浅井畷の戦い(あさいなわてのたたかい)は、慶長5年(1600年)8月9日に起こった北陸地方における前田利長(東軍・前田利家の子)と丹羽長重(西軍・丹羽長秀の子)の戦いです。
慶長5年(1600年)9月15日に美濃国不破郡関ヶ原(現在の岐阜県不破郡関ケ原町)で行われた関ヶ原の戦いの前哨戦として北陸で勃発したため、「北陸の関ヶ原」とも言われます。
局地戦として発生した戦いは、3000人の丹羽長重軍(西軍)が、2万5000人の前田利長軍(東軍)を破るという戦術的勝利に終わったのですが、その後の関ヶ原の本戦の結果により違った結論となっています。
【目次(タップ可)】
浅井畷の戦いに至る経緯
加賀国・前田利長が徳川家康に恭順
慶長3年(1598年)に豊臣秀吉が死去すると、それまでおとなしくしていた徳川家康が、次期天下人を目指して動き始め、自信に賛同する勢力の取り込みと、反対する可能性がある勢力を追い落としにかかります。
このとき、最初に狙われた反対勢力が加賀国・前田家でした。
慶長4年(1599年)閏3月3日、前田利家の死去により、その子・前田利長が五大老及び豊臣秀頼の傅役の地位を引き継いだのですが、3年は上方を離れないようにという前田利家の遺言に反し、同年8月、本拠地・金沢に帰国します(三壺記)。
ところが、増田長盛などが、前田利長の帰国を奇貨として、同年9月、前田利長・浅野長政らの異心を徳川家康に密告したため、この讒言により前田家攻撃の大義名分を得た徳川家康は、前田家討伐を決定します。
困った前田家では、徳川家康による加賀征伐に対して交戦派と回避派の二つに分かれて紛糾し、当初は交戦派であった前田利長が、細川氏、宇喜多氏を通じて豊臣家に対徳川の援助を求めることとします。
ところが、豊臣家がこれを断ったため、前田家単独で徳川家康に対抗できないという実母の芳春院(まつ)の言葉により、前田利長は、芳春院を人質として江戸の家康に差し出すこと、養嗣子・利常と家康の孫娘・珠姫(徳川秀忠娘)を結婚させることなどを約して、徳川家康に恭順して交戦を回避する決断を下しました(慶長の危機)。
徳川家康の会津征伐
戦わずして前田利長を下した徳川家康は、次に、上杉景勝に対して謀反の疑いありとし、その釈明をするために上洛するよう求めるとの形式で、徳川家康への臣従を迫ります。
ところが、上杉景勝は、有名な「直江状」を送り付け、徳川家康の提案をはねつけます。
直江状を見た徳川家康は激怒し、会津征伐の兵を興し、大坂を離れて会津に向かって進軍していきます。
石田三成挙兵(1600年7月)
大坂を離れた徳川家康と入れ替わる形で、慶長5年(1600年)7月17日、前田玄以、増田長盛、長束正家の三奉行の要請を受けた毛利輝元が大坂に到着し、同年7月19日に大坂城に入ります。
毛利家の助力を得た石田三成は、毛利輝元を総大将・石田三成を実質的指揮官とする対徳川家康連合軍が組織し、三奉行連署からなる家康の罪状13か条を書き連ねた弾劾状(内府ちがいの条々)を記し、諸大名に発送します。
そして、石田三成は、このとき集まった兵を率いて挙兵し、東に向かって進軍していきます(最初の目的地は、鳥居元忠が守る伏見城でした。)。
大谷吉継による北陸大名の取り込み
また、石田三成と行動を共にすることとなった大谷吉継は、越前や加賀南部における諸大名に対して反徳川の協力を求める調略を繰り返し行います。
この大谷吉継の調略は成功し、越前国と加賀国南部の諸大名を石田方(西軍)につけることに成功します。
前田利長の南進
(1)小松城攻め(1600年7月26日)
こうなると徳川家康(東軍)に与した前田利長は焦ります。
加賀以南の諸大名が全て石田三成方(西軍)についたため、北陸地方一帯が全て敵となってしまったからです。
この状況に危機感を抱いた前田利長は、状況を打破するべく2万5000人を率いて金沢城を出陣し、加賀南部や越前国制圧に向かいます。
そして、金沢から南進した前田軍は、慶長5年(1600年)7月26日、 西軍に与した丹羽長重が3000人で守る小松城を包囲し、攻撃を開始します。
ところが、小松城は、「北陸無双ノ城郭」(小松軍記)と賞賛される堅城であり、前田軍の攻撃を何度も撃退したため、小松城は陥落の気配すら見せませんでした。
(2)大聖寺城攻め(1600年8月2日)
困った前田利長は、力攻めでの小松城攻略をあきらめ、押さえの兵を残して先に進む選択をします。
そして、前田利長は、本隊を南進させ、山口宗永が2000人の兵で守る大聖寺城に向かい、慶長5年(1600年) 8月2日、これを包囲し攻撃を開始すると、大聖寺城は前田軍の攻撃を凌ぐことができず、山口宗永・修弘親子は自害して大聖寺城は落城します。
大谷吉継によるかく乱
他方、前田軍の南進を知った大谷吉継は、慶長5年(1600年) 8月3日、前田軍を牽制するために越前国・敦賀城に入ります。
もっとも、大谷吉継軍の兵力は6000人ほどに過ぎず、まともに前田軍に対峙すると勝ち目はありません。
そこで、大谷吉継は、前田軍を撹乱するため、「上杉景勝が越後を制圧して加賀をうかがっている」・「西軍が伏見城を落として上方を全て制圧し越前北部に援軍に向かっている」・「大谷吉継の別働隊が、金沢城を急襲するために海路を北上している」など、虚虚実実の流言を次々と流していきます。
また、大谷吉継は、西軍挙兵のときに捕らえていた中川光重(利長の妹婿)を脅迫して偽書を作成させ、それを前田利長のもとへ届けさせます。
浅井畷の戦い(1600年8月9日)
前田利長による撤退の決断
主力を率いて出陣したために本拠地・金沢を手薄にしている前田利長は、この流言に動揺します。
その結果、前田利長は、同年8月8日、本拠地・金沢を防衛するため、大聖寺城まで南進させた軍勢を金沢に戻すとの決断を下します。
丹羽長重による伏兵
大聖寺城まで進んだ前田軍が金沢に撤退すためには、包囲中の小松城の包囲を解かなければならないのですが、これが前田軍の大きな問題となります。
当然ですが、前田軍が撤退すると、小松城からの追撃を受けることが明らかだからです。
実際、前田軍の撤退を聞いた小松城主・丹羽長重は、軍勢を率いて小松城から出撃し、撤退してくる前田軍を攻撃するため、小松城の東側に広がる泥沼や深田に広がる幾筋もの細い筋になっている道(浅井畷・浅井縄手)に伏兵を配置し、前田軍を待ち伏せします。
浅井畷の戦い(1600年8月9日)
そして、慶長5年(1600年)8月9日、丹羽長重軍が、本拠地・金沢を目指して撤退してきた前田軍を浅井畷で待ち伏せ攻撃することにより浅井畷の戦いが始まります。
足を取られる湿地である上、道幅が狭い道を通っていたため、前田軍は、丹羽長重軍の攻撃に大混乱に陥ります。
細い道なりに戦線が伸びきっていた前田軍は、大軍の利を生かせずに一方的に攻撃を受け、損害だけが増えていきます。
前田軍では、殿を務めた長連竜が奮戦し、その他の隊を先行させることで選局を打開しようと試みます。
このとき、前田軍・丹羽軍での大乱戦となり、丹羽方では松村孫三郎・雑賀兵部・寺岡勘左衛門らが、前田方では長家の九士、小林平左衛門・隠岐覚左衛門・長中務・鹿島路六左衛門・八田三助・鈴木権兵衛・堀内景広・柳弥兵次・岩田新助らが戦死する結果となります。
その後、前田軍の先発隊と松平康定が長連竜隊の救援のために引き返したため前田軍は何とか崩壊を免れます。
浅井畷の戦いの後
前田利長が再出陣(1600年8月末)
何とか本拠地・金沢に戻った前田利長でしたが、慶長5年(1600年)8月末、徳川家康からの命令が届き、石田三成と決戦のために再び軍を率いて美濃国へ進軍してくるよう求められます.
そのため、前田利長は再び軍を編成し、同年9月11日、美濃国に向かって南進を開始します(なお、このとき弟・前田利政の軍務放棄に悩まされています。)。
関ヶ原の戦いに間に合わず
金沢を出て美濃国へ向かう前田利長でしたが、金沢を発った4日後の慶長5年(1600年)9月15日に関ヶ原で石田三成軍(西軍)と徳川家康軍(東軍)との決戦が行われたため、前田利長軍はこの関ヶ原の戦いに間に合いませんでした。
前田利長と丹羽長重との和議(1600年9月18日)
関ヶ原の戦いで石田三成軍(西軍)が敗れたため、越前・加賀南部の諸大名も東軍への降伏を余儀なくされます。
前田利長と丹羽長重も、慶長5年(1600年)9月18日、前田利長は、丹羽長重に対して前田利常(前田利家の庶子)を人質として差し出すことで和睦しています。
その後、関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康によって北陸諸大名の仕置きが行われ、丹羽長重や前田利政などの大名家が改易され、戦術的には丹波長重の勝利、戦略的には前田利長の勝利にて北陸の関ヶ原の戦いは終結します。