郡山合戦は、天文9年(1540年)から天文10年(1541年)にかけて安芸国の毛利家の居城であった吉田郡山城付近において勃発した、尼子対大内という二大勢力の覇権を巡る一連の戦いです。
大内家方で主に戦ったのが毛利元就であり、合戦が毛利元就の居城であった吉田郡山城の近くで行われたため、この名が付けられました。なお、尼子軍が吉田郡山城を攻めた事実はありませんので、厳密には吉田郡山「城」の戦いと表記するのは誤りなのですが、一般に吉田郡山城の戦いと呼ばれることが多いので、本稿の表題にもカッコ書で吉田郡山城の戦いと付記しておきました。
この戦いによって、毛利元就の軍略によって尼子家の勢力が安芸国から一掃されることとなり、勢力拡張を続けていた尼子家に待っがかかるというターニングポイントとなった重要な一戦となりました。
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郡山合戦に至る経緯
安芸国の力関係
安芸国・吉田を治める国人領主であった毛利家は、長きに亘って周防国の大内家に服属することによって生き延びてきたのですが、出雲国の尼子家が勢力を拡大させてくると、安芸国内の国衆勢力と協力し、二大勢力の狭間で巧みな外交を続けて命脈を保っていきました。
大永3年(1523年)7月、毛利元就が毛利家の家督を継ぐこととなったのですが、このとき、尼子経久がこれに反対して坂広秀・勝元忠一派が擁立した相合元綱(毛利元就の異母弟)に肩入れして毛利家を牛耳ろうとしたため、毛利家と尼子家との関係が悪化し、毛利元就が、大永5年(1525年)3月、大内家に帰参します。
その上で、毛利元就は、兄嫁の実家である高橋家を滅ぼし、また長らく対立関係にあった宍戸家に娘を嫁がせて婚姻関係を結ぶなどして安芸国内での勢力基盤を整えていきました。
その後、享禄3年(1530年)に発生した尼子氏の内紛(塩冶興久の乱)の際、大内義隆が尼子経久を支持したことから、一時的に尼子家と大内家との間に和睦が成立し、享禄4年(1531年)7月には、尼子詮久と毛利元就が義兄弟の契りを結ぶに至りました。
毛利家と尼子家との決別(1537年)
ところが、天文6年(1537年)に尼子経久が隠居し、尼子詮久(後の尼子晴久)が尼子家の家督を継ぐと、毛利元就は長男の少輔太郎(後の毛利隆元)を人質として大内義隆に差し出し、尼子家との決別して大内家の傘下に下るという立場を明確にします。
当然ですが、この毛利元就の事実上の絶縁宣言を聞いた尼子詮久は激怒します。
尼子詮久による毛利元就討伐宣言
怒った尼子詮久は、天文8年(1539年)11月、尼子家の居城である月山富田城(島根県安来市)に家臣を集め、毛利元就に対する対応をどうするかの評定を開きます。
この軍議において、尼子詮久は、東の播磨国方面へ進出させていた尼子軍を安芸国へ向かわせ、毛利元就を討伐するべきであると述べます。
これに対し、尼子久幸(尼子経久の弟、尼子詮久の大叔父)が、備後国・石見国の平定済んでいない状態で敵地となった安芸国に入るのは危険であるため、両国の国人領主達から人質をとって道中の安全を確保してから安芸国侵攻を行うべきであるとの慎重論を述べました。
ところが、若く血気盛んな尼子詮久は、慎重論を述べる尼子久幸を「臆病野州」と罵った上で、独断で毛利元就討伐を決定してしまいます。
なお、隠居していたために評定には参加していなかった先代の尼子経久も、尼子久幸と同様に尼子詮久に慎重論を諭したのですが、頭に血が上っていた尼子詮久は聞く耳を持ちませんでした。
なお、以上が尼子軍出撃に至る経緯の通説なのですが、現在では、実際の尼子軍の安芸国侵攻の主眼は、尼子方の対大内最前線となっていた頭崎城の解放であると考えられています。
安芸高屋保(現在の広島県東広島市)にある頭崎城には、尼子方の平賀興貞が入り大内軍に対する最前線拠点となっていたのですが、この頭崎城を大内家臣の弘中隆包と大内方安芸国人の毛利元就・平賀弘保・小早川興景らが攻めていたのですが、同城はなかなか落ちませんでした。
苦戦する大内軍では、当主・大内義隆の出陣を依頼し、その結果、天文9年(1540年)1月、大内義隆が周防国防府に陣を構えて安芸での戦いを指揮し始めます。
その結果、同年4月、尼子方の小早川興景が大内方に寝返ります。
また、同年6月9日に安芸武田氏の当主・武田光和が急死し、同年6月16日に平賀興貞勢が毛利元就・平賀弘保の軍勢に敗れるなどしたため、尼子方は、頭崎城どころか安芸武田氏の佐東銀山城までも危機に陥る状態となっていました。
この後、安芸武田氏光和の跡目として若狭武田氏から武田信実を養子に迎えたのですが、家中の内紛を押さえることができずに佐東銀山城から逃亡します。
この結果、苦しくなり、尼子詮久に毛利元就討伐を要請したというのが実情のようであす。
前哨戦(備後路侵攻、1540年6月下旬)
尼子詮久は、天文9年(1540年)6月下旬、宍戸家の守祝屋城・五龍城(安芸高田市)を落として吉田郡山城の背後に迫らせるため、三木城の別所家攻略のために播磨国にいた新宮党の尼子久幸・尼子国久・尼子誠久らが率いる3000人に対し、備後路から安芸国吉田へ侵入するよう命じます。
この結果、備後路から吉田郡山城に向かう尼子軍は、出雲国赤名から備後国三次を経て、尼子方の三吉隆信の居城・備後八幡山城(現在の広島県三次市)に進出します。
ところが、進軍して来る尼子軍に対し、宍戸元源・宍戸隆家・深瀬隆兼らが、犬飼平や石見堂の渡しで決死の防戦を行ったため、尼子軍は可愛川(江の川)すら渡る事ができず侵攻を諦めて撤退します。
郡山合戦
尼子軍進軍(石見路侵攻、1540年8月)
備後路からの侵攻に失敗したことから少人数での安芸国侵攻作戦が困難であると判断した尼子詮久は、出雲国・石見国・伯耆国・因幡国・備前国・備中国・備後国・美作国・安芸国から合計3万人もの兵を動員した上で、天文9年(1540年)8月10日に月山富田城を出陣し、石見路を通って西側から吉田郡山城に向かって進軍していきます。
尼子軍は、石見国赤名(現在の島根県飯石郡飯南町)から口羽・川根・河井を経由し、吉田郡山城の北西約4kmに位置する風越山に登り、そこを掘削して南北約500m・東西約200mもの規模の野戦築城(外縁部を堀・土塁・切岸で囲み、尾根を堀切で遮断して南北に3つの曲輪を構築)を行った上、同年9月4日、同所に本陣を敷きます。
また、風越山の左翼に湯原宗綱3000人余を、右翼に高尾久友・黒正久澄・吉川興経らを配置し、側部・背部にも守備兵を置き、万全の体制を整えます。
これに対する毛利方の兵は僅か2400人だったのですが、僅か2400人の兵が籠る城(しかも、このときの吉田郡山城の本城は麓の部分に留まっていたために後に開かれた山頂部の大規模な詰城部分は存在していない小さな城でした。)に対する尼子軍の作戦は大規模すぎるように見えますので、尼子方の狙いは、毛利元就が籠る吉田郡山城の陥落ではなく、吉田郡山城を囲むことにより毛利元就とその他の安芸国衆たちを屈服させること、毛利方の後詰としてやってくるであろう大内援軍の殲滅することであったのではないかとも考えられます。
いずれにせよ、3万人の尼子軍に対し、2400人の毛利軍ではまともに戦うと毛利方に勝ち目がないのは明らかです。
そこで、毛利元就は、吉田郡山城に籠城することとし(このとき、吉田郡山城には2400人の兵に加えて農民・商人・職人を含めた合計8000人程度が入ります)、尼子方に対し、徹底したゲリラ戦を仕掛けるという作戦をとります。なお、この尼子軍3万人・毛利軍2400人(籠城8000人)というのは、毛利元就郡山籠城日記やその他軍記物の記載に由来しているものであるところ、このときの吉田郡山城の規模からするとおよそ考えられない数であり相当の誇張があったと推定されます。
また、毛利方は、五龍城にて宍戸元源を、鈴尾城にて天野興定をそれぞれ籠城させ、さらに頭崎城攻めを行っていた大内家臣の杉隆相・小早川興景らを坂城に駐留させるなどして、吉田郡山城の支援態勢を整えます。
鎗分・太田口の戦い(1540年9月12日)
風越山に布陣した尼子軍は、天文9年(1540年)9月5日、吉田郡山城の城下に進軍し、同城の南西部にあった吉田上村の民家に放火して毛利軍を誘い出そうとしたのですが、毛利方は応戦をしませんでした。
また、翌同年9月6日早朝、尼子軍4500人が、霧に紛れて再び進軍し、今度は吉田郡山城の南側の吉田太郎丸の町屋敷に放火してその勢いで吉田郡山城に攻撃を仕掛けましたが、毛利軍の抵抗に遭って数十名が討ち取られ、攻撃は失敗に終わります。
さらに、同年9月12日、数部隊に分かれた尼子軍が、再び吉田郡山城下に進出して放火した上で祇園縄手や香取縄手などから攻め込んだのですが、毛利軍は、渡辺通や井上元景などを出撃させて多治比川を渡らせた後、すぐに退却させて尼子勢にこれを追わせて誘引し、鎗分(やりわけ)に潜ませた伏兵でこれを包囲攻撃の上、これを殲滅しています(鎗分・太田口の戦い、尼子方はこの戦いで高橋元綱や本城信濃守らを含む数十名が討死しています。)。
また、同日、吉田郡山城の南側正面にあたる広修寺や祇園縄手でも激戦が繰り広げられたのですが、ここでも尼子軍は撃退されます。
尼子軍の青山進出(1540年9月23日)
なかなか吉田郡山城に取りつくことができない尼子軍は、本陣を吉田郡山城に近い位置に進める決断をし、天文9年(1540年)9月23日、陣を敷いていた風越山から吉田郡山城の南西に位置する青光山にまで軍を進め、青山や三井山に新たな拠点を構築します(なお、このときの尼子軍の本陣移転については、吉田郡山城の背後にある甲山に尼子軍が陣取ることを避けるために間者を使って城の南側に移るよう工作したとも言われているのですが、軍記物以外の出典はなく真偽は不明です。)。
また、尼子軍は本陣移転に伴い、吉田郡山城の周囲にもいくつもの防衛のための陣城を構築していきます。
この結果、吉田郡山の南西部に尼子軍が取り付いたような形となります。
他方、対する毛利元就は、尼子軍本陣移転に伴って手薄となった風越山を急襲してこれを焼き払ったため、戦いは吉田郡山城と青山・三井山との間に集約されていきます。
池の内の戦い(1540年9月26日)
青山・三井山に進んだ尼子軍は、天文9年(1540年)9月26日、吉田郡山城を孤立させるため、湯原宗綱に1500人の兵を預けて南東に向かって出陣させ、同城の後詰のために坂城近くの豊島に布陣していた大内軍先遣隊の杉元相及び小早川興景を攻撃させます。
もっとも、尼子軍が動いたことを察知した毛利元就は、吉田郡山城から粟屋元良軍を出撃させ、この軍と大内軍先遣隊の杉元相及び小早川興景軍とで、尼子軍の湯原宗綱軍を挟撃します。
南北から挟撃された湯原宗綱軍は大混乱に陥って壊滅し、撤退を計る湯原宗綱は同日日没前に深田に馬を乗りいれて動けなくなり、進退窮まったとして自刃して果てています(なお、このとき湯原宗綱が自刃したといわれる湯原腹切岩が残されています。)。
青山土取場の戦い(1540年10月11日)
戦力を小出しにするたびに毛利元就のゲリラ戦に殲滅される尼子軍は大軍をもって一気に決着をつけようと考え、天文9年(1540年)10月11日、ついに尼子誠久率いる新宮党などの1万人の大兵力を動員し、城下に火を放ちながら吉田郡山城に迫ることとします。
大人数による力攻めが始まったことを知った毛利元就は、籠城すれば持ちこたえることはできないと判断し、積極的に打って出る決断をします。
そして、毛利元就は、ただでさえ寡兵の毛利軍をさらに3隊に分け、1隊500人を渡辺通・国司元相・児玉就光に預けて城西方の大通院谷の先に伏せさせ、またもう1隊200人を桂元澄・粟屋元真に預けてこちらも青山に近い場所まで南進させて伏せさせます。
その上で、毛利元就は、自ら1000人を率いて多治比川を渡って正面から尼子軍と対峙し、数刻に亘る激戦を展開します。
そして、寡兵の毛利軍が劣勢となった頃合いを見て、毛利元就は吉田郡山城へ撤退するために多治比川を超えて戻っていきます。
これを見た尼子軍は、逃げる毛利元就を追って行ったのですが、ここで毛利方の伏兵(左翼の渡辺通・国司元相・児玉就光率いる500人と、右翼の桂元澄・粟屋元真率いる200人)に囲まれ大混乱に陥り、我先にと本陣に退却していくありさまとなりました。
毛利元就軍は、混乱して敗走する尼子軍を追撃し、青山の麓にある尼子本陣の外柵を破壊して内部に侵入して荒らしまわり、尼子軍の三沢為幸ら500人を討ち取る大勝利を挙げます(青山土取場の戦い)。
その後、天文9年(1540年)11月9日、尼子家の支援によって佐東銀山城に戻っていた武田信実が、毛利軍の背後を突こうとしたのですが、これも般若坂にて国司元相勢によって撃退されます。
その後も、同年11月22日に高田郡瀬木で、同年11月23日に小山で、同年11月26日に相合で毛利軍と尼子軍の小競り合いが発生したものの、戦況に影響を与えるような戦いには至りませんでした。
大内援軍の到着(1540年12月3日)
そうこうしているうちに、大内方から吉田郡山城解放のために陶隆房・内藤興盛らが率いる1万人の兵が出陣し、まず杉隆相が抜けた頭崎城攻めの陣営に加わった後、吉田郡山城に向かっていきます。
この大内援軍は、途中で尼子方の武田信実・牛尾幸清以下3000人余りの妨害に遭うも、天文9年(1540年)12月3日、吉田郡山城の東側にある山田中山(旧甲田町)に到着します。
援軍を得た毛利軍は、同年12月11日に吉田郡山城の西に位置する宮崎長尾(旧吉田町相合)にある尼子方の陣に攻撃を仕掛けま、また、翌天文10年(1541年)1月3日には、相合口の尼子軍を攻撃し、さらに同年1月6日にも再び尼子軍の青山本陣に迫って火を放つなどしています。
同年1月11日、大内援軍は、山田中山の陣を撤去して吉田郡山城の尾根伝いの西側に天神山に本陣を移るために動きだします。
これに対し、尼子軍は、大内援軍の陣の移動を阻止しようと試みたのですが失敗し、大内援軍の天神山布陣が完了したため、吉田郡山城・天神山に布陣する大内軍と(また、吉田郡山城の城下には小早川興景・宍戸元源らも布陣していました。)、青山・三井山に布陣する尼子軍とが対峙する形となりました。
毛利軍らの総攻撃(1541年1月13日)
天文10年(1541年)1月13日早朝、城外にいた小早川興景・宍戸元源らと呼応した毛利軍総勢3000人がほぼ全軍をもって宮崎長尾に布陣した尼子軍に攻撃を開始します。なお、これが毛利元就の次男である少輔次郎(後の吉川元春)初陣です。
毛利軍は、尼子方第一陣の高尾久友隊2000人、第二陣の黒正隊1500人を潰走させたものの、第三陣の吉川興経隊1000人の反撃にあい、宮崎長尾の陣を攻略するには至りませんでした。
もっとも、毛利軍が宮崎長尾を攻撃している隙を見て、天神山に布陣した陶隆房は、軍を天神山から下山させて南に下らせた上、密かに郡山の山陰を東進して江の川を渡大きく南に迂回した後、青光山の南側で江の川を再び渡河して北上し、尼子本陣の背後から奇襲を仕掛けました。
突然後方から攻撃を受けた尼子本陣は大混乱に陥り、総大将の尼子詮久にまで危険が迫る事態となります。
このとき、今回の出陣に反対をしていた尼子久幸が、「臆病野州の最期を見よ」と言って500人を率いて前線に出て奮戦します。
尼子久幸が前線に立っている間に、山麓に分散していた尼子軍が終結するなどして尼子方は軍勢を整え、何とか戦いができるほどにまで至ります。
もっとも、奮戦していた尼子久幸は、毛利家家臣であった中原善左衛門が放った矢を額に受けて落馬した後、討ち死しています。
その後、この青山の戦いは、一進一退の大激戦となり、勝負がつくことなく終わります。
なお、このときの尼子方の戦死者は400人、大内方の戦死者は470人であったとされています(吉田物語)。
尼子軍撤退(1541年1月14日)
青山の戦いが終わった後、被った損害が大きいこと、兵糧が不足しつつあったこと、士気低下により国衆の離反を恐れたこと、大内義隆がさらなる大軍を率いて援軍に向かっているとの報が届いたことなどから、尼子詮久は、安芸国攻略をあきらめて撤退するという決断を下します。
そして、同日夜、尼子軍は、高尾豊前守を宮崎長尾の陣に殿として残し、その他の全軍は雪をかき分けながらの撤退を開始します。
翌天文10年(1541年)1月14日の朝、尼子軍が撤退を始めたことを知った毛利軍・大内軍が追撃を開始しますが、宮崎長尾の陣によって阻まれ、尼子軍の撤退戦は自体は成功します。
郡山合戦の後
合戦後の尼子家
大敗北を喫した尼子家の威信は大きく低下し、天文10年(1541年)1月末までに安芸国内の尼子勢力は完全に駆逐されます(頭崎城の平賀興貞が降伏し、また安芸武田家や厳島神主家なども駆逐されています。)。
また、備後国・石見国・出雲国などでも国人領主の反乱が相次ぎ、備前国の赤松家、播磨国の浦上家などの勢力回復を許す結果となってしまいます。
さらに、同年11月13日尼子経久が病没すると、尼子家の威信はさらに低下し、この機に乗じて尼子家を追い込もうとした大内義隆の画策によって、室町幕府から尼子家討伐の綸旨も出されるなど窮地に追い込まれていくこととなりました。
合戦後の大内家
吉田郡山城救援に成功した大内軍は、その勢いで毛利元就と共に桜尾城や佐東銀山城など周辺の反大内勢力を制圧していきます。
この結果、大内義隆が安芸守護に任じられ、弘中隆包を安芸守護代に任じるなどして厳島を含む安芸国の支配体制を強化していきます。
また、郡山合戦により中国地方の勢力が大きく大内方に傾いたことにより大内方に鞍替えした主要な国人衆から尼子家討伐を求める連署状が提出されます。
そこで、これを受けた大内家内の武断派であった陶隆房らの主導により、天文11年(1542年)大内家は出雲へ軍を進めて月山富田城を囲みます(第1次月山富田城の戦い)。
勢いに乗った大内軍は、毛利家の援軍も加えて尼子家の居城である月山富田城を攻撃を続けたのですが同城は1年以上を経過しても陥落する気配はなく、天文12年(1543年)5月、尼子軍の猛追による甚大な被害を出しながら退却するという大敗北を喫しています。
合戦後の毛利家
郡山合戦における毛利元就の軍功は、毛利元就と大内義隆からそれぞれ幕府に報告され、幕府方の細川晴元から送られた天文10年(1541年)4月2日付の書状において、最大級の賛辞が記載されています。
そして、安芸国内で力を高めた毛利元就は、小早川家、吉川家に息子を養子に出して両家を取り込み、また草創期以来の重臣として専横を極めていた井上元兼一族を粛清するなどして家臣団の取りまとめを行うなどして、それまでの安芸国の国人領主を束ねる筆頭領主という立場から、安芸国一国を治める戦国大名へと成長していくこととなります。