岡田以蔵(おかだいぞう)は、天誅と称して幕末の京で幕府方の要人を斬りまくった土佐藩郷士です。
武市瑞山(半平太)の命に従い、多くの暗殺を行ったことから、同時期には「天誅の名人」と呼ばれ、後世では「人斬り以蔵」と称されて「幕末の四大人斬り」の1人にも数えられています。
もっとも、最後には兄貴分と慕う武市半平太に見捨てられ、同志たちにも軽蔑されながら斬首刑に処せられるという悲しい生涯を終えた人物でもあります。
本稿では、そんな悲しき人斬り・岡田以蔵の生涯について見ていきたいと思います。
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岡田以蔵の出自
出生(1838年1月20日)
岡田以蔵は、天保9年(1838年)1月20日、家禄は二十石六斗四升五合の土佐藩郷士であった岡田義平の長男として、土佐国香美郡岩村(現高知県南国市)にて生まれます。
母は、里江といい、弟に後に土佐勤皇党に加わる岡田啓吉がいます。
写真や肖像は伝存しないために岡田以蔵の容貌についてははっきりとしたことはわかっていませんが、土佐の牢番によると出っ歯であったとされています。
武市半平太に師事する
成長した岡田以蔵は、諱を宜振(読み方は、よしふる・たかのぶ・のぶたつ等諸説あり不明)とし、小野派一刀流(中西派)の麻田直養に剣術を学び、また武市半平太(瑞山)に師事します。
体躯に優れ剣の才能に恵まれた岡田以蔵は、武市半平太に剣才を買われて可愛がられます。
そして、安政3年(1856年)9月、武市半平太は、江戸に出て桃井春蔵の道場・士学館にて鏡心明智流剣術を学ぶこととなり、岡田以蔵もこれに同行します。
そして、岡田以蔵は、武市半平太と共に安政4年(1857年)9月に土佐に戻った後、万延元年(1860年)8月、時勢探索に赴く武市半平太・久松喜代馬・島村外内らと共に中国地方・九州地方へ剣術修行に出ます。
その後、武市半平太と別れた以蔵は、豊後国岡藩で直指流剣術を学んだ後、文久元年(1861年)5月ごろに再び江戸に出ます。
土佐勤皇党旗揚げ(1861年8月)
他方、岡田以蔵と別れて土佐に戻った武市半平太は、桜田門外の変により幕府の弱体化が決定的になったのを見て、江戸幕府では諸外国と渡り合えないと考えて幕府政治に見切りをつけます。
そこで、武市半平太は、文久元年(1861年)8月、藩をあげて尊王攘夷を行おうと考え、郷士のみならず上士からも同志を募って192名の血盟状作成の上で土佐勤皇党を結成します。
この土佐勤皇党は、その他の尊王攘夷運動とは一線を画しており、個々の志士による攘夷運動だけではなく、藩全体を挙げての攘夷運動を行うべきであるとの思想に基づいて行動することを目的としていました。
この土佐勤王党の思想は、藩内の理解を得ることに成功し、最終的には200人を超える参加者と500人を超える協力者を擁する土佐藩における尊王攘夷運動の急先鋒となります。
そこで、土佐勤王党を結成して尊王攘夷思想を高めた武市半平太は、土佐藩参政・吉田東洋に対し、何度も薩摩・長州・土佐の三藩主を同時入京させて京で尊王攘夷運動を進めようとする「挙藩勤王」を説きますが、吉田東洋にことごとく却下されます。
吉田東洋暗殺(1862年4月8日)
この武市半平太の思想と呼応するように、文久2年(1862年)ころになると、薩摩藩・長州藩において、朝廷からの上洛の内勅に応じて藩主を奉じて尊王攘夷運動の中心地となっていた京に進出しようとする動きが出ていました。
ところが、土佐藩は吉田東洋らの反対もあって、藩として何一つ動きがないまま時間のみが過ぎていきます。
その結果、土佐藩の日和見を悲観して、吉村寅太郎や坂本龍馬などが土佐藩を脱藩して各自で尊王攘夷を行うようになりました。
この土佐藩の消極的な態度を見た武市半平太は、大きな決断を下します。
吉田東洋の反対によって土佐藩が動かないと判断した武市半平太は、クーデターによって藩政から吉田東洋を実力排除しようと決めたのです。
もともと政治基盤の弱かった吉田東洋でしたが、最大の後ろ盾であった前藩主・山内容堂が安政の大獄に抗議して隠居・失脚していたこともあってその勢力が衰えていたことからもあり、文久2年(1862年)4月8日、武市半平太の指示を受けた那須信吾ら土佐勤王党員によってなすすべなく暗殺されます。
吉田東洋暗殺の結果、土佐藩内において土佐勤王党を抑える者がいなくなり、土佐藩が土佐勤王党の圧力に屈する形で尊王攘夷論を是とする政権が誕生します。
土佐勤皇党に参加(1862年4月)
剣術修行のために江戸にいた岡田以蔵は、故郷の土佐で武市半平太が土佐勤皇党旗揚げをし、土佐藩を掌握したとの話を聞きます。
この話を聞いて居ても立っても居られなくなった岡田以蔵は、文久2年(1862年)4月、土佐に戻って土佐勤王党に参加します。
京で天誅を繰り返す
武市半平太と京へ上る(1862年6月)
土佐藩の政治を事実上手中に収めた武市半平太は、文久2年(1862年)6月、ついに土佐藩を挙げて尊王攘夷を実行するため、尊王攘夷思想の中心地となっていた京に上ります。
そして、このとき、岡田以蔵もまた参勤交代の衛士に抜擢されて参勤交代の列に加わり、武市半平太と共に京へ上ります。
天誅の始まり
京で薩長他藩の同志たちと協力して尊王攘夷のための政治活動を始めることとなったた武市半平太でしたが、その手段はとんでもないものでした。
武市半平太が行った政治活動は、天誅(天の裁き)と称して、幕府方の要人を暗殺してこれを晒し、幕府方に恐怖心を植え付けてその思想を質そうとするものだったのです。
一言でいうと、武市半平太は、テロによる恐怖支配を試みたのです。
そして、このとき、武市半平太による天誅の実行者の主力となったのが岡田以蔵でした。
要人暗殺(1862年8月~10月)
① 井上佐市郎暗殺(1862年8月2日)
京で暗殺を繰り返すこととなった岡田以蔵ですが、その最初の暗殺は、幕府方ではなく同じ土佐藩役人・井上佐市郎でした。
土佐藩の下横目(下級警官)であった井上佐市郎は、吉田東洋暗殺事件を捜査していたのですが、この動きを危険視した土佐勤皇党は井上佐市郎を暗殺することを決定し、その暗殺を岡田以蔵らに命じます。
岡田以蔵らは、文久2年(1862年)8月2日、井上佐市郎を料亭「大与(だいよ、大與とも)」に呼び出して泥酔させ、岡田以蔵・久松喜代馬・岡本八之助・森田金三郎の4人で心斎橋の上まで運んだ後、手拭いで絞殺して遺体を橋上から道頓堀川へと投げ棄てます。
なお、この事件に際し、岩崎弥太郎が井上佐市郎に同行していたのですがなんとか難を逃れています。
② 本間精一郎暗殺(1862年閏8月20日)
次のターゲットは、越後国出身の勤皇の志士・本間精一郎でした。
本間精一郎は、特定の藩に属しない論客であったためにその態度を浮薄と見た各藩の志士から疎まれ始めていた人物であったところ、青蓮院宮と山内容堂との間で攘夷督促勅使を巡る争いが持ち上がった際に前者を推進する本間精一郎と後者を推す土佐勤王党の間で対立が起こります。
このとき、土佐勤皇党では、本間精一郎の暗殺を決定し、料亭から出てきた本間精一郎を岡田以蔵・平井収二郎・島村衛吉・松山深蔵・小畑孫三郎・弘瀬健太・田辺豪次郎・田中新兵衛らで取り囲んで押さえつけてわき腹を刺した後斬首する方法で暗殺します。
なお、この後、本間精一郎の遺体は高瀬川へと投げ棄てられています。
③ 宇郷重国殺害(1862年閏8月22日)
また、前関白九条家の諸大夫であった宇郷重国もそのターゲットとなります。
宇郷重国は、玄蕃頭(げんばのかみ)という官名を持つ役人だったのですが、安政の大獄の際に、同じ九条家の侍臣島田左近と共に尊王攘夷志士の弾圧を行った上、公武合体派として和宮降嫁推進にも関わっていたために攘夷派志士からの遺恨を買っていました。
同年7月21日に島田左近が暗殺されたため、身の危険を感じていた宇郷重国は、居所を転々としていたのですが、文久2年(1862年)閏8月22日、九条家河原町御殿に潜伏しているのを発見され、岡田以蔵、岡本八之助、村田忠三郎、肥後の堤松左衛門に急襲されます。
そして、宇郷重国は岡田以蔵に、その子は堤松左衛門に斬られ、その首は槍に刺さされて鴨川河岸にて捨札と共に晒されました(官武通記)。
④ 猿の文吉殺害(1862年閏8月30日)
また、島田左近、宇郷重国と共に、安政の大獄時に島田左近の手先として多くの志士を摘発した目明し(岡っ引)である猿の文吉(ましらのぶんきち)もターゲットとされます。
なお、猿の文吉は、島田左近の高利貸しの手伝いをして法外な金子を得ていたために志士達から強い恨みを買っていたため、猿の文吉の天誅参加希望者が多数に上ったため、籤引きで人選をしたという話が伝えられています。
そして、猿の文吉の天誅のメンバーとして、岡田以蔵、清岡治之介、阿部多司馬の3人が選ばれ、同人らは、文久2年(1862年)閏8月30日夜、猿の文吉を自宅から拉致して三条河原(現在の三条京阪駅北側にあるだん王法林寺付近)へ連行し、裸にして河原の杭に縛り付けた上で斬ると刀の穢れになるとして細引(細い紐)で絞殺します。
そして、猿の文吉の遺体は、竹の棒を肛門から体内を貫通させて頭まで通された上、亀頭に釘を打たれた状態で晒されます(これは、猿の文吉が、かつて御所の女官を犯して罰せられたことに対する仕打ちとされています。)。
遺体を晒された猿の文吉でしたが、猿の文吉は、高利貸しと厳しい取り立てを行なっていたことから民衆にも嫌われていたためその遺体に投石する者もあり、また遺体も長らく放置されていたと言われています。
また、猿の文吉の捨札に「いぬ」と書いてあったため、そこから権力者の手先となって動く者という意味の「・・の犬」という慣用が生まれたという説もあります。
⑤ 4人の与力殺害(1862年9月23日)
さらに、安政の大獄で長野主膳、島田左近らと共に志士摘発を行った京都町奉行所与力の渡辺金三郎(わたなべ きんざぶろう)、森孫六(もり まごろく)、大河原重蔵(おおがわら じゅうぞう)、上田助之丞(うえだ すけのじょう)の4人もそのターゲットとされます。
島田左近・宇郷重国・猿の文吉に対する天誅が行われたことから、前記4人も天誅の対象となることが予想されたため、前記4人は京から江戸に転任することが決まります。
そして、前記4人は江戸に向かって進み近江国甲賀郡・石部宿まで到達したのですが、ここで土佐、長州、薩摩、久留米の4藩の合計30人を超える浪士一団に襲われて殺害されます。
4人の殺害後に立てられた捨札には、憂国の志士を多数捕らえて重罪に処したことに対する天誅であると書かれていました。
なお、武市半平太が書き遺した在京日記によると、この襲撃に土佐藩から12人参加したとされているのですが、その中に岡田以蔵の名がないため、岡田以蔵の参加の有無は必ずしも明らかではありません。
⑥ 平野屋寿三郎・煎餅屋半兵衛生き晒し(1862年10月9日)
安政の大獄の関与者を屠った後は、朝廷権威の失墜を防止するための天誅が行われます。
当時、平野屋寿三郎、煎餅屋半兵衛という2人の商人が、文久2年(1862年)5月に行われた公卿・大原重徳東下の際に士分となって供をしていたのですが、その際に収賄や横領などを行い、朝廷の評判を低下させます。
その後、この2人が、同年10月に再び勅使に随行することとなり、朝廷の威信失墜を懸念した長州、土佐両藩の志士が相談し、この2人に天誅を加えることとします。
このとき、土佐藩からは岡田以蔵・千屋寅之助・五十嵐幾之助らが、長州藩からは寺島忠三郎らが参加して2名を連行して殺害しようとのですが、町人であったこともあり、2人の家族の助命嘆願もあったために殺害までは行わず、2人を加茂川河岸の木綿を晒す杭に裸にした上で縛り生き晒としています。
江戸に向かう(1862年10月12日~)
岡田以蔵は、文久2年(1862年)10月12日、幕府に攘夷を迫るため京を出発した勅使一行に加わって、正使・三条実美、副勅使・姉小路公知の護衛を務めて江戸に向かいます。
そして、岡田以蔵は、同年10月28日から同年12月7日まで江戸に滞在しています。
その後、京に戻った岡田以蔵は、文久3年(1863年)1月22日の池内大学暗殺、同年1月29日の賀川肇暗殺に関与した可能性が指摘されていますが、その真偽は明らかではありません。
他方、前記の各事件以外にも誰の手によるものかわかっていない事件も多くあり、これらの他にも岡田以蔵が関わった事件がある可能性があります。
岡田以蔵の最期
土佐藩脱藩(1863年1月)
以上のとおり、土佐勤王党の命令に従って京で暗殺を繰り返していた岡田以蔵でしたが、文久3年(1863年)1月、突然土佐藩を脱藩し江戸に向かいます。
なお、このときの岡田以蔵の脱藩理由については、記録が残されていないため明らかとなっていません。
その後、岡田以蔵は、同年2月、萩にいた高杉晋作のもとで居候となり、同年3月には藩命で京へ赴く高杉晋作に同行しています。
なお、岡田以蔵は、このころに高杉晋作からの6両の借金をしたのですが、自身での返済はできず、土佐勤王党員の千屋菊次郎が代わりにこれを返済しています。
勝海舟の下に身を寄せる
京に戻った岡田以蔵でしたが、土佐藩・土佐勤皇党の同志とは疎遠となっていたこともあり、坂本龍馬の紹介で勝海舟の元に身を寄せます。
勝海舟の食客となった岡田以蔵は、勝海舟の護衛を担当とすることとなりました(なお、このとき、勝海舟が岡田以蔵に送ったとされるフランス製のリボルバーが、岡田以蔵の弟である岡田啓吉の子孫の家に伝わっているそうです。)。
あるとき、勝海舟に対して3人の刺客が襲い掛かかり、岡田以蔵がそのうちの1人を切り捨てた後で一喝して残りの2人を追い払うという事件が起こります。
この事件について、後に勝海舟は、岡田以蔵に対して人殺しはよくないと諭したところ、岡田以蔵から自分があのような行動をとっていなかったら勝海舟の首は飛んでいたと回答されて言い返すことができなかったと回顧しています(勝海舟の自伝・氷川清話)。
もっとも、岡田以蔵は、その後しばらくすると勝海舟の下から姿を消して行方知れずとなります。
武市半平太ら投獄(1863年9月21日)
他方、京において独自の政治活動を進めていた尊王攘夷派でしたが、文久3年(1863年)8月18日、孝明天皇・中川宮朝彦親王・会津藩・薩摩藩など幕府への攘夷委任(交渉による通商条約の破棄、鎖港)を支持する勢力が、攘夷親征(過激派主導の攘夷戦争)を企てる三条実美ら急進的な尊攘派公家と背後の長州藩を朝廷から排除するというクーデター(八月十八日の政変)が起こると、尊王攘夷派は一気に勢いを失い、代わって公武合体派が主導権を握るようになります。
この流れは土佐藩にも波及します。
同年9月21日には、吉田東洋暗殺、および京や大坂における一連の暗殺の調査名目で、武市半平太を含む土佐勤王党幹部に対する逮捕命令が出され、武市半平太も城下帯屋町の南会所(藩の政庁)に投獄されました。
その後、土佐勤皇党幹部に対する取り調べが行われ、上士である武市半平太に対しては結審に至るまで拷問される事はなかったものの、下位の者たちに対しては厳しい拷問が行われました。
もっとも、土佐勤皇党のメンバーは、まだ捕らえられていない獄外同志やその他の協力者への連累を食い止めるべく、苦しい拷問に耐えて吉田東洋暗殺事件を含む一切の行為事実を否認し続けます。
岡田以蔵捕縛(1864年2月)
ところが、これらの土佐勤皇党のメンバーらの忍耐を水泡に帰させる事態が起こります。
京で鉄蔵と名乗り無職者として生活していた岡田以蔵が、元治元年(1864年)2月、商家への押し借りをしたとして幕吏に捕えられ、同年4月に入墨のうえ京追放処分となった後に土佐藩吏に捕われて土佐へ搬送されてきたのです。
岡田以蔵の自白
土佐藩に届けられた岡田以蔵に対し、すぐさま拷問が始められます。
このとき、土佐藩が何の調査をしているかすらわかっていなかった岡田以蔵は、自身に行われる拷問に耐え兼ねて泣き叫び、京や大坂での天誅事件への関与やその実行者の名を次々と自白していきます(なお、武市半平太は、このときの岡田以蔵について、女も耐えたような拷問に泣き喚く日本一の泣きみそであると酷評しています。)。
この岡田以蔵の自白により、いまだ捜査の手が及んでいなかった土佐勤皇党の闇が次々と明るみに出てくることとなり、土佐勤皇党員の逮捕者が相次いでいきます。
岡田以蔵毒殺計画
そして、岡田以蔵の自白をきっかけとして土佐勤皇党が崩壊していきます。
自白を続ける岡田以蔵をそのままにしておけば、さらに被害が拡大すると考えた土佐勤皇党員たちは、岡田以蔵の毒殺を計画します。
もっとも、武市半平太や島村寿之助らが強引な毒殺行為に反対して親族の同意を取り付けるべきであると主張したため、岡田以蔵の弟で勤王党血盟者でもある岡田啓吉に対して岡田以蔵の父から毒殺の許可または自害を求める手紙を寄越すように働きかけをさせます。
なお、このやり取りをしている間に、武市半平太の弟である田内衛吉は拷問に耐え切れず服毒して自害し、島村衛吉は拷問死しています。
そして、岡田以蔵殺害計画が実行される前に土佐藩による土佐勤皇党への捜査が終了し、岡田以蔵毒殺計画は実行されずに終わります。
岡田以蔵斬首(1865年閏5月11日)
土佐藩による捜査の結果、天誅実行犯であった岡田以蔵に対し、斬首刑が言い渡されます。
これを聞き、また自らの自白により多くの同志を死に至らせたことを知った岡田以蔵は、その自白を反省し(慶応元年3月25日付武市瑞山宛岡本次郎書簡)、武市半平太によろしく伝えるよう牢番に伝言を頼んでいます。
そして、岡田以蔵は、慶応元年(1865年)閏5月11日に打ち首・獄門の刑に処されます。享年28歳でした。
辞世の句は、「君か為 尽す心は 水の泡 消にしのちそ すみ渡るべき」でした。