藤原秀衡(ふじわらのひでひら)は、平安時代末期に奥州にて一大勢力を築いた奥州藤原氏の三代目当主です。
京に次ぐ大都市を築き、豊富な経済力を持ち、源義経を庇護した人物としても有名です。
晩年は、勢力拡大を続ける源頼朝からの圧力を弱めるために尽力して政治な立ち回りに終始し、藤原秀衡が存命の間は源頼朝との衝突を避けることに成功しています。
藤原秀衡の遺骸はミイラとなって中尊寺金色堂須弥壇の金棺内に納められていますので、興味がある人は調べてみてください(インターネット上に転がっていますが、嫌悪感を覚える方もいますので、本稿で紹介することは差し控えます。)。
【目次(タップ可)】
藤原秀衡の出自
出生(1122年?)
藤原秀衡は、保安3年(1122年)ころ、奥州藤原氏2代目であった藤原基衡の嫡子として生まれます。
母は、安倍宗任の娘と言われていますが、藤原基衡が安倍宗任の娘を正室に迎える前に藤原秀衡が生れていたという異説もあり正確なところは不明です。
体躯
藤原秀衡の遺骸がミイラとなって中尊寺金色堂須弥壇の金棺内に納められているため、その分析により藤原秀衡の身体的特徴については概ね明らかとなっています。
藤原秀衡の身長は164cm、肥満体で腹が突き出しており、厚い胴回り、いかり肩。血液型はAB型。
顔は長く顎の張った大きな顔をしており、鼻筋が通った高い鼻と、太く短い首をしており、重度の歯槽膿漏と虫歯を患っていたとされています。
家督相続(1157年3月)
保元2年(1157年)3月、父・藤原基衡が死去したため、36歳となっていた藤原秀衡が奥州藤原氏の家督を相続し、奥六郡の主として出羽国・陸奥国の押領使となります。
藤原秀衡は、平泉館(現在の岩手県西磐井郡平泉町にあった柳之御所遺跡と考えられています。)を政庁として、両国の軍事・警察の権限を司り、諸郡の郡司らを主体とする武士団17万騎を統率することとなりました(都で全盛期を迎える平家とは独立した勢力です。)。
奥州・平泉の大発展
藤原秀衡が家督を継いだ時代は、奥州藤原氏の本拠地であった平泉は奥州名産の馬と金によって支えられた経済力により大発展をし、平安京に次ぐ人口を誇り、また仏教文化を成す大都市に成長していました。
また、藤原秀衡は、豊富な資金力を、中央政界への貢金・貢馬、寺社への寄進などもあて、また陸奥守として下向した院近臣・藤原基成の娘を継室に迎えるなどして中央との太いパイプを築いていきます。
その結果、藤原秀衡は、嘉応2年(1170年)5月25日、奥州にありながら従五位下・鎮守府将軍に叙任されています。
なお、砂金の産出や大陸との貿易等により蓄積された奥州藤原氏の経済力は莫大なものであり、宇治平等院鳳凰堂を模して、これを凌ぐ規模の無量光院(東西約240m、南北約270m、面積約6.5ha)を建立する程でした(吾妻鏡・文治5年9月17日条)。
なお、奥州藤原氏では、三代・藤原秀衡が建立した無量光院のほか、初代・藤原清衡が中尊寺、二代・藤原基衡が毛越寺を造営しています。
源頼朝との協力へ
源義経を保護する(1172年ころ)
平治元年(1160年)に勃発した平治の乱に敗れて敗死した源義朝の子・牛若丸が鞍馬寺(京都市左京区)の覚日和尚の下へ預けられていたのですが、承安2年ころ(1172年ころ・16歳ころ)に鞍馬寺から逃亡し、金売吉次という商人に連れられて藤原秀衡を頼って奥州・平泉に落ちてきます(途中で元服し、源義経と名を改めています。)。
なお、源義経が藤原秀衡を頼ったのは、藤原秀衡の次男である藤原泰衡の外祖父であった藤原基成(かつて鎮守府将軍兼陸奥守として平泉に滞在していた人物)の父・藤原忠隆が、源義経の母である常盤御前が再婚した一条大蔵卿長成と従兄弟という関係にあったため、常盤御前から一条長成を介して藤原秀衡に対して、源義経を奥州・平泉で匿ってほしいとの申し出がなされ、藤原秀衡がこれを受け入れたため、源義経が奥州・平泉に向かうこととなったのが理由です。
源義経は源氏の棟梁であった源義朝の子ですので、藤原秀衡としても、平家政権と対抗することがあった場合に神輿として担げる絶好の駒として使えますので、断る理由がありませんでした。
源義経が源頼朝の下へ(1180年10月頃)
こうして奥州に辿り着き、藤原秀衡の庇護の下で育った源義経は、源頼朝が治承4年(1180年)8月17日に対平家の兵を挙げたことを耳にします。
居ても立っても居られなくなった源義経は、兄・源頼朝の下へ向かおうとしますが、藤原秀衡は一旦これを引き留めます。
もっとも、源義経は、親代わりとなっていた藤原秀衡の生死を振り切って源頼朝の下へ参陣する決意を崩しませんでした。
そこで、藤原秀衡は、引き留めることをあきらめ、佐藤継信・忠信らを源義経につけて奥州から送り出すこととしました。なお、平家物語(延慶本)では、源義経に対し藤原秀衡が兵を与えて合流させたとされていますので、源義経が奥州・平泉を発った実際の経緯は不明です。
源頼朝との対立
情勢の変化(1181年閏2月)
藤原秀衡が、源頼朝の下に源義経を送り出した時点では、平清盛が、源頼朝・藤原秀衡・後白河法皇の共通の敵でした。
もっとも、治承5年(1181年)閏2月4日、平清盛が死去して平家勢力が勢いを失い、その反面として後白河法皇が復権していくと事態が変化し始めます。
勢力が均衡し始めたことにより平家勢力が共通敵であるという共通認識が崩れだしたのです。
また、衰退しつつあった平家方としても、復権を図るために源頼朝・後白河法皇・藤原秀衡との結びつきを壊しにかかります。
この混乱は民間レベルにまで波及し、養和元年(1181年)4月頃になると、京で、源頼朝を追討すべしとの院宣が藤原秀衡に出されたとの噂が出るほどにまで至ります。
源頼朝との関係悪化(1181年8月)
養和元年(1181年)6月、藤原秀衡は、平家方武将であった越後国の城助職が治めていた会津を攻略したのですが、源頼朝は、この藤原秀衡の行為を見て、藤原秀衡に領土的野心があると見て警戒を始めます。
さらに悪いことに、源頼朝の疑惑をさらに高める事件が起こります。
同年8月、京から派遣した兵だけでは北陸方面を進む木曾義仲に対抗できないと判断した平宗盛が、現地豪族を徴用して官軍に組み込むと共に源氏勢力の牽制とするため、後白河法皇に推挙して、藤原秀衡を従五位上・「陸奥守」に就任させたのです(このとき、城助職が越後守に就任しています。)。なお、在地豪族が国司になることは異例のことであり、九条兼実は天下の恥として憤っています。
陸奥守は、源氏棟梁であった源頼義が前九年の役に・源義家が後三年の役に際して補任した官職であり、この職に藤原秀衡が任命されたことが、源頼朝に強い嫌悪感を抱かせることとなりました。
実際、源頼朝は、藤原秀衡をさらに警戒・敵視するようになり、養和2年(1182年)4月には、江ノ島に祀られている弁財天に京の高雄にある神護寺の文覚上人を招き、藤原秀衡を呪うための調伏を行ったほどでした。
この頃になると、藤原秀衡もまた源頼朝との対決は避けられないと考えており、元暦元年(1184年)6月、平家によって焼き討ちにあった東大寺の再建に奉じる鍍金料金として5000両を納め(源頼朝の鍍金料金は1000両でした。)、京の諸勢力の取り込みを図っています。
源頼朝からの圧力
藤原秀衡と源頼朝との軋轢は、元暦2年/寿永4年(1185年)3月24日に平家が滅亡して共通敵が失われると、もはや隠すことが出来なくなる程に顕在化していきます。
平家を滅ぼしてその支配荘園を没収したことにより一気に勢力を拡大した源頼朝は、藤原秀衡に対する敵意を隠さなくなったからです。
源頼朝は、文治2年(1186年)、陸奥から都に貢上する馬と金は自分が仲介する旨を記載した書状を藤原秀衡に送ります。
京との間に独自のパイプを持つ藤原秀衡にとっては、全く無意味な(藤原秀衡を源頼朝の下に見ており無礼でもある)申し出であり、奥州藤原氏の家中は騒然となります。
もっとも、藤原秀衡は、これは源頼朝による牽制に過ぎないとして相手にしないとの判断を下し、源頼朝との衝突を避けて馬と金を鎌倉へ届けています(吾妻鏡・四月廿四日条)。
源義経の受け入れ
源義経の受け入れ(1187年2月10日)
源頼朝の圧力の高まりによりもはや源頼朝(鎌倉幕府)との対立が避けられないと判断した藤原秀衡は、源頼朝と本格的に戦うため、文治3年(1187年)2月10日、戦の天才・源義経を奥州平泉にて受け入れます。
藤原秀衡は、源義経の軍才で奥州藤原氏の抱える兵を指揮すれば、十分に勝算があると考えたためです。
すなわち、藤原秀衡による源義経受け入れは、藤原秀衡による源頼朝に対する宣戦布告だったのです(もっとも、この時点では源頼朝は、源義経が奥州藤原氏の下にいることを知りません。)。
源頼朝との関係破綻(1187年4月~)
源義経が奥州藤原氏に匿われていることを知らない源頼朝は、文治3年(1187年)4月、朝廷を通して、鹿ケ谷の陰謀で平清盛によって奥州に流されていた院近臣・中原基兼を京へ帰すべきであること、東大寺再建の鍍金が多く必要なので三万両を納めることなどを要請し、藤原秀衡に圧力をかけますが、藤原秀衡はこれらの要請を拒否します。
ところが、その後、源義経が奥州藤原氏に匿われていることを知った源頼朝が、同年9月4日、「秀衡入道が前伊予守(義経)を扶持して、反逆を企てている」と訴えて出て、院庁下文が陸奥国に出される事態に陥ります。
藤原秀衡は、これに対しても、異心はないと反論します。
この結果、源頼朝と藤原秀衡との関係は破綻に向かっていったのですが、源頼朝としても、藤原秀衡の器量を警戒しており、軍事行動を起こして奥州藤原氏を屈服させるという判断に至ることはありませんでした。
藤原秀衡の最期
相続争いの芽をつむ
このようにして、源頼朝と奥州藤原氏との緊張が高まっていったのですが、間の悪いことに、この時期に藤原秀衡の体調が悪化していきます。
死期を悟った藤原秀衡は、後継者を選定する必要に迫られます。
藤原秀衡は6人の男子を設けており、正室腹は公家の娘を母とする次男・藤原泰衡であり、長男は側室腹の藤原国衡でした。
普通であれば正室腹の藤原泰衡が家督を継ぐことで決まりのはずだったのですが、藤原国衡の方が武勇に優れていたため、庶子であったものの藤原国衡を推す声も大きく、一族分裂の危険を孕んでいる状態でした。
死期を悟った藤原秀衡は、両者に融和を説き、藤原秀衡の正室である藤原基成の娘を藤原国衡に娶らせて義理の父子関係を成立させるなどして配慮した上で(これにより、兄弟の後見役である藤原基成が岳父となるため後継者から外された藤原国衡の立場も強化されます。)、後継者を正室腹の次男・藤原泰衡に定めます。
その上で、藤原泰衡・藤原国衡・源義経を呼び寄せ、源義経を主君として給仕し、三人一味の結束をもって源頼朝に備えるよう諭し、三人に異心がない旨の起請文を書かせます。
藤原秀衡死去(1187年10月29日)
そして、藤原秀衡は、文治3年(1187年)10月29日、死去します。享年は吾妻鏡や玉葉に記録されていないために正確には不明ですが、遺体の状態から60~70歳であったと推定されています(66歳説が有力)。
藤原秀衡のミイラのレントゲン検査で脊髄に炎症が発見されていますので、死因は、背骨の外傷から菌が侵入してその感染をうけたことによる骨髄炎性脊椎炎ないしは脊椎カリエス(敗血症併発)と想定されています。
また、死の直前は、骨髄炎性脊椎炎の影響による脊椎硬直で脊椎が曲がらず、床できなかった可能性が指摘されており、そのためか、高血圧、むくみの状態が見られ、腎疾患・心機能不全などが見られています。
藤原秀衡の亡骸は、右手首に二列の数珠玉の跡が並べられ、また木製の杖、木製・ガラス製の念珠、金装の水晶露玉、黒漆塗太刀鞘残片、羅、白綾、錦、金銅鈴などを添えられて中尊寺金色堂に葬られました。
家督相続
藤原秀衡の死後、その遺言により藤原泰衡が家督を継ぎ、兄弟間の紛争は回避されます。
もっとも、藤原秀衡の死により脅威が去ったとみた源頼朝が奥州藤原氏への圧力を強め、2年後に滅亡しているのですが、長くなりますのでその辺りは別稿に委ねます。