【備中高松城水攻め】羽柴秀吉軍による毛利直轄領への侵攻戦

備中高松城水攻めは、織田軍・中国方面軍司令官として毛利攻めを行っていた羽柴秀吉が、天正10年(1582年)に毛利家配下の清水宗治が守る備中高松城を攻略した戦いです。

位置づけとしては、毛利家に服属する周辺国衆を駆逐した羽柴秀吉が、毛利直轄領に攻め込む初戦であり、堤防を築いて水攻めにしたことから、備中高松城の水攻めと呼ばれています(忍城の戦い、紀伊太田城の戦いとあわせて日本三大水攻めの1つに数えられています。)。

織田家の一軍団長に過ぎない羽柴秀吉が総力を挙げた毛利家を圧倒するという織田家の力を見せつける戦いとして始まり、途中で本能寺の変が起こって危機に陥った羽柴秀吉が巧みに戦を終了させて撤退し後の天下取りへつながる転換期となった戦いでもあります。 “【備中高松城水攻め】羽柴秀吉軍による毛利直轄領への侵攻戦” の続きを読む

【羽柴秀吉の四国攻め】四国平定のための長宗我部元親討伐戦

羽柴秀吉の四国攻めは、戦国時代末期に羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が天下統一事業の一環として行った長宗我部元親軍との一連の戦いです。四国征伐、四国の役、四国平定などとも呼ばれます。

長宗我部元親が、織田信長時代から羽柴秀吉と敵対していたこと徳川家康と接近していたことなどから羽柴秀吉との関係は従前から劣悪だったのですが、天正13年(1585年)に伊予国の河野通直を降伏させたことにより四国をほぼ統一した時点で、羽柴秀吉が長宗我部元親に自身への服属を命じます。

ところが、長宗我部元親がこれを拒否したため、羽柴秀吉が10万人を超える兵をもって三方面から四国に侵攻し、長宗我部元親を降伏させたというのが羽柴秀吉による四国攻めの概略です。小牧・長久手の戦いに際して徳川家康と結んで後方を脅かしたことに対する報復でもありました。

この戦いにより、敗れた長宗我部元親が四国全域支配から土佐一国20万石に減らされて豊臣政権下の一大名に成り下がり、他方羽柴秀吉方としては四国平定により次に九州征伐に向かうという天下統一戦の終盤に差し掛かるという転機となる戦いでした。 “【羽柴秀吉の四国攻め】四国平定のための長宗我部元親討伐戦” の続きを読む

【九戸政実の乱】豊臣秀吉による天下統一戦の最後の戦い

九戸政実の乱(くのへまさざねのらん)は、天正19年(1591年)に、南部家のお家騒動に敗れて弟を南部家の当主の座に就けることができなかった九戸政実が、南部家当主となった南部信直と奥州仕置を行う豊臣政権に対して起こした反乱です。

東北地方の大名家のお家騒動から発展した内乱であり、歴史の教科書などでもほとんど紹介されないため知名度がイマイチですが、実は豊臣秀吉の天下統一戦の最後を飾る戦いです。 “【九戸政実の乱】豊臣秀吉による天下統一戦の最後の戦い” の続きを読む

【河東の乱】東駿河の河東地域を巡る今川義元と北条氏綱・北条氏康との戦い

河東の乱(かとうのらん)とは、天文6年(1537年)と天文14年(1545年)の2回に亘って起こった今川家と北条家との戦いの総称です。河東一乱とも呼ばれます。

一言でいうと、第一次河東の乱で北条氏綱が今川義元から河東地方を奪い取り、第二次河東の乱で今川義元が北条氏康から奪還した戦いの総称です。

端的に言ってしまうとシンプルすぎる内容ですが、この戦いは、蜜月関係にあった今川家と北条家が手切れとなり、その後憎しみの連鎖から脱却し、再び同盟関係に至るという背景の中で繰り広げられた政治劇の中の紛争であり、マイナーながら関東戦国史を語る上では外せない戦いと言えます。

なお、この戦いの名である「河東」とは,戦国時代に武田家・今川家・北条家の間で便宜上呼称していた富士川以東・黄瀬川以西の地域をいい,公的な名としては「駿東郡と富士郡の一部」というが正しいので,注意が必要です(河東郡というものが存在するわけではありません。)。

“【河東の乱】東駿河の河東地域を巡る今川義元と北条氏綱・北条氏康との戦い” の続きを読む

【木津川口の戦い】陸上封鎖された石山御坊への物資搬入をめぐる織田水軍と毛利水軍の海戦

木津川口の戦い(きづがわぐちのたたかい)は、10年に及ぶ石山合戦の中で、天正4年(1576年)と、天正6年(1578年)の2度に亘って繰り広げられた、織田水軍と毛利水軍との海戦です。

石山御坊を包囲し兵糧攻めにする織田軍と、海から突破して石山御坊に物資を補給しようとする毛利水軍との攻防戦であり、2回行われた海戦の1回目の戦い(第一次木津川の戦い)は毛利水軍が勝利し、2回目の戦い(第二次木津川口の戦い)は織田水軍が勝利しています。

特に、第二次木津川の戦いは、織田水軍が鉄甲船を繰り出したことでも有名です。

この木津川口の戦いは、戦国時代で最も有名とも言える海戦であり、第二次木津川口の戦いで織田水軍が勝利して石山御坊の海上封鎖を完成させたことにより、補給が受けられなくなった石山本願寺側が石山御坊から退去し石山戦争が終結することとなるきっかけとなったという意味でも非常に重要な合戦です。 “【木津川口の戦い】陸上封鎖された石山御坊への物資搬入をめぐる織田水軍と毛利水軍の海戦” の続きを読む

【藤原純友の乱】藤原北家出身の元貴族が海賊となって起こした瀬戸内反乱

藤原純友の乱(ふじわらのすみとものらん)は、平安時代中期に瀬戸内で発生した反乱で、ほぼ同時期(承平・天慶期)に関東で発生した平将門の乱と合わせて承平天慶の乱(じょうへいてんぎょうのらん)とも呼ばれます。

藤原純友は、平安時代中期に権力を独占した藤原北家出身であり、中央貴族であった藤原純友が、海賊の頭目となって瀬戸内海で海賊行為を繰り返すに至ったということが同時の政治の不安定さを物語っています。 “【藤原純友の乱】藤原北家出身の元貴族が海賊となって起こした瀬戸内反乱” の続きを読む

【白村江の戦い】百済・大和朝廷軍連合軍が大敗し百済が滅亡した戦い

白村江の戦い(はくそんこうのたたかい/はくすきのえのたたかい)は、天智天皇2年(663年)8月に朝鮮半島の白村江(現在の錦江河口付近)で起った百済遺臣・倭国軍(大和朝廷軍)と唐・新羅連合軍との間の戦いです。

朝鮮半島について見ると、復興百済王朝が完全滅亡し、新羅による朝鮮半島統一に繋がる一戦です。

他方、人口300万人程度と推定される当時に未熟な造船・航海技術で5000人もの兵を送るという国を挙げての戦いに挑み大敗したヤマト政権軍にとっては、国内政治と国防のシステムの改変を強いられることとなった重要な一戦でもあります。

以下、白村江の戦いについて、戦いに至る経緯から見ていきましょう。 “【白村江の戦い】百済・大和朝廷軍連合軍が大敗し百済が滅亡した戦い” の続きを読む

【保元の乱】摂関家が凋落し武士が台頭する契機となった朝廷内乱

保元の乱(ほうげんのらん)は、保元元年(1156年)7月に、天皇家・藤原摂関家・武士が崇徳上皇派と後白河天皇派とに分かれて争った政変です。

誤りをおそれず一言でいうと,保元の乱は、鳥羽上皇の死亡により空席となった治天の君の席を巡る崇徳上皇と後白河天皇との争いです。

院政を行うものを決めるという天皇家の争いに藤原摂関家が肩入れしたことにより複雑化し、ここに武士が参戦したことにより武力による代理戦争に発展します。

結果としては、後白河天皇派が勝利し、崇徳上皇が讃岐国に配流されて終わったのですが、藤原摂関家から謀反人を出したとしてその地位が地に落ちたこと、朝廷の政争を武力で解決したことで武士の存在感が増したことなどの結果をもたらし、後の約700年に渡る武家政権へ繋がるきっかけの1つとなった大事件です。

本稿では、そんな保元の乱について、発生に至る経緯から見て行きたいと思います。 “【保元の乱】摂関家が凋落し武士が台頭する契機となった朝廷内乱” の続きを読む

【大蔵合戦】保元の乱の前哨戦となった河内源氏の内紛

大蔵合戦(おおくらかっせん)は、久寿2年(1155年)8月16日、河内源氏の棟梁である源為義の長男である源義朝の子・源義平が、源為義の次男である源義賢の館を襲撃しこれを討ち取った戦いです。

討ち取られた源義賢の館があった場所の名をとって大蔵合戦と呼ばれます。

河内源氏内でのドロドロの親子・兄弟紛争であり、翌年の保元の乱に繋がる前哨戦ともなっています。 “【大蔵合戦】保元の乱の前哨戦となった河内源氏の内紛” の続きを読む

【平将門の乱】平氏台頭のきっかけとなった関東武士の反乱

平将門の乱(たいらのまさかどのらん)は、平安時代中期に関東で発生した反乱で、ほぼ同時期(承平・天慶期)に瀬戸内海で発生した藤原純友の乱(ふじわらのすみとものらん)と合わせて承平天慶の乱(じょうへいてんぎょうのらん)とも呼ばれます。

平将門の乱は、単なる一武士の反乱に止まらず、藤原純友の乱と合わせて、日本の律令国家衰退と武士を誘発し、平氏(平将門の乱の方に平貞盛が参加したため)と源氏(藤原純友の乱の鎮圧に源経基が参加したため)が台頭するきっかけともなった歴史が転換するきっかけとなった事件です。 “【平将門の乱】平氏台頭のきっかけとなった関東武士の反乱” の続きを読む