【甲州勝沼の戦い】甲陽鎮撫隊に改名した新撰組が壊滅した戦い

甲州勝沼の戦い(こうしゅうかつぬまのたたかい)は、江戸幕府から厄介払いとして甲府城に向かうよう命じられた新撰組が、甲陽鎮撫隊(こうようちんぶたい)と改名して甲府城に向かったのですが、甲府城手前で先に甲府城に入った新政府軍と対峙し敗れた戦いです。

池田屋事件で名を挙げ、鳥羽伏見の戦いで敗残兵となった新撰組が事実上解散に追い込まれた戦いでもあります。

甲州勝沼の戦いに至る経緯

徳川慶喜の大坂脱出(1868年1月6日)

鳥羽・伏見の戦いで敗れた旧幕府軍の将兵は、大坂城に集まって再起を図ろうとします。

ところが、旧幕府軍の将兵が大坂城に戻った際、総大将であるはずの徳川慶喜が大坂城にいませんでした。

徳川慶喜が、慶応4年(1868年)1月6日夜、朝廷に弓引いた罪が及ぶのを畏れ、江戸幕府のために戦った将兵を置き去りにして、松平容保ら僅かな供のみを引き連れて大坂城を脱出していたからです。

この状況に大坂城に入った旧幕府軍の将兵は大混乱に陥り、それぞれが独自の作戦を立案するなどして収拾がつかなくなります。

そして、総大将が逃亡したことにより旧幕府軍は継戦意欲を失って戦いを維持できなくなり、結局は、旧幕府軍は大坂城を放棄して将兵それぞれが自領や江戸に帰還することとなります。

なお、空になった大坂城には、同年1月9日に長州軍が入ってこれを接収し、京・大坂一帯が新政府軍の支配下に収めています。

新撰組が徳川慶喜を追って江戸へ

大坂城を出た新撰組は、慶応4年(1868年)1月10日、徳川慶喜・松平容保らを追って軍艦富士山丸と順動丸で海路にて江戸を目指します。

このとき、近藤勇と土方歳三は富士山丸に乗艦したのですが、ここで後に土方歳三と共に函館戦争を戦うこととなる榎本武揚と出会っています(榎本武揚は、このとき軍艦・開陽丸の船長だったのですが、徳川慶喜が船長を置いて同艦で江戸に戻ってしまっていたため、富士山丸で江戸に戻る途中でした。)。

近藤勇の意見申述(1868年1月16日)

海路で江戸に戻った新撰組でしたが、このとき江戸に戻った隊士は120人と言われ、その半数はそのまま治療のため医師の下に送られることとなりました。

近藤勇と土方歳三は、慶応4年(1868年)1月16日、抗戦か恭順かで意見が割れる江戸城に呼び出されて意見を求められます。

ここで、近藤勇と土方歳三は、近代兵装を整えた上での抗戦論を唱えたのですが、最終的には徳川慶喜の意向で新政府に恭順することに決まります。

この結果、小栗忠順らの抗戦派幕僚が幕政から遠ざけられ、徳川慶喜も陸軍総裁・勝海舟や会計総裁・大久保一翁らに後事を託して上野にある寛永寺で謹慎することとなりました。

新撰組に甲州鎮撫が命じられる

起こさせないよう、抗戦派集団を江戸から遠ざけるための策を講じます。

特に問題視したのが新撰組でした。

ここで、勝海舟は、近藤勇に若年寄格を与えて「大久保大和守剛」に、土方歳三に寄合席格を与えて「内藤隼人」とそれぞれ名乗らせ、慶応4年(1868年)2月28日、近藤勇に対し、幕府直轄領である甲府(甲府城)を新政府軍より先に押さえ、甲州鎮撫をするよう命じます。

新撰組にとっては、憧れていた武士になれた上でさらに一国一城の主となれる大出世人事なのですが、幕府からすると、江戸城無血開城を実現するための追い出し策に過ぎませんでした。ところが、気をよくしていた近藤勇は、甲府城と甲府100万石を手に入れた暁には、副長に5万石・副長助勤に3万石・調役に1万石を与えると言い放つほど上機嫌だったそうです(新撰組顛末記)。

こうして、新撰組は、幕府から5000両と大砲2門(元々は6門の予定だったのですが少ない兵で甲府まで6門の大砲を運べなかったため、最終的に受け取ったのは2門だけでした。)と銃500挺を与えられたため、これを持って甲府に向かう準備を整えます。

もっとも、新撰組隊士だけでは甲府城を占拠してこれを防衛する人数が不足していたため、ここで、浅草新町の被差別民の頭領であった弾左衛門の配下を加え、甲陽鎮撫隊と名前を改めました。

なお、甲陽鎮撫隊の名は、大正年間に佐藤俊宣が記した「今昔備忘記」が初出であり、これを参考資料として子母沢寛が「新選組始末記」で発表したことにより定説化したのですが、当時の資料で甲陽鎮撫隊の名称を用いたことが明らかとなる文献は存在していません。

甲州勝沼の戦い

甲陽鎮撫隊江戸出発(1868年3月1日)

新撰組70余人・弾左衛門配下の被差別民200人となった甲陽鎮撫隊は、慶応4年(1868年) 3月1日、大砲2門・小銃500挺・軍資金5000両を携えて甲州に向かって進軍を開始します。

江戸を出発した甲陽鎮撫隊は、近藤勇と土方歳三の故郷であった多摩に凱旋して土方歳三の義兄である佐藤彦五郎率いる春日隊40人を吸収します。

その後も、甲府城への入城を目指して進軍する甲陽鎮撫隊でしたが、天候が良くなかったこと、近藤勇が甲府が幕府の直轄領であったために容易く官軍の手に渡らずまた入城さえしてしまえば軍拡も容易であると楽観的に考えていたこと、幕府役人からすると甲府城代が「山送り」と呼ばれる左遷先であったこと、引き連れていた兵が弾左衛門配下の俄か仕立の兵卒たちで士気が引かったことなどからその進軍は捗りませんでした。

そのため、近藤勇率いる甲陽鎮撫隊は、将兵を宥める意味もあり、江戸から甲府に向かう道中で、幕府から得た5000両をもって派手に豪遊しながらの行軍をしたため時間を空費します。

新政府軍も甲府へ向かう

他方、慶応4年(1868年)1月6日、薩土討幕の密約を履行する目的で、土佐勤王党の流れをくむ隊士や勤皇の志を持った諸士を集めて迅衝隊を結成します。

さらに翌1月7日、朝廷より「徳川慶喜追討」の勅が出されると、同1月13日、乾退助は、迅衝隊を率いて土佐城下致道館より出陣します。

途中、佐幕派の妨害を巧みにかわして上洛を果たすと、京にいた山内容堂が、乾退助に迅衝隊及び在京土佐藩士からなる部隊を編成させ、乾退助を大隊司令兼総督に任命します。

その後、乾退助は、朝廷から東山道先鋒総督府参謀に任命されたため、同年2月14日京を出発し東山道を進軍していくこととなりました(このとき、有栖川宮熾仁親王を大総督とし、軍を3つに分けて東海道・東山道・北陸道から江戸に向かって進軍していたうちの1軍。)。

その後、乾退助は、道中の美濃国において、甲斐源氏の流れを汲む旧武田家家臣の板垣氏の末裔であることを示して甲斐国民衆の支持を得よとの岩倉具定等の助言に従い、「板垣姓」に改め、さらに東に向かって進んで行きます。

甲府城入城が戦いの勝敗を決すると考えていた板垣退助は、甲陽鎮撫隊に先んじて甲府城に入ることを至上命題と考えており、同年3月1日、東山道(現・中山道)を進んでいた東山道先鋒総督府軍を下諏訪で本隊と別働隊に分け、本隊(因幡鳥取藩兵約300人)は伊地知正治が率いてそのまま中山道を進ませ、板垣退助の率いる別働隊(迅衝隊約100人)は案内役の高島藩一箇小隊を先頭に、因州鳥取藩兵と共に甲州街道を通って全速力で甲府城を目差しました。

新政府軍甲府城入城(1868年3月5日)

以上の結果、慶応4年(1868年)3月5日、江戸→甲府という圧倒的に有利な地理的位置にいるも進軍か進まなかった甲陽鎮撫隊よりも先に、大垣→甲府を走破した板垣退助率いる東山道先鋒総督軍が甲府城に入城します。

この東山道先鋒総督軍の甲府城入城は、圧政に苦しめられた徳川治世が快く思われていなかったこと、新政府軍の指揮官が旧武田家の旧臣であるとして治世を懐かしむ気風があったことなどから甲府の地で歓迎されます。

甲陽鎮撫隊が勝沼に到着

甲陽鎮撫隊は、新政府・東山道先鋒総督軍より1日遅れた慶応4年(1868年)3月6日に甲府城の約15km手前(東側)に到達したのですが、そこですでに新政府軍が甲府城に入城していたことを聞かされます。

前日に東山道先鋒総督軍が入城してその防備を固めていたために甲陽鎮撫隊が甲府城に入城することはできず、近藤勇の100万石大名の夢が消えた瞬間でした。

新政府軍に遅れをとったことを知って焦った近藤勇は、甲府城攻略のための援軍を要請するために土方歳三を江戸へ派遣するとともに、自らは甲府城を攻撃するために甲陽鎮撫隊を率いて、甲州街道と青梅街道の分岐点近くに位置する大善寺に向かいます。

ところが、大善寺から甲陽鎮撫隊の本陣とすることを拒否され、やむなく大善寺の南側の街道沿いに東西に長く伸びる陣形を敷くこととなってしまいました。

後手後手に回る甲陽鎮撫隊では士気が下がり続け、当初310人いた兵卒が次々に逃亡して121人まで減ってしまいます。

なお、土方歳三は、神奈川方面へ向かって旗本の間で結成されていた菜葉隊(吹田鯛六率いる500人)に援助を求めたのですが黙殺され、甲陽鎮撫隊の勝機が失われます。

甲州勝沼の戦い(1868年3月6日)

以上の状況下で甲陽鎮撫隊に勝ち目がないと判断した永倉新八・原田左之助・斎藤一らは、援軍が来るまで待つべきだと主張したのですが、近藤勇は、会津軍の援軍が向かっていると嘘をついて慎重意見を制し、2門の大砲を準備して篝火を焚くなどして臨戦態勢を整えます。

そして、慶応4年(1868年)3月6日正午ころ、甲陽鎮撫隊(新撰組)が、甲州勝沼の柏尾坂附近において対峙していた東山道先鋒総督軍(新政府軍)に対して発砲したことにより戦闘が始まってしまいます。

元々圧倒的な人数差があった上、洋式戦術に長けた東山道先鋒総督軍(新政府軍)に対し、甲陽鎮撫隊(新撰組)は近代式戦闘に慣れておらず、大砲の弾を逆に装填して撃ったり、支給されたミニエー銃の扱いに窮して敵陣に抜刀戦を仕掛けたりするなどした結果、敗色濃厚となった甲陽鎮撫隊からは脱走兵が続出して瞬く間に勝負が決します。

結局、戦闘開始後1~2時間後には甲陽鎮撫隊の本陣が陥落し、新政府軍の勝利で甲州勝沼の戦いが終わります。

甲州勝沼の戦いの後

甲陽鎮撫隊敗走

敗れた甲陽鎮撫隊は、散り散りになって山中を隠れながら敗走し、同年3月8日に到達した八王子宿において解散します。

その後、近藤勇は江戸に向かって引き上げを開始し、道中で引き換えしてきた土方歳三と合流しています。

新撰組解散

慶応4年(1868年)3月11日、散り散りに逃げてきた甲陽鎮撫隊(新撰組)の面々が江戸和泉橋医学所において集結し、慰労のための宴会を開きます。

このとき、永倉新八・原田左之助らが、会津藩と合流して会津で新政府軍と戦うべきであるとの意見を近藤勇と土方歳三に伝えたのですが、近藤勇がこの意見を却下しつつ、永倉新八・原田左之助らが近藤勇の配下になるなら了承してもいいと述べます。

これに対し、近藤勇とは同盟関係にあり配下ではないと考えていた永倉新八・原田左之助らは激高し、甲陽鎮撫隊(新撰組)から離脱します(この後、永倉新八・原田左之助らは靖兵隊を結成して北関東を転戦しています。)。

他方、近藤勇は、同年3月13日から五兵衛新田(現在の東京都足立区綾瀬四丁目)にあった金子家に駐屯し、大久保大和を名乗って隊士を募集して227人の集団を形成します。

その後、近藤勇らは、同年4月2日、手狭になった金子家を出て下総国流山に移ったのですが、そこで新政府軍に捕縛されるのですが、話が長くなるので以降の話は別稿に委ねたいと思います。

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