国分寺は、天平13年(741年)、仏教による国家鎮護のため、ときの天皇であった聖武天皇の命(国分寺建立の詔)により当時の日本の各国に建立された寺院です。
国分寺建立の詔に基づいていますが、広義では、国分寺(僧寺・金光明四天王護国之寺)のみならず、国分尼寺(尼寺・法華滅罪之寺)も含まれます。
本稿では、国分寺・国分尼寺が建立されるに至った経緯、その一覧、現状について簡単に説明したいと思います。
【目次(タップ可)】
国分寺建立の詔(741年2月14日)
仏教の導入
仏教は、538年(日本書紀では552年)ころに日本に導入されたのですが、当初は一部有力者の独占的思想であり、この時代に建立された仏教寺院は有力氏族の繁栄を願うものでした(氏寺)。
朝廷では、僧尼令を定めて僧侶や尼を現世の律令制度上の官僚組織の一員に取り込んで民間への布教を禁止し、朝廷の許しなく勝手に出家した者は私度僧として弾圧しました。
その後、皇室自ら寺を建てるようになり(天武天皇の大官大寺・持統天皇の薬師寺など)、仏教は大王家(ヤマト政権鎮護)の道具として発展していきました。
鎮護国家思想
奈良時代に入ると、渡来僧を通じて仏教理論の理解や受容が進み、朝廷は鎮護国家の立場から仏教勢力を積極的に保護していきます。
具体的には、仏教関係者には免税特権(寺田は不輸祖・僧尼は不課口)が与えられるなどの特別な保護が施されました。
この結果、仏教が国内に定着し、その関係者の勢力が巨大化していきます。なお、仏教と従来の日本の神々との整合性を図るため、神は仏が化身として現れた権現であるという考え(本地垂迹説)が起こるなどしています。
そして、国家的保護を受けた宗教勢力はどんどん力を強めていき、特に平城京内において成立した教理研究を進める南都六宗(三論宗、成実宗、法相宗、倶舎宗、律宗、華厳宗)が大きな力を持つようになっていきました。
もっとも、仏法が盛んになってくると僧尼の数も増加し、それに伴って戒律などを無視する者が増え始めます。
そこで、仏教の発展に伴い僧尼令(律令)や僧綱・度牒制度により僧尼資格の要件特定が進められます。
そして、僧侶となるためには、朝廷が定めた寺院で、受戒する必要があるとした上で、朝廷が定めた受戒要件を満たす必要があるとすることで人事権を握り、朝廷がこれを統制することにします。
なお、受戒制度を確立するために唐から高僧・鑑真が招かれ、その手によって東大寺に戒壇が設けられることとなりました(その後、鑑真は唐招提寺を建立し同寺に入っています。)。
以上のとおり、僧侶となるために朝廷の許しが必要となったのですが、これを嫌って戒壇を受けることなく私的に出家したり、行基などの庶民を救うため仏教の民間布教をはじめたりする者が現れ始めます。
聖武天皇の権威失墜
(1)天然痘大流行(737年)
天平7年(735年)に大宰府管内である九州北部において、遣新羅使または遣唐使が感染源と考えられる天然痘患者が発生し、同年8月中には九州北部でこれが流行していきます。
そんな中、天平8年(736年)4月に聖武天皇が阿倍継麻呂を団長とする遣新羅使を平城京から出発させて九州北部を経由して新羅に向かわせました。
この遣新羅使の一行は、道中で天然痘を発症し、随員の雪宅満が往路の壱岐で、大使の阿倍継麻呂が帰路の対馬で病死しする事態に陥ります。
また、無事に戻って来た一行も天然痘ウイルスに感染していたものと考えられ、彼らの期間により本州にも天然痘ウイルスが伝播し、天平9年(737年)には全国的に天然痘が大流行します。
同年6月には平城京の官人の大多数が罹患して朝廷が政務の停止に追い込まれ、同年7月には大和国・伊豆国・若狭国・伊賀国・駿河国・長門国などで相次いで天然痘大流行が報告されます。
また、天然痘ウイルスは、身分に関係なく全ての階級の人に及び、当時の国政を担っていた藤原氏の四兄弟(藤原武智麻呂・藤原房前・藤原宇合・藤原麻呂)までもがこれにより死亡します。
その後、天平10年(738年)1月頃に天然痘流行が終息したのですが、終息するまでの間二当時の人口の30%程度に当たる100~150万人の命を奪ったと言われています。
この天然痘大流行は、国政担当者を奪ったという意味で人的資源として当時のヤマト政権の政治・経済に大きな影響を与えたのですが、それ以上に、これを防げなかったことに対する為政者・聖武天皇の権威が失墜します。
この事態に困った聖武天皇は、天平9年(737年)に国ごとに釈迦仏像1躯と挟侍菩薩像2躯の造像と「大般若経」を写し、また天平12年(740年)に「法華経」10部を写し七重塔を建てることを命じる詔を出しているのですが、失われた権威を取り戻すには至りませんでした。
(2)藤原広嗣の乱(740年)
天然痘により朝廷の政治を牛耳っていた藤原四兄弟が相次いで死去すると藤原氏の勢力は大きく後退し、それに代わって橘諸兄が政権を担うようになります。
新たに政権を担うこととなった橘諸兄は、天然痘流行によって疲弊した社会を復興させるため、唐から帰国した吉備真備と玄昉が重用した上で、新羅との緊張緩和と軍事力縮小政策を進めていきます。
また、橘諸兄は、天平10年(738年)、藤原宇合(藤原式家)の長男であった藤原広嗣を大宰少弐に任じて大宰府に赴任させたのですが、これは対新羅強硬論者であった藤原広嗣を中央政府から遠ざける意味がありました。
この人事に強い不満を抱いた藤原広嗣は、天平12年(740年)9月、大宰府で蜂起します。
同年9月3日に藤原広嗣の反乱の報が都にもたらされると、聖武天皇は、大野東人を大将軍に任じると共に、東海道・東山道・山陰道・山陽道・南海道から1万7000人の兵を動員するよう命じ、その対応にあたります。
蜂起した藤原広嗣でしたが、官軍との戦い(板櫃川の戦い)に敗れて敗走し、天平12年(740年)10月23日に値嘉嶋(現在の宇久島)に潜伏していたところを捕らえられ、同年11月1日に斬首されます。
こうして藤原広嗣の乱は鎮圧されるに至ったのですが、その報告が平城京に届く前に、聖武天皇が突如関東に下ると言い出し都を出てしまいました。
この結果、ただでさえ天然痘大流行の後遺症で疲弊していた社会に為政者の政治放棄という政治不安が重なり、浮浪者・逃亡者が激増するなどの大混乱が生じます。
聖武天皇の権威回復政策
(1)恭仁京遷都(740年12月15日)
平城京を出た聖武天皇は、伊賀国・伊勢国・美濃国・近江国を巡っていきます。
その後、藤原広嗣の乱が鎮圧されたことを聞いた聖武天皇ですが、天然痘の大流行により壊滅的な打撃を受けた平城京に戻ることを嫌い、これを捨てて新たな都で再起を果たそうと考えます。
そこで、新たな都の候補地が検討されたのですが、このときの政権担当者であった橘諸兄の意向が強く斟酌され、天平12年(740年)12月15日、その本拠地(山城国綴喜郡井手)に近い恭仁郷に新都の整備がなされて恭仁宮として同地に遷都が行われることとなりました。
そして、同地において心機一転、律令国家体制の立て直し(国土復興・権威回復)を始めます。
(2)恭仁京にて国分寺建立の詔(741年3月)
そして、恭仁京に居を据えた聖武天皇が最初に試みたのが仏教には国を守る力があるという鎮護国家思想に基づき、仏教の力を利用した社会不安の鎮静化でした。
まず、聖武天皇は、国ごとに僧寺(国分寺)・尼寺(国分尼寺)を置いて各国でこれらの寺を利用して社会不安の鎮静化をしようと考えます。
そこで、聖武天皇は、天平13年(741年)3月、各国に、①七重塔を建てた上で、その中に金光明最勝王経(金光明経)と妙法蓮華経(法華経)を各1部写経して納めること、② 国分僧寺と国分尼寺を1つずつ設置し、僧寺の名は金光明四天王護国之寺として20名の僧を、尼寺の名は法華滅罪之寺として10名の尼僧をそれぞれ配置することなどを命じる「国分寺建立の詔」を発布します。
なお、詔が発せられたのですが、各国司が負担を嫌ったために国分寺の造営の多くは滞ったため、天平19年(747年)11月、造営体制を国司から郡司層に移行させた上で、完成した場合には当該郡司の世襲を認める「国分寺造営督促の詔」を発したため、ようやく国分寺の本格的造営が始まりました。
(3)紫香楽宮にて盧舎那大仏造立の詔(743年)
その後、聖武天皇は、天平14年(742年)に紫香楽宮(近江国甲賀郡紫香楽村)に遷都し、翌天平15年(743年)には、強大な仏像を造立してその力を持って社会不安を鎮静化させるという名目で、盧舎那大仏造立の詔を発します。
そのため、当初は紫香楽宮近くの甲賀寺で盧舎那大仏の造立が始められたのですが、天平16年(744年)の難波宮を経て天平17年(745年)に再び平城京に還都されたことから、盧舎那大仏の造立は、国分寺の中心である総国分寺に定めた東大寺において行われることとなりました(なお、盧舎那大仏は天平勝宝4年/752年に完成して開眼供養が行われています。)。
(4)余談
なお、聖武天皇は、国土復興及び権威回復のための政策として、前記仏教政策の他に、天平15年(743年)5月27日に墾田永世私財法を定めて土地政策を進めているのですが、本稿とは話がずれてしまいますのでその紹介だけにとどめておきます。
国分寺一覧
全国に建立されることが決まった国分寺・国分尼寺ですが、国分寺のトップである総国分寺に東大寺(現在の奈良市雑司町)、国分尼寺のトップである総国分尼寺に法華寺(現在の奈良市雑司町)が定められます。
その上で、各国の国分寺の多くは、国府区域内またはその周辺に置かれ、国庁とともにその国の最大の建築物を構成しました。
畿内
国名 | 所在 | 現在 |
大和国分寺 (総国分寺) | 奈良県奈良市雑司町 | 華厳宗大本山・東大寺 (奈良市雑司町406-1) |
山城国分寺 | 京都府木津川市加茂町例幣 (恭仁宮を廃都後に国分寺に改造) | ー |
河内国分寺 | 大阪府柏原市国分東条町 | 真言宗・国分寺 (亀乃瀬弁才天) |
和泉国分寺 | 大阪府和泉市国分町 | 真言宗・護国山国分寺(福徳寺) (大阪府柏原市国分東条町29-17) |
摂津国分寺 | 不明(推定:大阪市北区長柄または大阪市天王寺区国分町) | 真言宗国分寺派大本山・護国山国分寺 (大阪市北区国分寺1-6-18) |
東海道
国名 | 所在 | 現在 |
伊賀国分寺 | 三重県伊賀市西明寺 | 上寺山国分寺 |
伊勢国分寺 | 三重県鈴鹿市国分町 | 真言宗御室派・護国山国分寺 (三重県亀山市白木町1221) |
志摩国分寺 | 三重県志摩市阿児町国府 | 天台宗・護国山国分寺 ( 三重県志摩市阿児町国府3476) |
尾張国分寺 | 愛知県稲沢市矢合町 | 臨済宗妙心寺派・鈴置山国分寺 (愛知県稲沢市矢合町城跡2490) |
三河国分寺 | 愛知県豊川市八幡町 | 曹洞宗・国府荘山国分寺 (愛知県豊川市八幡町本郷31) |
遠江国分寺 | 静岡県磐田市見付 | 新義真言宗・參慶山延命院国分寺 (静岡県磐田市中央町3048) |
駿河国分寺 | 不明 (推定:静岡県静岡市駿河区大谷) | 真言宗醍醐派・龍頭山国分寺 (静岡市葵区長谷町10) |
伊豆国分寺 | 静岡県三島市泉町 | 日蓮宗・最勝山国分寺 (静岡県三島市泉町12-31) |
甲斐国分寺 | 山梨県笛吹市一宮町国分 | 臨済宗・護国山国分寺 (山梨県笛吹市一宮町国分196-1) |
相模国分寺 | 神奈川県海老名市国分南 | 真言宗・東光山医王院国分寺 (神奈川県海老名市国分南1-25-38) |
武蔵国分寺 | 東京都国分寺市西元町 | 真言宗豊山派・医王山最勝院国分寺 (東京都国分寺市西元町1-13-16) |
安房国分寺 | 千葉県館山市国分 | 真言宗智山派・日色山国分寺 (千葉県館山市国分959-2) |
上総国分寺 | 千葉県市原市惣社 | 真言宗豊山派・医王山清浄院国分寺 (千葉県市原市惣社1-7-23) |
下総国分寺 | 千葉県市川市国分 | 真言宗豊山派・国分山国分寺 (千葉県市川市国分3丁目20-1) |
常陸国分寺 | 茨城県石岡市府中 | 真言宗智山派・浄瑠璃山東方院国分寺 (茨城県石岡市府中5-1-5) |
東山道
国名 | 所在 | 現在 |
近江国分寺 | 当初所在不明(平安時代初期に滋賀県大津市光が丘町の国昌寺が寺格継承) | 別所山国分寺 |
美濃国分寺 | 岐阜県大垣市青野町 | 真言宗準別格本山・金銀山瑠璃光院国分寺(岐阜県大垣市青野町419) |
飛騨国分寺 | 岐阜県高山市総和町 | 真言宗・医王山国分寺 (岐阜県高山市総和町1-83) |
信濃国分寺 | 長野県上田市国分 | 天台宗・国分寺(山号なし) (長野県上田市大字国分1049) |
上野国分寺 | 群馬県高崎市東国分 | 国分寺 |
下野国分寺 | 栃木県下野市国分寺 | 真言宗豊山派・瑠璃光山安養院国分寺 ( 栃木県下野市国分寺1541) |
陸奥国分寺 | 宮城県仙台市若林区木ノ下 | 真言宗智山派・護国山医王院国分寺 (仙台市若林区木ノ下2-8-28) |
出羽国分寺 | 不明(推定:山形県酒田市城輪または山形県鶴岡市平形国分) | 天台宗・護国山柏山寺 (山形市薬師町2-12-32) |
北陸道
国名 | 所在 | 現在 |
若狭国分寺 | 福井県小浜市国分 | 曹洞宗・護国山国分寺 (福井県小浜市国分53-1) |
越前国分寺 | 不明 | 天台宗・護国山国分寺 (福井県越前市京町1-6-2) |
加賀国分寺 | 不明(勝興寺を転用) (推定:石川県小松市古府町) | ー |
能登国分寺 | 石川県七尾市国分町 | ー |
越中国分寺 | 富山県高岡市伏木一宮 | 真言宗・国分寺 (富山県高岡市伏木一宮1) |
越後国分寺 | 不明 (推定:新潟県上越市五智・国府) | 天台宗・安国山華蔵院国分寺 (新潟県上越市五智3-20-21) |
佐渡国分寺 | 新潟県佐渡市国分寺 | 真言宗・医王山瑠璃光院国分寺 (新潟県佐渡市国分寺113) |
山陰道
国名 | 所在 | 現在 |
丹波国分寺 | 京都府亀岡市千歳町国分 | 浄土宗・護国山国分寺 (京都府亀岡市千歳町国分桜久保25) |
丹後国分寺 | 京都府宮津市国分 | 真言宗・護国山国分寺 (京都府宮津市国分793) |
但馬国分寺 | 兵庫県豊岡市日高町国分寺 | 浄土宗・護国山国分寺 (兵庫県豊岡市日高町国分寺734) |
因幡国分寺 | 鳥取県鳥取市国府町国分寺 | 黄檗宗・最勝山国分寺 (鳥取市国府町国分寺) |
伯耆国分寺 | 鳥取県倉吉市国分寺 | 護国山国分寺 |
出雲国分寺 | 島根県松江市竹矢町 | ー |
石見国分寺 | 島根県浜田市国分町 | 東光山国分寺 |
隠岐国分寺 | 島根県隠岐郡隠岐の島町池田 | 真言宗・禅尾山国分寺(島根県隠岐郡隠岐の島町池田風呂前5) |
山陽道
国名 | 所在 | 現在 |
播磨国分寺 | 兵庫県姫路市御国野町国分寺 | 真言宗・牛堂山国分寺 (兵庫県姫路市御国野町国分寺121) |
美作国分寺 | 岡山県津山市国分寺 | 天台宗・龍壽山国分寺 (岡山県津山市国分寺483) |
備前国分寺 | 岡山県赤磐市馬屋 | 真言宗御室派・金光山圓壽院善教寺 (岡山県赤磐市馬屋797 ) |
備中国分寺 | 岡山県総社市上林 | 真言宗御室派・日照山總持院国分寺 (岡山県総社市上林1046) |
備後国分寺 | 広島県福山市神辺町下御領 | 真言宗大覚寺派・唐尾山医王院国分寺 (広島県福山市神辺町下御領) |
安芸国分寺 | 広島県東広島市西条町吉行 | 真言宗御室派・金嶽山常光院国分寺 (広島県東広島市西条町吉行2064) |
周防国分寺 | 山口県防府市国分寺町 | 真言宗別格本山・浄瑠璃山国分寺 (山口県防府市国分寺町2-67) |
長門国分寺 | 山口県下関市長府宮の内町 | 浄瑠璃山国分寺 |
南海道
国名 | 所在 | 現在 |
紀伊国分寺 | 和歌山県紀の川市東国分 | 新義真言宗・八光山医王院国分寺 (和歌山県紀の川市東国分682) |
淡路国分寺 | 兵庫県南あわじ市八木国分 | 律宗・護国山国分寺 (兵庫県南あわじ市八木国分331) |
阿波国分寺 | 徳島県徳島市国府町矢野 | 曹洞宗・薬王山金色院国分寺 (徳島市国府町矢野718-1) |
讃岐国分寺 | 香川県高松市国分寺町国分 | 古義真言宗御室派・白牛山千手院国分寺(香川県高松市国分寺町国分字上所2065) |
伊予国分寺 | 愛媛県今治市国分町 | 真言律宗・金光山最勝院国分寺 (愛媛県今治市国分4-1-33) |
土佐国分寺 | 高知県南国市国分 | 真言宗智山派・摩尼山宝蔵院国分寺 (高知県南国市国分546) |
西海道
国名 | 所在 | 現在 |
筑前国分寺 | 福岡県太宰府市国分 | 真言宗・龍頭光山国分寺 (福岡県太宰府市国分4-13-1) |
筑後国分寺 | 福岡県久留米市国分町 | 天台宗・護国山国分寺 (福岡県久留米市宮ノ陣5) |
豊前国分寺 | 福岡県京都郡みやこ町国分 | 真言宗・金光明山国分寺 (福岡県京都郡みやこ町国分280) |
豊後国分寺 | 大分県大分市国分 | 天台宗・医王山国分寺 (大分市国分972) |
肥前国分寺 | 佐賀県佐賀市大和町尼寺 | 金光明王山国分寺 |
肥後国分寺 | 熊本県熊本市中央区出水 | 曹洞宗・医王山国分寺 (熊本市中央区出水1-1-56) |
日向国分寺 | 宮崎県西都市三宅 | ー |
大隅国分寺 | 鹿児島県霧島市国分中央 | ー |
薩摩国分寺 | 鹿児島県薩摩川内市国分寺町 | ー |
壱岐島分寺 | 長崎県壱岐市芦辺町国分本村触 | 臨済宗大徳寺派・護国山国分寺 (長崎県壱岐市芦辺町中野郷西触) |
対馬島分寺 | 不明(推定:長崎県対馬市厳原町今屋敷) | 曹洞宗・天德山国分寺 (長崎県対馬市厳原町天道茂) |
国分尼寺一覧
畿内
国名 | 所在 | 現在 |
大和国分尼寺 (総国分尼寺) | 奈良市法華寺町 | 光明宗本山・法華寺 (奈良市法華寺町882) |
山城国分尼寺 | 不明 (推定:京都府木津川市加茂町法花寺野) | ー |
河内国分尼寺 | 不明 (推定:大阪府柏原市国分東条町説) | ー |
和泉国分尼寺 | 不明 | ー |
摂津国分尼寺 | 不明 (推定:大阪市東淀川区柴島) | ー |
東海道
国名 | 所在 | 現在 |
伊賀国分尼寺 | 三重県伊賀市西明寺 | ー |
伊勢国分尼寺 | 不明 (推定:三重県鈴鹿市国分町) | ー |
志摩国分尼寺 | 不明 | ー |
尾張国分尼寺 | 不明 (推定:愛知県稲沢市法花寺町) | 曹洞宗・大齢山法華寺(愛知県稲沢市法花寺町熊ノ山77) |
三河国分尼寺 | 愛知県豊川市八幡町 | ー |
遠江国分尼寺 | 不明 | ー |
駿河国分尼寺 | 不明 | (伝)臨済宗・正覚山菩提樹院 (静岡市葵区沓谷1344-4) |
伊豆国分尼寺 | 静岡県三島市南町 | 日蓮宗・三島山法華寺 (静岡県三島市東本町1-15-48) |
甲斐国分尼寺 | 山梨県笛吹市一宮町東原 | ー |
相模国分尼寺 | 神奈川県海老名市国分北 | ー |
武蔵国分尼寺 | 東京都国分寺市西元町 | ー |
安房国分尼寺 | 不明 | ー |
上総国分尼寺 | 千葉県市原市国分寺台中央 | ー |
下総国分尼寺 | 千葉県市川市国分 | ー |
常陸国分尼寺 | 茨城県石岡市若松 | ー |
東山道
国名 | 所在 | 現在 |
近江国分尼寺 | 不明 | ー |
美濃国分尼寺 | 不明 (推定:岐阜県不破郡垂井町平尾) | ー |
飛騨国分尼寺 | 岐阜県高山市岡本町 | 臨済宗・建正山国分尼寺(岐阜県高山市国府町木曽垣内588-1) |
信濃国分尼寺 | 長野県上田市国分 | ー |
上野国分尼寺 | 群馬県高崎市東国分 | ー |
下野国分尼寺 | 栃木県下野市国分寺 | ー |
陸奥国分尼寺 | 宮城県仙台市若林区白萩町 | 曹洞宗・護国山国分尼寺 (仙台市若林区白萩町33-26) |
出羽国分尼寺 | 不明 | ー |
北陸道
国名 | 所在 | 現在 |
若狭国分尼寺 | 不明 | ー |
越前国分尼寺 | 不明 | ー |
加賀国分尼寺 | 不明 | ー |
能登国分尼寺 | 不明 | ー |
越中国分尼寺 | 不明 | ー |
越後国分尼寺 | 不明 | ー |
佐渡国分尼寺 | 不明 | ー |
山陰道
国名 | 所在 | 現在 |
丹波国分尼寺 | 京都府亀岡市河原林町河原尻 | ー |
丹後国分尼寺 | 不明 | ー |
但馬国分尼寺 | 兵庫県豊岡市日高町水上・山本 | 曹洞宗・天台山法華寺 (豊岡市日高町山本268) |
因幡国分尼寺 | 不明 (推定:鳥取市国府町法花寺) | ー |
伯耆国分尼寺 | 不明 (推定:鳥取県倉吉市国分寺) | ー |
出雲国分尼寺 | 島根県松江市竹矢町 | ー |
石見国分尼寺 | 島根県浜田市国分町 | 曹洞宗・良松山光明寺 (島根県雲南市加茂町大竹292) |
隠岐国分尼寺 | 島根県隠岐郡隠岐の島町有木 | ー |
山陽道
国名 | 所在 | 現在 |
播磨国分尼寺 | 兵庫県姫路市御国野町国分寺 | 浄土真宗・金剛山徳證寺(兵庫県姫路市御国野町御着1186) |
美作国分尼寺 | 岡山県津山市国分寺 | ー |
備前国分尼寺 | 岡山県赤磐市馬屋・穂崎 | ー |
備中国分尼寺 | 岡山県総社市上林 | ー |
備後国分尼寺 | 不明(推定:広島県福山市神辺町湯野または西中条) | ー |
安芸国分尼寺 | 不明 (推定:広島県東広島市西条町吉行) | ー |
周防国分尼寺 | 山口県防府市国分寺町 | 真言宗・浄戒山法花寺 (山口県防府市国分寺町7-19) |
長門国分尼寺 | 不明 (推定:山口県下関市長府安養寺) | ー |
南海道
国名 | 所在 | 現在 |
紀伊国分尼寺 | 不明 (推定:和歌山県岩出市西国分) | ー |
淡路国分尼寺 | 不明 (推定:兵庫県南あわじ市八木) | 金峯山修験本宗・金雲山理祥院尼ガ寺(兵庫県南あわじ市八木新庄) |
阿波国分尼寺 | 徳島県名西郡石井町石井 | ー |
讃岐国分尼寺 | 香川県高松市国分寺町新居 | 浄土真宗興正派・大慈山法華寺 (香川県高松市国分寺町新居2378) |
伊予国分尼寺 | 不明 (推定:愛媛県今治市桜井) | 真言律宗・補陀洛山法華寺 ( 愛媛県今治市桜井甲243) |
土佐国分尼寺 | 不明 | ー |
西海道
国名 | 所在 | 現在 |
筑前国分尼寺 | 福岡県太宰府市国分 | ー |
筑後国分尼寺 | (推定)福岡県久留米市国分町 | ー |
豊前国分尼寺 | 不明 (推定:福岡県京都郡みやこ町徳政) | ー |
豊後国分尼寺 | 不明 (推定:大分市国分) | ー |
肥前国分尼寺 | 佐賀市大和町尼寺 | ー |
肥後国分尼寺 | 熊本市中央区出水 | ー |
日向国分尼寺 | 宮崎県西都市右松 | ー |
大隅国分尼寺 | 不明 | ー |
薩摩国分尼寺 | 不明 (推定:鹿児島県薩摩川内市天辰町) | ー |
壱岐島分尼寺 | 不明 | ー |
対馬島分尼寺 | 不明 | ー |
国分寺・国分尼寺の衰退
鎮護国家思想の下で精力的に建立された国分寺・国分尼寺でしたが、律令体制が崩れていき朝廷が力を失ってその財政基盤が危うくなっていくと、朝廷からの経済的援助が受けられなくなって衰退していきます。
さらに、国分尼寺については、国が認めた尼を置く規定であったものの、奈良時代中期に戒律が伝わった後に朝廷が女性の授戒を禁止したために国分尼寺に尼がいなくなり、国分尼寺の存在意義が失われます。
この結果、時の経過により多くの国分寺・国分尼寺が失われています。
もっとも、中世期以降になると、当初の性格・宗派を変更した寺院として失われた国分寺・国分尼寺が再利用されることで存続する事例が見られるようになります。
そのため、今日の国分寺・国分尼寺については、奈良時代に建立された寺院であるにも関わらず、後の次代に開かれた仏教宗派寺院として存続している例が見られます。