった柴田勝家・丹羽長秀・羽柴秀吉・池田恒興によって開かれた織田家の継嗣問題及び領地再分配を決めるための会議です。

清洲会議により、織田家新当主となった三法師を、前記4宿老と、織田信雄・織田信孝・徳川家康の合計7名で支えるという枠組みを作ったのですが、羽柴秀吉によるクーデターによって半年足らずで清洲会議体制が瓦解しています。 “【清洲会議】山崎の戦い後の織田家四宿老の話合い” の続きを読む

【備中高松城水攻め】羽柴秀吉軍による毛利直轄領への侵攻戦

備中高松城水攻めは、織田軍・中国方面軍司令官として毛利攻めを行っていた羽柴秀吉が、天正10年(1582年)に毛利家配下の清水宗治が守る備中高松城を攻略した戦いです。

位置づけとしては、毛利家に服属する周辺国衆を駆逐した羽柴秀吉が、毛利直轄領に攻め込む初戦であり、堤防を築いて水攻めにしたことから、備中高松城の水攻めと呼ばれています(忍城の戦い、紀伊太田城の戦いとあわせて日本三大水攻めの1つに数えられています。)。

織田家の一軍団長に過ぎない羽柴秀吉が総力を挙げた毛利家を圧倒するという織田家の力を見せつける戦いとして始まり、途中で本能寺の変が起こって危機に陥った羽柴秀吉が巧みに戦を終了させて撤退し後の天下取りへつながる転換期となった戦いでもあります。 “【備中高松城水攻め】羽柴秀吉軍による毛利直轄領への侵攻戦” の続きを読む

【羽柴秀吉の四国攻め】四国平定のための長宗我部元親討伐戦

羽柴秀吉の四国攻めは、戦国時代末期に羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が天下統一事業の一環として行った長宗我部元親軍との一連の戦いです。四国征伐、四国の役、四国平定などとも呼ばれます。

長宗我部元親が、織田信長時代から羽柴秀吉と敵対していたこと徳川家康と接近していたことなどから羽柴秀吉との関係は従前から劣悪だったのですが、天正13年(1585年)に伊予国の河野通直を降伏させたことにより四国をほぼ統一した時点で、羽柴秀吉が長宗我部元親に自身への服属を命じます。

ところが、長宗我部元親がこれを拒否したため、羽柴秀吉が10万人を超える兵をもって三方面から四国に侵攻し、長宗我部元親を降伏させたというのが羽柴秀吉による四国攻めの概略です。小牧・長久手の戦いに際して徳川家康と結んで後方を脅かしたことに対する報復でもありました。

この戦いにより、敗れた長宗我部元親が四国全域支配から土佐一国20万石に減らされて豊臣政権下の一大名に成り下がり、他方羽柴秀吉方としては四国平定により次に九州征伐に向かうという天下統一戦の終盤に差し掛かるという転機となる戦いでした。 “【羽柴秀吉の四国攻め】四国平定のための長宗我部元親討伐戦” の続きを読む

【九戸政実の乱】豊臣秀吉による天下統一戦の最後の戦い

九戸政実の乱(くのへまさざねのらん)は、天正19年(1591年)に、南部家のお家騒動に敗れて弟を南部家の当主の座に就けることができなかった九戸政実が、南部家当主となった南部信直と奥州仕置を行う豊臣政権に対して起こした反乱です。

東北地方の大名家のお家騒動から発展した内乱であり、歴史の教科書などでもほとんど紹介されないため知名度がイマイチですが、実は豊臣秀吉の天下統一戦の最後を飾る戦いです。 “【九戸政実の乱】豊臣秀吉による天下統一戦の最後の戦い” の続きを読む