【遣隋使・遣唐使】時期によって派遣目的が異なる遣使団

遣隋使と遣唐使は、いずれもヤマト政権が、先端技術や制度を学ぶなどの目的のために中国に派遣した朝貢使のことであり、中国が隋王朝の時代に派遣されたのが遣隋使、唐王朝時代に派遣されたのが遣唐使です。

遣隋使派遣の1世紀前にも倭の五王による朝貢記録があるのですが、そのときとは異なり、遣隋使・遣唐使は冊封を受けない対等外交であったという点に違いがあります。

遣隋使・遣唐使は、正式な外交使節や国家の許可を受けた者以外の海外渡航を禁止するという渡海制(とかいせい)を採用していたヤマト政権(古代日本)の下で、中国の最先端技術や文化を持ち帰ったという共通成果をもたらしてはいるのですが、その派遣目的はときの東アジア情勢の変化に対応して異なっていますので、時期毎の目的を理解することが重要です。

以下、遣隋使・遣唐使派遣の経緯・目的・その成果などについて、簡単に説明していきます。 “【遣隋使・遣唐使】時期によって派遣目的が異なる遣使団” の続きを読む

【五畿七道】ヤマト政権による地方統治目的の情報伝達ルート

五畿七道(ごきしちどう)とは、古代日本の律令制時代の日本において、政治の中心地であった都城及びその周辺地域から地方に向かって放射線状に伸びていた道と、そこから派生してその道を含む各国の地方行政区画を指す言葉です。

飛鳥時代の後期から奈良時代の初期頃の天武天皇・持統天皇治世期に、天皇を中心とする中央集権的国家体制確立を目指す律令制度整備の一環として配されました。

日本全国を国に分け、都(難波宮、平城宮、平安宮)周辺を五畿(畿内)、それ以外の地域を七道のいずれかに配置して区分され、後の様々な制度の基礎となっています。

そして、この行政区画としての五畿七道は、江戸時代になっても変更がなされることはなく、その後現在に至る日本各地の地方名の由来となっています。 “【五畿七道】ヤマト政権による地方統治目的の情報伝達ルート” の続きを読む

【国分寺・国分尼寺】国家鎮護寺院の歴史とその一覧

国分寺は、天平13年(741年)、仏教による国家鎮護のため、ときの天皇であった聖武天皇の命(国分寺建立の詔)により当時の日本の各国に建立された寺院です。

国分寺建立の詔に基づいていますが、広義では、国分寺(僧寺・金光明四天王護国之寺)のみならず、国分尼寺(尼寺・法華滅罪之寺)も含まれます。

本稿では、国分寺・国分尼寺が建立されるに至った経緯、その一覧、現状について簡単に説明したいと思います。 “【国分寺・国分尼寺】国家鎮護寺院の歴史とその一覧” の続きを読む

【岩倉使節団】明治新政府の遣唐使

岩倉使節団(いわくらしせつだん)は、明治維新期の明治4年(1871年)11月12日から明治6年(1873年)9月13日まで、欧米列強諸国計12ヶ国を歴訪した使節団です。

岩倉具視を特命全権大使とし、首脳陣や留学生を含む100名を超える大集団で構成されました。

訪問先の欧米各国で視察した議会・銀行・工場・病院・学校などの近代設備を学び、それを日本に持ち帰ったという意味で日本近代化の原点として明治政府の国家建設に大きな影響を与えた一団であり、その大きな効果から、日本の歴史上でも遣唐使に比すべき意味をもつ使節とも言われています。 “【岩倉使節団】明治新政府の遣唐使” の続きを読む

【藤原京】都城制・条坊制を備えた日本初の都

藤原京(ふじわらきょう)は、現在の奈良県橿原市と明日香村にかかる地域にあった飛鳥時代の都城です。

壬申の乱により即位した天武天皇によって計画され、その妻である持統天皇の時代に完成しています。

それまで天皇が変わるたびに遷都していた習慣を改めて恒久的な都とするために計画された唐風の都であり、日本史上初めて都城制・条坊制が採用された革新的な都でした。

また、その規模は、後の平城京や平安京よりも大きなものであり、ヤマト政権の首都として長年に亘って統治の中枢となる予定だったのですが、実際には3代の天皇というわずか16年でその役割を終えてしまいました。 “【藤原京】都城制・条坊制を備えた日本初の都” の続きを読む

【江戸幕府の宗教統制】信仰心の薄い多くの日本人が仏教徒とされている理由

日本人の多くは仏教徒と言われています。

もっとも、著者を含めて多くの日本人の仏教信仰は決して強いものではなく、一言で仏教徒といっても他の宗教を信じる人から見ると無神論者と呼べる程度の薄い信仰の人が多いように見受けられるため、仏教徒と呼んでいいかという点に疑問が生じます。

なぜ、このような薄い信仰心しか持っていないにも関わらず、多くの日本人が仏教徒ということになっているのでしょうか。

実は、その原因は、江戸幕府による宗教政策にあります。

より具体的にいうと、江戸幕府が、より安価かつ簡便に民衆を統制する手段として、全ての一般民衆をいずれかの寺(末寺)の檀家にし、その末寺を本山が、その本山を江戸幕府が管理する制度を整えました。

これの制度により、江戸幕府は簡便な民衆・寺院統制手段を、本山は末寺に対する人事権・上納金徴取権を、末寺は民衆からの上納金徴取権を得ることに成功し、それぞれが大きな利益を得たのです。

他方、これらにより日本仏教の世俗化が進み、現在のような信仰心の薄い仏教徒出来上がるに至っています。

本稿では、これらの歴史的経緯について簡単に説明していきたいと思います。 “【江戸幕府の宗教統制】信仰心の薄い多くの日本人が仏教徒とされている理由” の続きを読む

【白村江の戦い敗北後のヤマト政権の国防策】

618年に建国された中国王朝の唐は、建国直後から朝鮮半島への軍事的野心を示し、朝鮮半島北部の高句麗と対立すると共に、朝鮮半島南部新羅と組んでその他地域の侵攻を試みます。

この結果、7世紀の朝鮮半島は、唐からの軍事侵攻にさらされる戦いの世紀となったのです。

そして、この唐と朝鮮半島諸国家との戦いに、朝鮮半島南部国家であった百済からの援軍要請に応じたヤマト政権(倭国)も参戦します。

もっとも、海を渡ったヤマト政権軍は、白村江の戦いで唐・新羅軍に大敗し、朝鮮半島内の拠点を全て失って倭国(日本)に逃げ帰ります。

それだけなら良かったのですが、超大国である唐に喧嘩を売ったヤマト政権としては、その報復として唐・新羅連合軍からの侵略の危機に晒されるという、国家存亡の危機を迎えることとなったのです。

そこで、ヤマト政権は、この後に内政・軍事・外交というあらゆる面でその対策に追われることとなってしまいました。

本稿では、白村江の戦いの敗戦後にヤマト政権が、迫り来る唐・新羅軍の侵攻の脅威に備えてどのような対策を取ったのかについて説明していきたいと思います。 “【白村江の戦い敗北後のヤマト政権の国防策】” の続きを読む

【鎌倉時代の東大寺再建】南都焼討後の再建について

奈良時代創建された当初の東大寺は、唐の文化を受けた天平文化を色濃く反映した伽藍でした。

ところが、平家による焼き討ちに遭った後、鎌倉時代に復興した東大寺は、それまでの伽藍に復元することはせず、新たに南宋の文化を色濃く反映した大仏様(天竺様)の伽藍に変更されて再建されました。

本稿では、平安時代末期に創建当初の東大寺が焼失するに至った経緯と、鎌倉時代初期の再建事業・再建内容について簡単に見ていきたいと思います。 “【鎌倉時代の東大寺再建】南都焼討後の再建について” の続きを読む

【鎌倉仏教の興り】貴族の特権から民間信仰に変遷した仏教革命

鎌倉仏教は、鎌倉時代初期、比叡山延暦を下りた幾人かの高僧によって開かれた一般庶民・武士向けの仏教です。

それまでの仏教は、国家の判断によって導入された皇族・貴族の特権的文化であったのですが、鎌倉仏教では、これを易行・選択・専修を特色とする「簡単な修行を1つだけ選びそれだけを行えば足りる」とすることで一般大衆に門戸を開き、日本全国への爆発的な普及のきっかけとなりました。

この鎌倉仏教の広がりは、大きく分けると他力本願を是とするグループと、自力本願を是とするグループという2つの派閥で広がっていき、他力本願グループは主に庶民層に、自力本願グループは主に武士階級の支持を得ました。

そして、他力本願を是とするグループでは法然・親鸞・一遍・日蓮などを開祖とする宗派が生まれ、自力本願をとするグループでは栄西・道元などを開祖とする宗派が生まれています。

本稿では、この皇族・貴族から庶民・武士へと担い手が変化するに至った革命的ともいえる鎌倉仏教について、その成立に至る経緯から簡単に説明したいと思います。 “【鎌倉仏教の興り】貴族の特権から民間信仰に変遷した仏教革命” の続きを読む

【市中引き回し刑(大阪編)】江戸時代大坂での見せしめ刑の実体と引き回しルートについて

市中引き回し(しちゅうひきまわし)は、江戸時代の日本で行われた、死罪以上の判決を受けた罪人が受ける付加刑でした(独自の刑罰ではなく、あくまでも付加刑です。)。

死罪以上の判決を言い渡された者が馬に乗せられ、罪状を書いた捨札等を持ったものと共に刑場まで連れられて行くという公開連行制度(見せしめ)であり、抑止的効果をも狙ったものでした。

市中引き回しは、元々江戸幕府将軍のお膝元であった江戸で行われた刑罰だったのですが、豊臣家が滅んで大坂が徳川家の直轄地になると、ここを西国統治の拠点と定めた江戸幕府が大坂に江戸の統治システムを持ってきます。

その結果、大坂でも江戸で行われていたものと同様の刑罰システムが採用され、その一環として市中引き回しも採用されることとなったのです。 “【市中引き回し刑(大阪編)】江戸時代大坂での見せしめ刑の実体と引き回しルートについて” の続きを読む