【四等官制】律令制度における官僚制度

律令制度では、「律」によって刑罰を、「令」によって政治機構等を定めることにより軍事政権の中心人物たる天皇による中央集権化が進められました。

そして、「令」の整備によって、行政官庁の再編を行った上で、それまで各豪族に任せられていた政治権力を朝廷に一旦吸い上げこれを朝廷が該当人に任命するという形で官僚制度が整備されていきました。

このとき、行政官庁の再編として中央では二官八省一台五衛府が整備され、そこに勤める役人は行政官庁毎に4人の幹部が置かれて序列化されました。

また、あわせて地方の行政官庁の整備もなされたのですが、ここでも行政官庁毎に4人の幹部が置かれて序列化されました。

このように各行政官庁の幹部行政官は、いずれも4人が選任されたことから四等官制(しとうかんせい)と呼ばれました。

そして、この四等官は、いずれも長官(かみ)・次官(すけ)・判官(じょう)・主典(さかん)と呼ばれたのですが、官庁ごとに違う漢字があてられるというとても覚えにくい用語となっています。

なお、この四等官には、位階に応じて割当てがなされましたので(官位相当の制)、そのこともあわせて覚えると理解が進みます。 “【四等官制】律令制度における官僚制度” の続きを読む

【遣隋使・遣唐使】時期によって派遣目的が異なる遣使団

遣隋使と遣唐使は、いずれもヤマト政権が、先端技術や制度を学ぶなどの目的のために中国に派遣した朝貢使のことであり、中国が隋王朝の時代に派遣されたのが遣隋使、唐王朝時代に派遣されたのが遣唐使です。

遣隋使派遣の1世紀前にも倭の五王による朝貢記録があるのですが、そのときとは異なり、遣隋使・遣唐使は冊封を受けない対等外交であったという点に違いがあります。

遣隋使・遣唐使は、正式な外交使節や国家の許可を受けた者以外の海外渡航を禁止するという渡海制(とかいせい)を採用していたヤマト政権(古代日本)の下で、中国の最先端技術や文化を持ち帰ったという共通成果をもたらしてはいるのですが、その派遣目的はときの東アジア情勢の変化に対応して異なっていますので、時期毎の目的を理解することが重要です。

以下、遣隋使・遣唐使派遣の経緯・目的・その成果などについて、簡単に説明していきます。 “【遣隋使・遣唐使】時期によって派遣目的が異なる遣使団” の続きを読む

【五畿七道】ヤマト政権による地方統治目的の情報伝達ルート

五畿七道(ごきしちどう)とは、古代日本の律令制時代の日本において、政治の中心地であった都城及びその周辺地域から地方に向かって放射線状に伸びていた道と、そこから派生してその道を含む各国の地方行政区画を指す言葉です。

飛鳥時代の後期から奈良時代の初期頃の天武天皇・持統天皇治世期に、天皇を中心とする中央集権的国家体制確立を目指す律令制度整備の一環として配されました。

日本全国を国に分け、都(難波宮、平城宮、平安宮)周辺を五畿(畿内)、それ以外の地域を七道のいずれかに配置して区分され、後の様々な制度の基礎となっています。

そして、この行政区画としての五畿七道は、江戸時代になっても変更がなされることはなく、その後現在に至る日本各地の地方名の由来となっています。 “【五畿七道】ヤマト政権による地方統治目的の情報伝達ルート” の続きを読む

【国分寺・国分尼寺】国家鎮護寺院の歴史とその一覧

国分寺は、天平13年(741年)、仏教による国家鎮護のため、ときの天皇であった聖武天皇の命(国分寺建立の詔)により当時の日本の各国に建立された寺院です。

国分寺建立の詔に基づいていますが、広義では、国分寺(僧寺・金光明四天王護国之寺)のみならず、国分尼寺(尼寺・法華滅罪之寺)も含まれます。

本稿では、国分寺・国分尼寺が建立されるに至った経緯、その一覧、現状について簡単に説明したいと思います。 “【国分寺・国分尼寺】国家鎮護寺院の歴史とその一覧” の続きを読む