【乃木希典】名将か愚将か?死に場所を探し求めた軍神の生涯

乃木 希典(のぎ まれすけ)は、日露戦争での旅順攻囲戦の指揮をとり日本を勝利に導いた陸軍軍人です。

その質実剛健の性格を評価されて第10代学習院長となって迪宮裕仁親王(昭和天皇)の教育係を務めたことや、明治天皇の後を追って殉死(割腹自殺)したことでも有名です。

旅順攻囲戦の指揮により「軍神」との評価されたり、陸軍大将となって贈正二位・勲一等旭日桐花大綬章・功一級伯爵を受けたりした上で「乃木神社」や「乃木坂」などに名前を残したりする成功者である一方で、戦歴に関しては必ずしも華々しいものではなく、失敗続きの屈辱にまみれた人生でもありました。

西南戦争・日露戦争などで後悔を積み重ねて精神的に疲弊し、死に場所を探していた人生と言っても過言ではないかも知れません。

本稿では、苦難に満ちた軍神の生涯を紹介していきたいと思います。

【目次(タップ可)】

乃木希典の出自

出生(1849年11月11日)

乃木希典は、嘉永2年(1849年)11月11日、宇多源氏支流乃木氏の子孫と称する禄高150石の長府藩士であった乃木希次の三男として江戸の長府藩上屋敷(現在の東京都港区六本木)で産まれます。

三男ではありましたが、長兄と次兄が既に夭折していたため世嗣となりました。

母は、乃木希次の妻・壽子(ひさこ)であり、兄たちのように夭逝することなく壮健に成長して欲しいという願いが込められて幼名は無人(なきと)と名付けられました。

なお、その後源三ないし頼時と称し、さらにその後に文蔵と改めていますが、本稿では便宜上「乃木希典」の表記で統一します。

江戸・長府藩上屋敷での生活

父である乃木希次が江戸詰の藩士であったため、乃木希典もまた長府藩上屋敷において生活を始めます。

幼少時の乃木希典は、虚弱体質であり臆病であったために友人に泣かされることも多く、「無人」の名にかけて「泣き人」とあだ名されることもある完全な文化系人間でした。

この態度から乃木希典を軟弱者と見た父は、寒いと言えば冷水を浴びせるなど、乃木希典を厳しく育てることとします。

なお、この態度は母・乃木壽子も同様であったようで、時期は不明ですが、母が、なかなか起きてこない乃木希典を起こそうとして蚊帳で叩いた際に蚊帳の釣手の輪を左眼に当ててしまって乃木希典は左眼を失明したと言われています。

長府転居(1858年)

安政5年12月(1859年1月)、父の乃木希次が藩主の跡目相続に関する紛争に巻き込まれて藩から長府への下向を命じられたことに伴い、乃木希典もこれに伴って長府に転居します。

長府に帰郷した乃木希次は、禄高を1/3の50石に減じられた上で、100日の閉門処分に処されます。

元服

安政6年4月(1859年5月)、11歳になった乃木希典は、漢学者の結城香崖に入門して漢籍および詩文を学び始めます。

また、その後、万延元年1月(1860年2月)以降に流鏑馬・弓術・西洋流砲術・槍術および剣術なども学び始め、文久2年(1862年)6月20日には長府藩の鍛錬道場であった集童場に入ります。

そして、乃木希典は、安政5年12月(1863年2月)、元服して名を「無人」から「源三」に改めます。

もっとも、元服後も乃木希典の性格は変わらず、その後も幼名にかけて「泣き人」と呼ばれ続けました。

家出(1864年3月)

元治元年(1864年)3月、16歳となった乃木希典は、学者となることを志して父と対立し、家出します。

長府を出た乃木希典は、70km以上歩いて萩に赴いて萩に向かい、同地で親戚筋にあたる兵学者の玉木文之進(吉田松陰の叔父・松下村塾の創立者)の家に住み込み、農産作業手伝い兼門下生となります。

その後、同年9月から萩藩校・明倫館の文学寮に通学し、同年11月からは一刀流剣術を学び始めるなどしたことにより精錬実直な人格形成がなされて行きました。

第二次長州征討従軍(1865年)

この頃の長州藩では、高杉晋作により身分を問わない奇兵隊が組織されたことに始まり、その他様々な身分の者からなる部隊が次々に編成されていたのですが、慶応元年(1865年)に第二次長州征討が開始されると、乃木希典は長府に戻ってそのうちの1隊である長府藩報国隊に参加し、幕府軍と戦う道を選びます。

そして、小倉口の戦い戦闘(小倉戦争)の際には奇兵隊・山縣有朋の指揮下で山砲一門を有する部隊を率いて戦い、小倉城一番乗りを果たす武功を挙げています。

もっとも、その後、明倫館文学寮に復学したこと、左足負傷したことなどから以降の江戸幕府との戦いには参戦をしませんでした。

その後、慶応4年1月(1868年2月)に報国隊の漢学助教となった後、同年11月に、報国隊隊長であった従兄弟の御堀耕助の斡旋の結果として藩命により伏見御親兵兵営に入営してフランス式訓練法を学びます。

また、その後の明治2年(1869年)7月に京都河東御親兵練武掛、明治3年(1870年)1月4日に豊浦藩(旧長府藩)の陸軍練兵教官となって馬廻格100石を給されました。

大日本帝国陸軍入隊

大日本帝国陸軍少佐任官

乃木希典は、明治4年11月23日(1872年1月3日)、黒田清隆の推挙により、大日本帝国陸軍の少佐に任官して東京鎮台第2分営に属します。

当時22歳の若者であり、しかも明治維新にて大きな働きをしなかった乃木希典の少佐任官は異例の大抜擢人事であり、乃木希典もまたこれを喜んで、後に「生涯何より愉快だった日」であると述べています。

乃木希典に改名

そして、乃木希典は、少佐任官の翌月である明治4年12月(1872年1月)、正七位に叙されたことを契機として、名を「源三」から「希典」に改めます。

陸軍少佐として東京鎮台第3分営大弐心得および名古屋鎮台大弐を歴任した後、明治6年(1873年)3月に越前護法大一揆鎮圧に出動し、同年6月25日に従六位に叙されます。

翌明治7年(1874年)5月12日に家事上の理由から辞表を提出して4か月間の休職に入った後、同年9月10日には陸軍卿伝令使(陸軍卿山縣有朋の秘書官)として復帰します。

第14連隊長として小倉着任

不平士族の反乱に呼応することを危惧されていた山田頴太郎(前原一誠の実弟)が熊本鎮台歩兵連隊長を解任されたことに伴い、その後任として、明治8年(1875年)12月に乃木希典が熊本鎮台歩兵第14連隊長心得に任じられて小倉(現在の福岡県北九州市小倉北区)に着任します。

小倉入った乃木希典の下に、直後から実弟である玉木正誼(玉木文之進の養子)が度々訪れるようになり、前原一誠に同調して政府に対して反乱を起こすよう説得を受けるようになります。

乃木希典は弟の説得に賛同しなかったばかりか、その事実を山縣有朋に報告したため、不平士族の情報が政府方に筒抜けとなります。

秋月の乱鎮圧(1876年10月)

その後、明治9年(1876年)10月24日に熊本県で起こった神風連の乱に呼応して、同年10月27日に福岡県秋月(現在の福岡県朝倉市秋月)において旧秋月藩の不平士族約400人による反乱が発生します(秋月の乱)。

秋月で挙兵した不平士族は、数日後に挙兵予定の萩の不平士族(同年10月28日挙兵)と合流するために東に向かって進んで行きます。

もっとも、事前にこの情報を掴んでいた乃木希典は、同年10月29日、歩兵第14連隊を率いて豊津(現在の同県京都郡みやこ町豊津)に布陣してこれを迎撃し、旧秋月藩不平士族一団を壊滅させます。

萩の乱(1876年10月28日)

明治9年(1876年)10月28日に山口県萩においても前原一誠(元参議)・奥平謙輔らに率いられた不平士族約200人(506人説・2000余人説あり)による反乱が発生します(萩の乱)。なお、この萩の乱には乃木希典の実弟である玉木正誼も参加していました。

この反乱に対して、秋月の乱を鎮圧した乃木希典率いる歩兵第14連隊への出動要請がかかったのですが、乃木希典はこれに対しては小倉でも反乱の気配があるという理由をつけて麾下の部隊を動かしませんでした。

その後、同年10月31日の橋本橋の戦いで弟・玉木正誼が戦死し、同年11月6日までに萩の乱自体が政府軍の別部隊により鎮圧されます。これにより、同日、養子玉木正誼や門弟の多くが萩の乱に参加した責任を取るため、乃木希典の師である玉木文之進が先祖の墓の前で自害して果てています。

この一連の不平士族反乱鎮圧は、乃木希典の武功として記録されることとなった一方で、かつての同胞たちを手にかけた上、弟・玉木正誼や師・玉木文之進を死に追いやったことによる罪悪感を乃木希典にもたらすこととなりました。

西南戦争での屈辱(1877年)

(1)西郷隆盛挙兵(1877年2月)

前記のような散発的な不平士族の反乱を経て、明治10年(1877年)に明治維新の英雄であった西郷隆盛が反政府を掲げて挙兵します。

この結果、政府では、同年2月6日に陸軍卿山縣有朋から鹿児島で暴動の形跡があるとして警備の内示がなされ(乃木希典の日誌)、また翌同年2月7日には海上侵攻を恐れた長崎より派兵要請が届きます。

このとき、乃木希典は、薩摩軍に海上から長崎に侵攻する能力はないと判断する一方で、薩軍の北上を警戒して熊本鎮台に久留米に派兵するよう要請しています。

そして、乃木希典は、同年2月14日、鎮台司令長官谷干城の命を受けて小倉から熊本に移動して作戦会議に参加し、そこで鎮台全兵力をもって熊本城に入って籠城する作戦が決まります。

(2)植木での遭遇戦(1877年2月22日)

そこで、第十四連隊と合流するために熊本を発った乃木希典は、明治10年(1877年)2月17日に福岡に入ったところで、薩摩軍が鹿児島を出発して北上中であるとの報告を受けます。

そこで、乃木希典は、小倉から呼び寄せた第十四連隊の各隊のうちの到着部隊を再編成し、これを率いて南に向かい、福岡県久留米を経て同年2月21日夜に南関(現在の熊本県玉名郡南関町)に入ります。

そして、同年2月22日夕刻、熊本県植木町(現在の熊本市植木町)付近において両軍が遭遇して戦闘となります。

このとき、乃木希典が率いる第十四連隊は主力の出発が遅れた上に強行軍であったために脱落者が出ていたことから200人程度の兵力となっていたのに対し、薩摩軍先遣隊は400人程度であったため、圧倒的な戦力差で戦いが行われました。

寡兵の第十四連隊は3時間ほど持ちこたえたものの、それ以上の戦闘は困難であると判断したため、同日午後9時頃、乃木希典の決断により後方の千本桜まで後退する指示が出されました。

(3)薩摩軍に連隊旗を奪われる

そして、この撤退戦の中で乃木希典が生涯の恥辱と悔やむ事件が起こります。

連隊旗を持って撤退いた河原林雄太少尉が薩摩軍に討たれ薩摩方の岩切正九郎に連隊旗を奪われてしまったのです。

連隊旗を得た薩摩軍は、奪った旗を掲げて気勢を上げます。

なお、連隊旗を隊の団結の象徴として神聖視するようになったのは日露戦争後頃からであり、この頃はまだ連隊旗を聖視する風潮はなかったのですが、乃木希典は連隊旗を奪われたことを生涯における最大の恥辱と考えました

(4)第二旅団に編入(1877年2月25日)

また、その後、明治10年(1877年)2月23日、木葉付近で前進してくる薩摩軍に攻撃されて第三大隊長の吉松速之助少佐が戦死しています。

この結果、さらに菊池川右岸の石貫まで後退したところで、同年2月25日に博多から順次南下してきた政府軍先遣部隊が戦場に到達したため、歩兵第十四連隊は第二旅団(旅団長:三好重臣少将)の指揮下に入ることとなり第十四連隊としての戦いが終わります。

(5)高瀬の戦い(1877年2月26日)

明治10年(1877年)2月26日、進軍してきた第一旅団によって政府方が攻勢に転じ、前衛の第十四連隊が菊池川を渡河して安楽寺山付近にいた薩摩軍右翼の越山隊を撃破し、退却する同隊を追って田原坂上まで進みます。

このとき、田原坂の有用性を見て取った乃木希典が同地を確保すべきであると主張したのですが、第二旅団長・三好重臣少将は薩摩郡の反撃を警戒して撤退指示を出したため、乃木希典率いる第十四連隊はやむなく田原坂を放棄し石貫まで後退したため、再び薩摩軍が田原坂に陣取ります(なお、このときの三好重臣少将の判断が政府軍を大いに苦しめる結果となりました)。

翌同年2月27日、薩摩軍が攻勢に転じ、山鹿方面より桐野利秋率いる3個小隊約600人が、植木・木葉方面から篠原国幹・別府晋介率いる6個小隊約1200人が、吉次・伊倉方面から村田新八率いる5個小隊約1000人が進撃してきて政府軍とこの地域の要衝となっていた稲荷山を巡っての西南戦争最大の野戦となる戦いとなり(高瀬の戦い)、乃木希典率いる第十四連隊は桐野利秋率いる左翼軍との間で激しい戦闘により政府軍の勝利に貢献しています。

その後、田原に陣取った薩摩軍を攻撃するために、同年3月1日より政府軍は田原坂・吉次峠に攻撃を加え、同年3月20日に再占領するまで約3000人の犠牲と一日平均銃弾30万発・砲弾約1000発の消費を経てようやくこれを制圧するに至ります。

(6)負傷して戦線離脱

田原坂の戦いにおいて乃木希典は銃撃を受けて前線から運び出されて久留米軍団病院に負傷入院したのですが、乃木希典は、明治10年(1877年)3月19日に久留米軍団病院から脱走して前線に復帰し連隊を指揮します(この行為により「脱走将校」との異名を付けられました。)。なお、このとき負った傷害により左足がやや不自由となる後遺症が残っています。

この乃木希典の脱走劇は、連隊旗を奪われたことの責任をとるため前線で死ぬつもりであったためと考えられています。

その後、明治10年(1877年)3月20日に田原坂が政府軍により攻略されたため、翌同年3月21日に負傷した乃木希典には第一旅団参謀兼務を命じられます。

(7)自殺未遂を繰り返す

その後、政府軍により熊本城を取り囲む薩摩軍が排除されて熊本城が解放されると、明治10年(1877年)4月18日に乃木希典が熊本城に入城します。

このとき、乃木希典は、官軍の実質的な総指揮官であった山縣有朋に対して、連隊旗喪失の責めを負うために「待罪書」を送って厳しい処分を求めたのですが無視され、そればかりか同年4月22日付で戦功により中佐進級となり前線指揮から離されて後方支援に回されます。

政府による処罰が与えられなかった結果として自分が許せなくなり、自責の念に押しつぶされることとなった乃木希典は、以降、何度も自殺未遂を繰り返すようになり、熊本鎮台参謀副長・児玉源太郎が自刃しようとする乃木希典を見つけて軍刀を奪い取って諫めるということまで起こります。

こうして西南戦争における前線から外されて死に場所を失った乃木希典は、このとき以降、死に場所を探すため人生を送っていくこととなります。

自責の念に堪えかねての放蕩生活

東京着任(1878年2月14日)

西南戦争の戦後処理が終わった明治11年(1878年)1月25日、乃木希典は、東京の歩兵第一連隊長に抜擢され、同年2月14日に東京に着任します。

東京着任時の乃木希典は、秋月の乱に始まる一連の不平士族の鎮圧で実弟など親族を失ったこと、西南戦争で連隊旗を奪われたことなどの責任を感じて自暴自棄となっており、東京に移ってすぐに柳橋・新橋・両国などの料亭へ入り浸って酒に溺れるようになり、その放蕩ぶりから「乃木の豪遊」として周囲に知れ渡るようになります。なお、この放蕩ぶりはドイツ留学まで続いています。

結婚(1878年10月27日)

酒に溺れて荒れた生活を心配した母・乃木壽子は、結婚して幸せな家庭を持つことができれば乃木希典の生活も穏やかになると考え、乃木希典に結婚を強く勧め、その結果、乃木希典はお見合いにより旧薩摩藩藩医の娘・お七(結婚後に「静子」に改名)と結婚することとなります。

そして、乃木希典は、明治11年(1878年)10月27日にお七(静子)と結婚したのですが、結婚という事実は乃木希典に何らの変化ももたらさず、結婚が決まった後も毎晩のように酒に溺れる生活が続けられ、祝言当日も料理茶屋にいて祝言に遅刻するという有様でした。

また、結婚後もこの生活は変わらず、酒に溺れて帰宅する自堕落毎日が続きました。

もっとも、夜は酒に溺れている乃木希典も、職責はきちんと果たしており、明治12年(1879年)12月20日に正六位に叙され、明治13年(1880年)4月29日に大佐へと昇進し、また同年6月8日には従五位に叙されています。

男児を儲ける

放蕩生活を続ける乃木希典でしたが、結婚生活が破綻していたわけではなく、明治12年(1879年)8月28日に長男・勝典を、明治14年(1881年)12月16日に次男・保典を儲けています。

将官昇進(1885年5月21日)

その後、乃木希典は、明治16年(1883年)2月5日に東京鎮台参謀長に任じられ、明治17年(1885年)5月21日には最年少で少将に昇進した上で歩兵第11旅団(熊本)長に任じられます。

また、同年7月25日には正五位に叙されました。

ドイツ留学(1887年1月~1888年6月)

対応が遅れた西南戦争の反省などから軍を国政から切り離して自由且つ迅速に行うことを目的とし、明治11年(1878年)にドイツ陸軍の兵制を模範とした参謀本部と監軍本部が設置され、これに伴って陸軍の兵式についてもフランス兵式からドイツ兵式に切り替えが図られます。

このとき、陸軍少将の乃木希典と川上操六が、明治20年(1887年)1月からのドイツ陸軍の視察留学を命じられます。

ドイツに入った乃木希典は、ベルリン近郊の近衛軍に属してドイツの陸軍システムについて学び、またヨーロッパにおける最新の軍事論を学びました。

また、ドイツ軍人の質実剛健を体現するような姿勢に感銘を受けた乃木希典は、それまでの自堕落な生活を改めるようになります。

乃木希典は、明治21年(1888年)6月10日に日本に帰国すると、軍紀維のための綱紀粛正・軍人教育の重要性を説いた復命書を陸軍大臣・大山巌に提出し、自らも復命書通りの記述を体現するかのように振る舞うようになります。

具体的には、常に乱れなく軍服を着用するようになり、平素は稗を食して来客時には蕎麦を振る舞い、さらには留学前には足繁く通っていた料理茶屋・料亭には赴かないようになり、生活を質素に徹するようになりました。

2度目の休職(1892年2月)

帰国して第11旅団(熊本)に帰任した乃木希典は、その後近衛歩兵第2旅団長(東京)を経て、歩兵第5旅団長(名古屋)となります。

もっとも、明治25年(1892年)2月、上司であった第3師団長・桂太郎とそりが合わず、病気を理由として歩兵第5旅団長を辞任して休職した乃木希典中は、栃木県那須郡狩野村石林に購入した土地(現在の栃木県那須塩原市石林、後の那須乃木神社)で農業を始めます。

なお、この後、乃木希典は、休職するたびに那須野で農業に従事し、その姿から「農人乃木」と呼ばれました。

日清戦争出征

出征(1894年10月)

10か月の休職を経て明治25年(1892年)12月8日に東京の歩兵第1旅団長として復職します。

そして、明治27年(1894年)8月1日に日本が清に宣戦布告することにより日清戦争が始まり、同年9月17日の黄海海戦に勝利して制海権を得た日本軍は、清国への本格的な侵攻を始めます。

そして、乃木希典もまた、同年10月、麾下の歩兵第1旅団を率い、大山巌が軍団長を務める第2軍の指揮下にて出兵することが決まります。

乃木希典は、麾下の歩兵第1旅団と共に同年9月24日に東京を出発し、広島に集結した後、宇品港(現在の広島港)から出航します。

同年10月24日に花園口(現在の中華人民共和国遼寧省大連市荘河市)に上陸すると、同年11月から破頭山・金州・産国・和尚島を転戦していきます。

旅順攻囲戦(1894年11月24日)

明治27年(1894年)11月24日、大山巌大将率いる第2軍1万5000人が、1万3000人の清兵が籠る旅順要塞を攻撃したのですが、この攻撃には、歩兵第1旅団長として乃木希典も参加しています。

このときの清兵の士気は極めて低かったため、日本軍の攻撃によりわずか1日で旅順要塞が陥落します。

蓋平の戦い

その後、厳冬期も侵攻を続けた日本軍は、同年12月13日に海城に進出してこれを占拠し、また明治28年(1895年)1月10日には、第1軍の要請を受けた第2軍との混成旅団が蓋平を攻撃し占拠します。

この戦いでは、乃木希典は、日本の第1軍第3師団(師団長桂太郎)を包囲した清国軍を撃破き、「将軍の右に出る者なし」といわれる高い評価を受けます。

中将昇進(1895年4月5日)

そして、乃木希典は、この後も太平山・営口・田庄台の戦いを経て、同年4月5日に陸軍中将に昇進し、宮城県仙台市に本営を置く第2師団の師団長となりました。

男爵陞爵

日本軍の攻勢に苦しくなった清は、日本に対して講和の申し入れをします。

これに対し、日本としては、ロシアの脅威をかわしつつ領土拡大を図るために北守南進策をとることとし、北守のための朝鮮独立、遼東半島の割譲、及び南進策の拠点となる台湾・澎湖列島の割譲を条件としてこれに応じることとします。

そして、この条件の下で明治28年(1895年)4月17日に講和条約である下関条約が結ばれて日清戦争が終わります。

なお、乃木希典は、同年8月20日に男爵となって華族に列せられることとなりました。

台湾総督として

台湾征討参戦

下関条約により清から台湾の割譲を受けた日本は台湾総督府を設置して統治を開始したのですが、台湾住民にとって同意できる内容ではありませんでした。

そのため、明治28年(1895年)5月に日本による領有に反対する軍官民がフランスからの支援を期待して台湾民主国が独立を宣言し、日本への抵抗を明示します。

割譲を受けた台湾の独立など認められようはずがない日本では、直ちに台湾征討軍が編成されます

ここで、乃木希典率いる第2師団にも出征命令が出され、台湾征討(乙未戦争)に参戦します。

台湾総督府設置(1895年6月17日)

台湾に向かった日本軍は、台湾北部に上陸して台湾民主国軍と戦闘になったのですが、台湾民主国首脳陣の逃亡が相次いだため、北洋大臣李鴻章が早々に日本側の要求を受け入れ、明治28年(1895年)6月2日に樺山資紀への台湾授受手続きを終了させたため、同年6月17日、台北において初代総督を樺山資紀とする台湾総督府による台湾統治が正式に開始されました。

乙未戦争

もっとも、その後も義勇軍が前線で戦い、これを住民が後方支援するというゲリラ戦を展開する台湾民による抵抗が続き、南進を続ける部隊の1つとして乃木希典率いる第2師団もまた台湾内を転戦します。

明治28年(1895年)8月20日に台南にも上陸した日本軍による南北からの挟撃が始まり、苦しくなった民主国大将軍の劉永福が同年10月19日にドイツ商船に乗って厦門に逃亡したことで勝敗が決し、同年11月18日に樺山資紀により全島平定宣言を発せられました。

その後は、一部で散発的な抵抗がなされたものの、本格的な反抗は終わったと判断されたため、乃木希典率いる第2師団もまた明治29年(1896年)4月に台湾を発ち仙台に帰国しています。

第3代台湾総督任命(1896年10月14日)

乙未戦争後の混乱期ということもあって台湾の治安維持目的で以降の台湾総督は陸軍将官から選任されることとなり、明治29年(1896年)10月14日、乃木希典が第3代台湾総督に親補され、妻(乃木静子)と母(乃木壽子)を伴って台湾へ赴任しました。もっとも、母・乃木壽子は間もなくマラリアに罹患して死去しています。

台湾に入った乃木希典は、治安維持を図ると共に、教育勅語漢文訳を用いて台湾島民を教育し、またに現地人を行政機関に採用することで現地の旧慣を施政に組み込んだ上、日本人に対しては現地人の陵虐および商取引の不正を戒めたことで治安については一定の安定が確立します。

他方で、陸軍軍人である乃木希典は、殖産興業などの経済政策についての理解を有しておらず、積極的な内政整備をすることができませんでした。

この状況下で、乃木希典は、台湾総督府の官吏の綱紀粛正を徹底したため次第に民政局長・曾根静夫ら配下の官吏との対立するようになり、管理能力不足が指摘されるようになっていきました。

その結果、乃木希典は、明治30年(1897年)11月7日に台湾総督辞職に追い込まれます。

馬蹄銀事件

ロシアとの戦争に備えるために戦力を増強することとなり6個師団が新設されることとなったのですが、明治31年(1898年)10月3日、休職中の乃木希典がその新設師団の1つである香川県善通寺の第11師団の初代師団長に任命されます。

そして、明治33年(1900年)に北清事変(義和団事件)が起こると、第11師団からは隷下の歩兵第12連隊から第3大隊が派遣されてその鎮圧に従事します。

ところが、事変後に現地に残っていた第五師団(師団長・山口素臣中将)を中心とする部隊が清の通貨である馬蹄銀を横領したという疑惑が浮上し、これに乃木希典の部下が関与したとして新聞紙面を騒がせる事態に発展します。

この事態を鎮静化するため、明治34年(1901年)5月22日、乃木希典は師団長は引責辞職します(表向きの求職理由はリウマチ)。

4度目の休職(1901年5月)

休職により帰京した乃木希典は、従前休職した際と同様、栃木県那須野石林にあった別邸で農耕をして過ごします。

乃木希典は生涯で計4回休職したのですが、このときの休職期間が最も長く、2年9か月に及びました。

なお、この休職期間中も、乃木希典は中央政界とのパイプを維持するために足しげく東京に通っては要人と会い、また軍事演習があると可能な限り出向いて自身の健在さをアピールすることを忘れませんでした。

日露戦争出征

復職(1904年2月)

明治36年(1903年)頃から朝鮮半島を巡る日本とロシアとの緊張が高まり、日本ではロシアとの戦争準備が進められていきます。

そして、日露戦争開戦の直前である明治37年(1904年)2月5日、休職中の乃木希典に対しても動員令が下り、留守近衛師団長という東京勤務職として復職を命じられます。なお、乃木希典にとっては「留守近衛師団長」という東京での後備任務は不満でした。

第三軍司令官任命(1904年5月2日)

ロシアとの戦争にあたっては日本本土と満洲軍との兵站(海軍による制海権)の確保が必要とされるところ、ロシア陸軍2個師団を擁する旅順要塞に守られたロシアの旅順艦隊がその大きな障壁となっていました。

このとき、海軍ではロシア旅順艦隊を無効化させるために旅順港への港外奇襲・港口封鎖・港外からの間接射撃などが計画されたのですが、最終的には旅順攻略により旅順艦隊自体を殲滅すべきであると判断してこれを陸軍・満州軍に打診します。

この海軍からの申し出を受けて、陸軍では2個師団をもっての要塞攻城戦が立案されました。

そして、その攻撃司令官として、10年前の日清戦争で旅順要塞をわずか1日で陥落させた実績を持つ乃木希典に白羽の矢が立てられます。

そこで、明治37年(1904年)5月2日、乃木希典は、陸軍の推薦により正三位に叙された上で、陸軍大将に就任して旅順要塞攻撃のために創設した第3軍司令官に任命されます(当時、中将では最古参の明治28年昇進組であったため立場的にも申し分ありませんでした。)。

乃木希典は、このときの人事をとても喜び、旅順に向かうために東京を発つのを見送りに来た野津道貫陸軍大将に対し、上機嫌で「どうです、若返ったように見えませんか? どうも白髪がまた黒くなってきたように思うのですが」と述べたと伝わっています。

他方、乃木希典は、妻には「父子3人が戦争に行くのだから、誰が先に死んでも棺桶が3つ揃うまでは葬式は出さないように」と伝えていたようです。

長男・乃木勝典の戦死(1904年5月27日)

東京を発って広島に入った乃木希典でしたが、同年5月27日、長男の乃木勝典が金州南山の戦いにおいて戦死したという報告を受けます。

これに対し、乃木希典は冷静さを保ち、東京にいる妻に名誉の戦死を喜べと記載した電報でその事実を知らせます。

その後、乃木希典は、同年6月1日、悲しみを抱えたまま広島県の宇品港を出航して旅順に向かいます。

なお、このとき、乃木勝典の戦死を知った第1師団長の伏見宮貞愛親王(乃木保典所属隊の長)が、もう一人の息子まで死なせると気の毒であると考え、乃木希典の次男である乃木保典を師団の衛兵長に抜擢しています。

旅順攻囲戦(1904年8月19日~)

(1)第1回総攻撃(1904年8月19日)

明治37年(1904年)6月6日、遼東半島の塩大澳に上陸した乃木希典は、すぐさま旅順要塞の攻略作戦に取り掛かります。

このときの乃木希典は、日清戦争時には短期間で陥落させた経験があったためにこのときも簡単に攻略できると考えており、日清戦争後にロシアにより大改修が行われていた旅順要塞は日清戦争時とはレベルの違う近代要塞に変貌していたことに理解が及んでいませんでした。

陸軍内部でも同様の見解でした。

そのため、不十分な装備しか割り当てられなかった乃木希典は、同年6月26日に第3軍の進軍を開始させ、同年8月19日に正面からの突撃という方法で第1回総攻撃を開始します。

ところが、戦車や航空機もない時代に機関砲を配備した永久要塞を陥落させることは極めて困難であり、無防備に突撃した第3軍には甚大な被害をもたらされます。

なお、旅順攻囲戦で繰り広げられた塹壕陣地戦は、鉄条網で周囲を覆った塹壕陣地に陣取った機関銃部隊に対する攻撃が困難であること、塹壕への砲撃はそれほどの効果をもたらさないこと、予備兵力を消耗させない限り敵陣全体を突破するのは不可能であることなどを世界中に知らしめる戦いとなり、後の第一次世界大戦の西部戦線の先取りする戦いとなりました。

また、余談ですが、乃木希典は、この間の同年9月21日に伯爵に陞爵しています。

(2)第2回総攻撃(1904年10月26日)

その後、明治37年(1904年)10月26日に第2回総攻撃が行われます。

第2回総攻撃では、正面攻撃をして大きな被害を受けた第1回総攻撃への反省から、突撃壕を掘り進めて自軍の損害を抑える戦術に転換して行われます。

もっとも、第2回総攻撃もほとんど戦果を挙げられず、第1回総攻撃のときと同様に大損害を出して失敗に終わります。

甚大な損害を被るだけで一向に戦果の上がらない戦局に乃木希典に対する非難が高まり、乃木希典を第3軍司令官から更迭する案も浮上します。

もっとも、この案に対しては、明治天皇が御前会議において否定的な見解を示したことから廃案となっています。

他方で、乃木希典に対する不信感から、大本営から直属の上級司令部である満州軍司令部と異なる指示が度々出されるようになり、現場が大いに混乱します。

(3)第3回総攻撃(1904年11月26日)

前記2回の攻撃で正攻法による攻撃で旅順要塞を突破することは困難であると考えた乃木希典は、兵站を断った上でこれを消耗させることにより攻略するという作戦に変更します。

そのため、満州軍司令部や大本営に度々砲弾を要求したのですが、十分な補給はなされませんでした。

困った乃木希典は、従前と同じ人海戦術を用いて旅順要塞を消耗させるという作戦を立案します(この作戦が後に乃木希典無能論の根拠となります)。

具体的には、前2回同様に正面攻撃を行う軍を展開し、これを旅順要塞から攻撃させることにより同要塞の物資を失わせるという、多くの兵が死ぬことがわかりつつ勝利のために決断された苦渋の作戦でした。

当然ですが、突撃する兵たちもこの攻撃によって多くの犠牲が出ることがわかります。

もっとも、麾下の兵たちは、乃木希典のためであれば死んでも構わないと考え、この作戦にその身を投じることとしました。

このとき、乃木希典は、旅順要塞の消耗を少しでも激しいものとするため、突撃する麾下の兵たちに白い襷を前後逆に結ばせて胸の上で十字になるように着けさせて旅順要塞からの的を設けた死兵とします(この姿から、後に白襷隊と呼ばれました)。

この理由は、頭を撃たれた兵はその場で倒れるのに対して胸を撃たれた兵はすぐには倒れないことから、胸を撃たれることによって兵が倒れるまでに多くの銃弾が放たれるため、旅順要塞から日本兵1人を倒すために放たれる銃弾数が多くなるとの計算によるものでした。

作戦として計算上は理にかなっているのですが、多くの兵に何度も撃たれて来いという作戦ですので、現在の考えからすると常軌を逸しているとも考えられます。

いずれにせよ、前記作戦は決行され、明治37年(1904年)11月26日に第3回の総攻撃が行われました。

この第3回の総攻撃では、当初の見立てどおり旅順要塞から日本兵に対して集中砲火がなされ、戦死者72人・行方不明者508人・戦傷者806人(あわせて総員3113名の約45%)という大損害を受けて大敗します。

(4)攻撃目標を203高地に変更(1904年11月27日)

一切の戦果なく損害だけが積み上がっていくことに下がっていく士気を繋ぎ止めるため、明治37年(1904年)11月27日、乃木希典は、せめてここだけでもと従来の方針を転換して主力の第1師団に203高地の攻略を命じます。

陸軍では元々203高地は戦略的要衝と考えておらず、陸軍中央が用意した地図に陣地すら書かれていなかったため、この作戦変更は満州軍の大山巌総司令や児玉源太郎参謀長の反対を受けました。

もっとも、海軍は、203高地の頂上に観測所を設置して山越えで旅順港にこもるロシア太平洋艦隊を砲撃しようと考えていたために、このときの乃木希典の作戦変更を後押しし、大本営を通じて同作戦を決行させます(なお、この大本営からの指示は、陸軍・満州軍の指揮系統を越権してなされたものであり、現場は相当の混乱をしています。)。

いずれにせよ、大本営からの攻撃命令に従い、乃木希典は、同日、203高地に対する攻撃を開始します。

(5)相次ぐ乃木希典への批判

旅順要塞の攻略が進まない一方で、多くの兵が死んでいく状況に日本国内で乃木希典に対する批判の声が高まります。

日本では、東京の乃木邸に投石をしたり、乃木邸に向かって大声で非難を繰り返す者が現れたりするようになり、乃木希典の辞職や切腹を勧告する手紙が2400通も届けられるという事態に発展しました。

(6)次男・乃木保典の戦死(1904年11月30日)

以上のとおり乃木希典に対する非難が高まっていた中で、この批判が払しょくされる事態が起こります。

明治37年(1904年) 11月30日、乃木希典の次男・乃木保典が、203高地攻略作戦で戦死したのです。

この次男・乃木保典の死により、2人の息子をいずれも旅順で失い、乃木家の断絶が決定したにも関わらず戦い続けた乃木希典に対して世間の同情が集まり、乃木希典に対する批判が一気に収束します。

なお、次男・乃木保典の戦死を知った乃木希典は、「そうか」と述べるだけで眉ひとつ動かさなかったと言われています。

(7)旅順要塞陥落(1905年1月2日)

そして、明治37年(1904年) 12月5日に第7師団の突撃攻撃により203高地が陥落し、続けて同年12月18日に第11師団が東鶏冠山・第9師団が二龍山を、同年12月31日に第1師団が松樹山を攻略・占領します。

また、この勢いの下、明治38年(1905年)1月1日、第3回総攻撃により消耗していた旅順要塞の正面突破に成功します。

この結果、さらなる抵抗は不可能と悟った旅順要塞司令官アナトーリイ・ステッセルが乃木希典に対して降伏書を送付し、同年1月2日に乃木希典がこれを受け入れたことにより旅順要塞は陥落して戦いが終わります。

(8)水師営での会見(1905年1月5日)

そして、明治38年(1905年)1月5日、清国・水師営において乃木希典と旅順要塞司令官ステッセルと会見が行われます(水師営の会見)。

会見に先立って山縣有朋を通じて明治天皇からステッセルの名誉を確保するよう命じられていたこともあり、乃木希典は、敗将であるステッセルに帯剣を許すなどして紳士的に接します。

また、敗将ステッセルを撮影しようとして従軍記者から再三の写真撮影要求があったのですが、乃木希典は敵将に失礼であるとして1枚の会見写真しか許しませんでした。

この乃木希典の紳士的行為は世界中に報道されて賞賛されました。

その後、乃木希典は、同年1月13日に旅順要塞に入城し、1月14日には旅順攻囲戦において戦死した将兵の弔いの招魂祭を行って自ら起草した祭文を涙ながらに奉読しています。

(9)旅順攻囲戦における乃木希典の評価

乃木希典は、日露戦争において「難攻不落」と謳われた旅順要塞を攻略した武功により、日本海海戦を指揮した東郷平八郎とともに日露戦争の英雄とされます。

他方で、戦術的にほとんど意味のない永久要塞への正面攻撃を繰り返して多大な犠牲をもたらしたことに対する強い批判もあります。

そのため、名将とも愚将とも言われる、評価の難しい将軍と言えます。

なお、本稿は、軍事的評価を求めるためのものではないので、以下、それぞれの説の概略だけ紹介しておくにとどめます。

① 愚将論

このうち、愚将論とする見解は、日本陸軍従軍経験のある作家・司馬遼太郎の小説である「坂の上の雲」と「殉死」による以下の見解によるところが大きいとされています。

そこでは、旅順攻囲戦当時、当時、要塞攻撃についてはヴォーバンが確立した戦術論が軍事的な常識であったが、近代要塞攻撃に対する専門知識を持たない乃木希典は第1回総攻撃においてこれを採用しなかった。

しかも、乃木希典が司令部を相当後方に設置したので、前線の惨劇を知ることができず、被害が拡大した。

そもそも、早期に203高地を占領してそこからロシア旅順艦隊を砲撃すれば、旅順要塞全体を陥落させずとも旅順攻囲戦の作戦目的を達成することができたはずである。

② 名将論

他方で、乃木希典の戦術を肯定的にとらえて乃木希典を名将とする見解もあり、それは概ね以下の前提に立っています。

乃木希典は、ドイツ留学後もヨーロッパにおける主要な軍事論文を読破して勉強を続けた理論派でありヴォーバン戦術論をも理解した上で作戦立案をしている。

そして、日露戦争当時では塹壕を突破して近代要塞を陥落する方法としては、ある程度の犠牲を計算に入れた歩兵による突撃以外に方法がなかったのであり、第一次世界大戦中期以降に考案された戦術という後世の観点をもって批判をするのは妥当でない(実際、この後に各国観戦武官により乃木希典の用兵が紹介され、対塹壕陣地への攻法として後年の第一次世界大戦で大々的に取り入れられています。)。

乃木希典が率いる第3軍司令部は団山子東北方高地に置かれており、同地は前線(東鶏冠山)まで直線距離にして3kmに位置しており、司令部が後方にあったとはいえない。

そもそも、大本営から第3軍に渡されていた旅順地図は旅順要塞近辺の地図に誤りがあり(203高地などの前進陣地が書かれていない、東北方面の東鶏冠山などの堡塁が臨時築城の野戦陣地となっている等)、日本軍全体で要塞の構造・規模を把握していなかったのであるから、これらを明らかにしつつ要塞攻撃を加えるためには前線基地を攻略地点に向かう鉄道や道路があって部隊展開に有利な東北方面にするのは当たり前である。

旅順要塞を攻略せずに放置した場合、その後も同要塞を包囲するために4万人近い兵力を同地に残していかなければならなくなるため、その後の戦い(奉天会戦等)に回す兵力がなくなって勝利がおぼつかなくなることから旅順要塞は是が非でも攻略しておかなければならなかった。

奉天会戦(1905年2月21日~)

旅順要塞を攻略することにより危うい勝利を積み重ねていた日本軍でしたが、ロシア軍を追って満洲の奥深くへ進撃を続けたことにより国力の限界を超え、兵站維持・兵力補充が困難となって戦争の継続自体が危うい状況に陥っていました。

そこで、陸軍・満州軍首脳は、日本軍有利の状況のままで講和を結ぶため、奉天で増援を待つロシア軍に対して一種の賭けとも言える総力戦を挑むこととします。なお、日本軍指揮官の大山巌は、「本作戦は、今戦役の関ヶ原とならん」とする決意を将兵たちに示しています。

この戦いに参加するため、旅順要塞を攻略した乃木希典率いる第3軍もまた旅順を後にして北上していきます。

そして、明治38年(1905年)3月1日から日本軍による奉天包囲攻撃が開始され、両軍に甚大な被害がもたらされていきます。

このとき、乃木希典率いる第3軍の奮戦により、ロシア軍の総司令官アレクセイ・クロパトキンが実際は3万8000人規模の第3軍を10万人規模の主力と判断してロシア軍主力を第3軍迎撃に投入します。

その後、同年3月9日、奮戦する第3軍によって退路を断たれることを憂慮したアレクセイ・クロパトキンが、東部・中央部のロシア軍を鉄嶺・哈爾浜方面へ後退させたことから形勢が徐々に日本軍へと傾き、最終的に日本軍の勝利に終わります。

凱旋帰国(1906年1月)

日本国内では、奉天会戦の勝利に浮かれて戦争を継続してウラジオストクへ進軍し沿海州の占領をすべきであるなどという世論が沸き上がり、これに押された陸軍首脳も戦域拡大を主張したのですが、度重なる消耗戦の結果として日本軍にはもはや継戦能力がないと理解していた海軍大臣山本権兵衛により、日本側において日露講和への準備が始められることとなりました。

他方、奉天会戦に敗北したロシアでしたが、ロシア全体としてみれば約200万人(日本陸軍の約10倍9とも言われる陸兵の半分程度しか動員しておらず、またインド洋にはバルチック艦隊が極東への航海の途上であり、陸海軍とも継戦能力はまだまだ十分に残されている状況でした。

ところが、明治38年(1905年)1月の血の日曜日事件から始まったロシア第一革命により激しくなる国内の反乱分子の鎮圧活動、露仏同盟を結んでいたフランスが同年3月に第一次モロッコ事件でドイツと対立するなどして他の欧州諸国に対する抑止力が大量となったこと、明治38年(1905年)5月の日本海海戦に敗れてバルチック艦隊が消滅したことなどから、ロシアにおいても極東に軍事力を割く余裕がなくなっていきます。

以上の結果、両国ともに講和を望む方向性が示され、外務大臣小村寿太郎(第1次桂内閣)のからの要請に応じた米大統領セオドア・ルーズベルトにより、同年6月6日、日本とロシア両国政府に対して講和勧告が行われ、同年9月5日のポーツマス条約締結により日露戦争が終わります。

乃木希典は、この講和契約締結を奉天北方の法庫門において迎え、同年12月29日に帰国するために法庫門を後にして陸路で旅順に向かうこととなります。

もっとも、乃木希典は、日本への帰国が決まると、「戦死して骨となって帰国したい」・「守備隊の司令官になって中国大陸に残りたい」・「日本へ帰りたくない」・帰るのであれば「蓑でも笠でもかぶって帰りたい」などと述べるなど旅順攻囲戦において多数の将兵を戦死させた自責の念に苛まれて思い悩むこととなりました。

明治39年(1906年)1月1日に旅順に到着した乃木希典は、同地に5日間滞在して砲台等を巡視した後に大連から出航し、宇品をへて、同年1月14日に東京・新橋駅に帰り着きます。

2人の息子を亡くしながら旅順要塞陥落させ、また奉天会戦で大活躍を見せた乃木希典は、国を挙げての大歓迎で迎えられ、新聞でもその一挙手一投足が報じられました。

乃木希典の苦悩

帰国した乃木希典は、宮中に参内して明治天皇の御前で、第3軍の目的達成は天皇の御稜威・上級司令部の作戦指導・友軍の協力によるものであるとし、将兵の忠勇義烈を讃えると共に戦没者を悼むという内容の自筆の復命書を涙ながらに奉読します。

そして、自らの作戦指揮については、旅順攻囲戦では半年の月日を要したこと、奉天会戦ではロシア軍の退路遮断の任務を完遂出来なかったこと、またロシア軍騎兵大集団に攻撃されたときはこれを撃砕する好機であったにもかかわらず達成できなかったことを挙げ、遺憾であったと述べました。

その上で、乃木希典は、明治天皇に対し、自らの指揮に従って死傷した多くの将兵に自刃してその罪を償いたいと奏上します。

これに対し、真偽は不明ですが、明治天皇が、乃木希典の苦しい心境は理解したが今は死ぬべき時ではない、どうしても死ぬというのであれば朕が世を去った後にせよという趣旨のことを述べたと言われています。

そして、その後、乃木希典は、明治39年(1906年)1月21日付で第3軍司令官を退任し、同年1月26日付で軍事参議官に親補されます(以後、死去時まで在職)。

この後、乃木希典は、再三にわたって廃兵院を見舞って多くの寄付を行うようになります。また、上腕切断者のために自ら設計に参加して乃木式義手を完成させ、自分の年金を担保に製作・配布したりなどするようにもなりました。

また、頻繁に戦死者の遺族を訪問しては、「あなた方の親族を殺したのは乃木希典であり、訳あって今は死ねないのですが他日に一命を国に捧げますのでそのとき乃木が謝罪したものと思ってください。」と述べていたと言われています。

さらに、日露戦争で二人の息子を失ったためにそのままでは乃木家が断絶してしまうと心配した陸軍時代の部下・佐藤正から養子をとるようを勧められたのに対し、乃木希典は、戦争で多くの兵士を死なせた責任として養子を取らず乃木家を断絶させる覚悟であると手紙で返信しています。

学習院院長として

学習院院長就任(1907年)

そして、乃木希典は、明治40年(1907年)1月31日、明治天皇の指名により学習院院長を兼任することとなり、皇族および華族子弟の教育に従事することとなります。

この人事は、翌年に明治天皇の皇孫(後の昭和天皇)が学習院に入学する予定となっていたため、その養育を託すべく明治天皇の意思によってなされました。なお、学習院長は文官職である学習院院長に陸軍武官である乃木希典が就任する場合には陸軍将校分限令により予備役に編入される決まりとなっていたのですが、明治天皇の勅命により予備役に編入されることなく学習院院長に就任することに決まります。

院長生活

学習院院長となった乃木希典は、学習院に6棟の寄宿舎を建てて全寮制を布き、自身もまた月に1~2回の帰宅以外の日は学習院中等科・高等科の生徒と共に寄宿舎に入って寝食を共にします(当時の乃木希典の居室であった総寮部は、没後に移築されたものの「乃木館」として現在も保存されています。)。なお、この頃である明治40年(1907年)9月21日に伯爵に叙せられています。

当時の乃木希典は、その地位に似合わず質素・謹厳な生活を送る人格者の代名詞となっており、この頃には乃木希典の生き方・生活様式を評した「乃木式」という言葉が流行しました。

なお、学習院は、乃木希典が院長を務めていた明治41年(1908年)に目白キャンパスがある現在地(現在の東京都豊島区目白)へ移転しています。

昭和天皇の養育係

明治41年(1908年)4月に迪宮裕仁親王(後の昭和天皇、本稿では便宜上「昭和天皇」の表記で統一します。)が学習院初等科に入学してくると、乃木希典は、勤勉と質素を旨としてその教育に全力を尽くします。

これに対し、昭和天皇もまた後に自身の人格形成に最も影響があった人物として乃木希典の名を挙げるほどに親しみます。

実際、当初、赤坂の東宮御所から目白の学習院まで自動車通学していた昭和天皇でしたが、乃木希典から徒歩で通学するようにとの指導を受けると、以降はどんな天候であっても徒歩で通学するようになったほどでした。

その後、明治45年(1912年)7月に明治天皇が崩御したことに伴って父・嘉仁親王が践祚したため、旧皇室典範の規定により皇太子となった昭和天皇ですが、そのような立場でありながら明治天皇の遺言に従って乃木希典のことを「院長閣下」と呼び終始敬語で話をしていました。

乃木希典の最期

自刃を決意

明治45年(1912年)7月30日に明治天皇が崩御されると、乃木希典は、いずれかのタイミングで明治天皇の大喪の礼が終わった後で自刃することを決めます。

そして、乃木希典は、同年9月10日、裕仁親王・淳宮雍仁親王(後の秩父宮雍仁親王)・光宮宣仁親王(後の高松宮宣仁親王)に対して山鹿素行の「中朝事実」と三宅観瀾の「中興鑑言」を渡して熟読するよう述べたのですが、このとき異変を感じた昭和天皇から「院長閣下はどこかへ行かれるのですか」と聞かれています。

遺書などの作成(1912年9月12日)

乃木希典は、明治天皇の大喪の礼が終わった後で自刃することを決め、大喪の礼の前日である大正元年(1912年)9月12日夜に遺書である「遺言条々」を、また当日である同年9月13日にも複数の遺書や辞世の句などを作成します。

なお、乃木希典の遺書には、遺書に記載されていない事柄については静子に申しつけておくとの記載がなされていることから、少なくとも遺書をしたためた段階では乃木希典は一人で死ぬつもりであったことが明らかとなっています。

自刃(1912年9月13日)

大正元年(1912年)9月13日に明治天皇の大喪の礼が行われたのですが、同日午後7時に霊柩が殯宮を出て轜車に移されたのを見届けた乃木希典は、東京市赤坂区新坂町(現在の東京都港区赤坂八丁目)の自邸居室に戻り、同日午後7時40分頃に妻・乃木静子とともに自刃して亡くなりました。享年は64歳(満62歳)でした。

検視にあたった警視庁警察医員・岩田凡平作成の報告書によると、乃木希典は、明治天皇の御真影の下に正座して日本軍刀によって十文字に割腹し、妻・乃木静子が護身用の懐剣によって心臓を突き刺したのを見届けた後で、軍刀の柄を自らの膝下に立てて剣先を前頸部に当て、気道・食道・総頸動静脈・迷走神経および第三頸椎左横突起を刺したままうつ伏せになって絶命したとされています。

自刃に対する反応

乃木希典の死に対しては号外が配られるなどしてなどして大きく報道され、日本国内が悲しみに暮れることとなります。

昭和天皇もまた、乃木希典の死を聞いて涙を浮かべたと言われます。

この乃木希典の自刃は、明治天皇への殉死と考えられていたこともあり、自刃直後から日本国内の新聞の多くがこれを肯定的に捉え、世間的にも乃木の行為を好意的に受け止める空気が一般的でした。

他方、乃木希典に批判的だった白樺派の若者たちからは、自刃という行為が「封建制の遺習」であり時代遅れであるという批判的な主張も出されました。

また、東京朝日新聞・信濃毎日新聞・時事新報などにおいて否定的・批判的な記事が書かれたりしたのですが、世間からのバッシングにあって不買運動・脅迫に晒される事態に発展しています。

祭祀

いずれにせよ、乃木希典の死の5日後である大正元年(1912年)9月18日、乃木夫妻の葬儀が執り行われました。

その後、乃木夫妻の遺体が自宅から青山葬儀場まで運ばれることとなったのですが、その沿道には20万人とも言われる多数の国民で埋め尽くされ見送られました。

そして、その後、青山霊園(現在の東京都港区)に葬られました。

また、この後、乃木邸近くにある江戸時代に幽霊坂(行合坂・膝折坂とも)と呼ばれていた乃木神社前を西へ外苑東通りへと上る坂が、乃木希典の殉死を悼んだ赤坂区議会議決により「乃木坂」に改名されました。

さらに、乃木希典ゆかりの地に乃木希典を祀る乃木神社が計6社(東京赤坂・那須・京都・函館・長府・善通寺)建立されるに至りました。なお、善通寺の乃木神社だけは昭和10年に軍国主義の下で陸軍の主導により建立されたものですが、その他の5社についてはいずれも地域住民の要望によって建立されています。

なお、大正5年(1916年) に行われた昭和天皇の立太子礼に際して、乃木希典に正二位が追贈されています。

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