【日露戦争後の日露関係】日露戦争後に親密になった日本とロシア

朝鮮半島・満州を巡る軍事的な緊張が高まった結果、明治37年(1904年)、日本とロシアとの間で日露戦争が勃発します。

この戦争では、大きな陸戦・海戦が何度も起こり、日露双方に多くの犠牲者が出ます。

当然ですが、犠牲者1人1人に家族がおり、戦争の結果、日露双方に相手方に対する悪感情が爆発するはずです。

ところが、意外なことに、日露戦争終結後に日露関係は急速に改善し、同盟関係といえるほどの親密な関係となります。

これは、日露戦争後にアメリカが満州にちょっかいをかけてきたのですが、これが日本とロシア双方の利益を脅かすものであったため、日露が協力して対応しようというところから両者の接近が始まりました(共通の敵がいると仲良くなるということです。)。

本稿では、この日露戦争後の日露関係について、詳しく説明していきたいと思います。 “【日露戦争後の日露関係】日露戦争後に親密になった日本とロシア” の続きを読む

【三貨制度】江戸幕府の金貨・銀貨・銭貨流通体制について

三貨制度とは、江戸時代に日本で採用された金・銀・銭を基本とする貨幣制度です。

もっとも、同一地域で金貨・銀貨・銭貨が併用されたわけではなく、西日本では銀貨+銭貨、東日本では金貨+銭貨で商取引が行われており、これらを総称して三貨制度といいます(なお、江戸幕府が三貨制度という認識をもっていたわけではなく、三貨制度とは現在から当時を顧みた際に用いる用語です。実際、三貨という用語も文化12年/1815年に両替屋を営んでいた草間直方が刊行した「三貨図彙」に始まります。)。

全国統一政権を樹立して貨幣発行権を得た江戸幕府でしたが、商人の商慣習を変更させることができず、日本国内に金貨経済圏と銀貨経済圏という2つの異なる制度を作ってしまったことから、複雑な貨幣システムとなってしまいました。

また、金貨・銀貨・銭貨の交換比率についても、触書による御定相場が存在したものの、実際には変動相場により取引がなされており、その結果として両替商が発展する基となりました。 “【三貨制度】江戸幕府の金貨・銀貨・銭貨流通体制について” の続きを読む

【幕末日米交渉史】突然の出来事ではなかったペリーの黒船来航

1853年に江戸湾に来航したことにより日本の歴史を変えたのが、アメリカ合衆国東インド艦隊司令長官ペリー率いる4隻の黒船艦隊です。

ペリーが圧倒的な軍事力に基づく砲艦外交により江戸幕府に開国を迫り、江戸幕府がこれに屈したことにより江戸幕府が滅亡に向かうと共に、その後の不平等条約締結へ向かっていくこととなった歴史はあまりにも有名です。

黒船来航により一気に歴史が動き始めたため、アメリカ合衆国の艦隊がこの頃に突然日本にやって来たようなイメージを持たれがちなのですが、全くそんなことはありません。

アメリカは、ペリーが来航する15年以上前から何度も日本との「友好的な付き合いを求めて」日本に来航していました。

ところが、日本側がこのアメリカ側の有効的アプローチに対し、無警告砲撃を行うなど、現在の認識からするとおよそあり得ない方法でこれを拒否し続けたことからアメリカ側が態度を硬化させ、ついに強硬手段に出ることとなったという歴史的経緯があります。

本稿では、 ペリー来航以前のアメリカ側のアプローチと、それに対する日本側の対応の経緯について、簡単に説明していきたいと思います。 “【幕末日米交渉史】突然の出来事ではなかったペリーの黒船来航” の続きを読む

【佐賀藩政改革】幕末日本最先端の科学技術集団となった経緯

薩長土肥という幕末に雄藩の1つとして、明治維新を推進すると共に、明治新政府においても主要官職に人材を供給した佐賀藩(肥前藩)ですが、他の3藩(薩摩藩・長州藩・土佐藩)に比べるとその知名度は大きく落ちます。

それどころか、なぜ佐賀藩が雄藩の1つに入っているのか疑問に思われる方も多いのではないでしょうか。

実は、佐賀藩は、10代藩主鍋島直正の下で幕末最強の科学技術力を獲得し、それにより得た軍事力を供して明治維新成功に大きく貢献しているのです。作家の司馬遼太郎は、明治維新は一足先に佐賀藩で達成されたとまで述べています。

もっとも、佐賀藩がこのような突出した科学技術力を獲得するに至るまでには苦難の歴史がありました。

そこで、本稿では、佐賀藩が明治維新の原動力となった強力な科学技術力を得るに至る経緯について、簡単に説明していきたいと思います。 “【佐賀藩政改革】幕末日本最先端の科学技術集団となった経緯” の続きを読む

【江戸時代後期のロシアの日本接近】

ペリー来航により外圧によって強制的に終了させられた江戸幕府の鎖国体制ですが、その前兆となる事件は相当前から起こっていました。

長崎・対馬・薩摩・松前という4つの対外窓口において、オランダ・中国・朝鮮・琉球・アイヌに限って対外貿易を認めていた江戸幕府に対し、18世紀後半頃からシベリア開発を本格化させたロシア帝国が貿易を求めてきていたのです。

そして、実際に18世紀後半頃から蝦夷地にロシア船が頻繁に現れるようになり、紳士的対応で国交を求めてきたため、江戸幕府としてはその対応が迫られる事態に発展していきます(これに対し、江戸幕府が無礼を働いたために大問題に発展しています。)。

本稿では、日本開国に先立つロシアの日本接近について、そこに至る経緯、それに対する江戸幕府の対応などについて順に説明していきたいと思います。 “【江戸時代後期のロシアの日本接近】” の続きを読む

【日清戦争の戦略目標は何だったのか】

日清戦争は、明治27年(1894年)7月25日に勃発した日本と清国の間の戦争なのですが、何を目的として起こったかについては意外に知られていません。

全ての戦争が外交の延長上にあるものであって達成すべき戦略目標(政治目標)があり、当然日清戦争にもそれがあります。

では、日本と清国は何を求めて戦ったのでしょうか。

結論から先に述べると、宗主国として朝鮮を単独で支配したい清国と、朝鮮を清国の支配下から独立させて自らの支配下に置きたい日本との間における朝鮮半島を巡る利権が双方の目的です。

そして、この朝鮮半島の権益を巡る日清の野望が李氏朝鮮政権下で起こった甲午農民戦争をきっかけとして具体化し、朝鮮半島に駐留するに至った両軍が衝突することで大きな戦争に至ったのです。

本稿では、この日清戦争に至る日清両国の目的及びそこに至る経緯について、日清両国の朝鮮半島に対する支配意図を主たる内容として説明していきたいと思います。 “【日清戦争の戦略目標は何だったのか】” の続きを読む

【韓国併合に至る経緯】清国冊封下にあった朝鮮が日本に併合されるまで

明治維新を成功させた日本では、幕末期に江戸幕府が締結した不平等条約改正を目標として富国強兵政策を進めたのですが、それと並行して周辺国に対する圧力を強めて行きました。

明治時代の日本は、北海道・琉球・千島などを次々と取り込んでいったのですが、さらに大陸進出への野心をもってその橋頭堡となりうる朝鮮や台湾の獲得を目指していきました。

このうち、朝鮮に対しては、清国の冊封下から離脱させた上で、不平等条約を押し付けて日本が優位な立場にあることを示し、その後3度に及ぶ日韓協約によって外交・財政・内政を順に剥奪して保護下に置くという経過を経た後、明治43年(1910年)8月についにこれを併合してしまうに至りました。

本稿では、以上の明治維新後から韓国併合に至るまでの経緯について、簡単に説明していきたいと思います。 “【韓国併合に至る経緯】清国冊封下にあった朝鮮が日本に併合されるまで” の続きを読む

【明治維新後の条約改正交渉】明治時代の日本政府の外交政策

本稿で取り上げる条約改正交渉は、江戸時代末期に江戸幕府が欧米列強諸国との間で締結した不平等条約について、これを対等なものに是正するために明治新政府が行った一連の外交交渉です。

具体的には、不平等条約締結直後から、陸奥宗光による明治27年(1894年)の領事裁判権撤廃(第一次条約改正)を経て、小村壽太郎による明治44年(1911年)の関税自主権回復(第二次条約改正)までの交渉をいいます。

以下、不平等条約締結から、その解消に至るまでの流れについて紹介していきます。 “【明治維新後の条約改正交渉】明治時代の日本政府の外交政策” の続きを読む

【統帥権干犯問題】海軍軍令部暴走の端緒となった政争

統帥権干犯問題は、昭和5年(1930年)のロンドン海軍条約の批准をめぐり、ときの与党であった立憲民政党党首として首相を務めていた濱口雄幸が、海軍軍令部と野党であった政友会から統帥権の侵害行為であるとして糾弾された問題です。

本来であれば条約の締結・批准は、内閣(行政権)が決定すべき事項であり、決定権を持たない海軍軍令部が内閣を糾弾する権利はありません。

そのため、海軍軍令部による糾弾は法的には単なる言いがかりに過ぎず、本来であれば、無視されて終わるはずだったのですが、この問題を、立憲政友会が立憲民政党を攻撃するための根拠として利用したことから政治問題化し大問題となったのです。

そして、海軍軍令部は、野党とはいえ帝国議会内に自分たちの主張を擁護する後ろ盾を得たと考え、この主張を押し通すための暴走を始めるきっかけとしたのです。

その結果、以降、軍部の暴走と日本の軍国主義化が始まりました。

今になって振り返ってみれば、政争が軍部の台頭と暴走を誘発し、結果として戦争に突き進んで国を滅ぼすきっかけを作った事件として現在でも学ぶべきことが多い事件です。 “【統帥権干犯問題】海軍軍令部暴走の端緒となった政争” の続きを読む

【御三卿】紀伊徳川系で徳川将軍家を承継する目的で創設された分家

御三卿(ごさんきょう)は、江戸時代中期の第8代将軍・徳川吉宗と、第9代将軍・徳川家重の子によって創設された徳川将軍家の一門家です。

紀伊徳川家出身の徳川吉宗が、ライバルである尾張徳川家の影響力を低下させるために創設されたと考えられており、徳川宗武(徳川吉宗三男)を家祖とする田安徳川家、徳川宗尹(徳川吉宗四男)を家祖とする一橋徳川家、徳川重好(徳川家重次男)を家祖とする清水徳川家がこれに該当します。

御三家に次ぐ高い家格を持つとしながらも当初は大名として藩を形成することも政治権力を持つこともなく、将軍の親族でありながら将軍家の部屋住みとして扱われ、将軍家や親藩大名家に後継者がない場合に養子を提供することを主な役割とするに過ぎない家でした。

もっとも、幕末期には幕政にも関与するようになり、江戸幕府最後の将軍である第15代将軍・徳川慶喜が一橋家から輩出されたことでも知られています。 “【御三卿】紀伊徳川系で徳川将軍家を承継する目的で創設された分家” の続きを読む