桶狭間の戦いのどさくさに紛れて岡崎城に入った徳川家康は、吉良義昭・鵜殿長照らを制圧して西三河を勢力下に勢力下におさめ、また奥三河へも影響力を及ぼしていきます。
こうして三河国西部を傘下に治めるに至った徳川家康は、今川方の国衆達が割拠する東三河への侵攻を開始します。 “【徳川家康の東三河平定戦】西三河平定後の三河国統一戦” の続きを読む
日本の歴史をできる限りをわかりやすく
桶狭間の戦いのどさくさに紛れて岡崎城に入った徳川家康は、吉良義昭・鵜殿長照らを制圧して西三河を勢力下に勢力下におさめ、また奥三河へも影響力を及ぼしていきます。
こうして三河国西部を傘下に治めるに至った徳川家康は、今川方の国衆達が割拠する東三河への侵攻を開始します。 “【徳川家康の東三河平定戦】西三河平定後の三河国統一戦” の続きを読む
三河一向一揆(みかわいっこういっき)は、桶狭間の戦いのどさくさにまぎれて西三河に戻った徳川家康(当時の名は松平元康ですが、便宜上本稿では徳川家康で統一します。)が、同地で勢力を高めようとした際に浄土真宗本願寺派の守護不入特権に手を付けたことに反発して起こった一向一揆です。
徳川家康に対して立ち上がった一向衆寺院に、徳川家康(松平家)の譜代家臣までが参加したことから、松平家が敵味方に分かれて戦う大きな危機となった戦いです。
そのため、三河一向一揆は、三方ヶ原の戦い、伊賀越えと並ぶ徳川家康の三大危機の1つとも評されています。 “【三河一向一揆】家臣団分裂による松平家崩壊の危機と西三河平定” の続きを読む
大高城兵糧入れは、「海道一の弓取り」と言われた今川義元が「尾張のうつけ」と言われた織田信長の奇襲により討ち取られた桶狭間の戦いの際、今川方に属していた松平元康(後の徳川家康)が、今川方の拠点となっていた大高城に兵糧を運び入れた兵站作戦です。
単なる兵糧運搬のように見えますが、鷲津・丸根・正光寺・氷上・向山の各砦によって囲まれた織田軍を突破して足の遅い小荷駄隊を運び入れるという困難な作戦であり、若き日の松平元康の軍才にて成功させた奇跡ともいえる軍功です。
また、この困難な作戦を成功させた功績により桶狭間への参集を免除されて大高城に留まることを許されたため、松平元康が、織田信長に討ち取られることなく一命をとりとめることにつながった作戦でもあります(この作戦に失敗していれば、松平元康は桶狭間へ参集を命じられ、そこで織田信長に討ち取られていた可能性が高く、後に江戸幕府が成立することもなかったと思われます。)
本稿では、マイナーではありつつも、実は大きな歴史的意味を持つ大高城兵糧入れについて、そこに至る経緯から順に説明したいと思います。 “【大高城兵糧入れ】徳川家康の桶狭間の戦い” の続きを読む
甲州勝沼の戦い(こうしゅうかつぬまのたたかい)は、江戸幕府から厄介払いとして甲府城に向かうよう命じられた新撰組が、甲陽鎮撫隊(こうようちんぶたい)と改名して甲府城に向かったのですが、甲府城手前で先に甲府城に入った新政府軍と対峙し敗れた戦いです。
池田屋事件で名を挙げ、鳥羽伏見の戦いで敗残兵となった新撰組が事実上解散に追い込まれた戦いでもあります。 “【甲州勝沼の戦い】甲陽鎮撫隊に改名した新撰組が壊滅した戦い” の続きを読む
鳥羽・伏見の戦い(とば・ふしみのたたかい)は、幕末に、旧幕府軍と薩摩藩を中心とする新政府軍とが戦った一大内戦である戊辰戦争の初戦です。
江戸幕府15代将軍であった徳川慶喜を政治の舞台から引きずり下ろすため薩摩藩の暴挙に耐え切れなくなった旧幕府軍が立ち上がり、朝敵となって敗れて滅びの道を進むこととなる契機となった戦いでもあります。
本稿では、江戸時代の絶対的権力者であった江戸幕府の滅亡につながった鳥羽・伏見の戦いについて、その発生の経緯から見ていきたいと思います。 “【鳥羽・伏見の戦い】旧幕府軍が朝敵となった戊辰戦争の初戦” の続きを読む
沖田畷の戦い(おきたなわてのたたかい)は、天正12年(1584)3月24日に肥前島原半島(現在の長崎県)で発生した戦いです。
戦国時代末期に、九州で覇を唱えた龍造寺軍と島津軍とが激突し、龍造寺軍の大将である龍造寺隆信が討ち取られるという前代未聞の結果で終わった合戦として有名です。
龍造寺家が没落し島津家が九州の覇者となった戦いでもあります。
本稿では、そんな九州の趨勢を決めた世紀の一戦である沖田畷の戦いについて、その発生に至る経緯から見ていきたいと思います。 “【沖田畷の戦い】島津家久の釣り野伏により龍造寺隆信が討ち取られた合戦” の続きを読む
和田合戦(わだがっせん)は、建暦3年(1213年)5月2日に和田義盛が北条義時打倒を掲げて起こした反乱です。
直接の引き金は直前に起こった泉親衡の乱だったのですが、それまでの北条家の横暴に耐え兼ねた和田義盛が爆発したというのが本当のところです。
合戦では、当初は和田軍が有利に進んでいたのですが、北条義時・大江広元の策略や、主家にあたる三浦義村の裏切り行為などによって敗れ、最終的には和田義盛の討死と、和田一族の事実上の滅亡という結果に終わっています。
また、この合戦の勝利により、北条義時の執権体制がより強固なものとなり、独裁への道を進んでいくこととなります。 “【和田合戦】北条義時の挑発で挙兵し敗れた和田義盛の反乱” の続きを読む
承久の乱(じょうきゅうのらん)は、承久3年(1221年)に、後鳥羽上皇が鎌倉幕府執権であった北条義時討伐の兵を挙げたところ、北条義時個人ではなく鎌倉幕府を挙げての反抗が起こって後鳥羽上皇が敗れた戦いです。
朝廷が朝敵に敗れた初めての戦いであり、それによって朝廷が事実上武士の軍門に下り名目的存在に成り下がった戦いでもあります。
本稿では、朝廷・公家階級が無力化し、以降武士が国家の実効支配権(行政権、立法権、司法権)を奪取するに至った一大クーデターである承久の乱について、その発生に至る経緯から説明していきたいと思います。 “【承久の乱】後鳥羽上皇が北条義時に敗れ公武のパワーバランスが逆転した合戦” の続きを読む
郡山合戦は、天文9年(1540年)から天文10年(1541年)にかけて安芸国の毛利家の居城であった吉田郡山城付近において勃発した、尼子対大内という二大勢力の覇権を巡る一連の戦いです。
大内家方で主に戦ったのが毛利元就であり、合戦が毛利元就の居城であった吉田郡山城の近くで行われたため、この名が付けられました。なお、尼子軍が吉田郡山城を攻めた事実はありませんので、厳密には吉田郡山「城」の戦いと表記するのは誤りなのですが、一般に吉田郡山城の戦いと呼ばれることが多いので、本稿の表題にもカッコ書で吉田郡山城の戦いと付記しておきました。
この戦いによって、毛利元就の軍略によって尼子家の勢力が安芸国から一掃されることとなり、勢力拡張を続けていた尼子家に待っがかかるというターニングポイントとなった重要な一戦となりました。 “【郡山合戦(吉田郡山城の戦い)】毛利元就が大内軍と共に尼子軍を撃破した戦い” の続きを読む
後三年の役(ごさんねんのえき)は、平安時代後期に陸奥・出羽(東北地方)を治めていた清原氏の家督を巡って勃発した一連の壮大な内紛(兄弟喧嘩)です。後三年合戦ともいいます。
前九年の役の後に奥羽一帯を支配した清原氏が滅亡し奥州藤原氏が登場するきっかけとなった戦いでもあり、源義家が源氏の名声を高めて後に玄孫の源頼朝による鎌倉幕府創建の礎となった合戦ともいわれています(余談ですが、永保3年/1083年から寛治元年/1087年にかけての4年間の戦役であったにもかかわらず、後「三年」という謎のネーミングがなされています。)。
本稿では、この後三年の役について、その発生に至る経緯から順に説明していきたいと思います。 “【後三年の役】清原氏が滅亡し奥州藤原氏が登場する契機となった戦い” の続きを読む