石山本願寺(いしやまほんがんじ)は、戦国時代に戦国大名に匹敵する勢力を誇った浄土真宗本願寺派が、摂津国東成郡生玉荘大坂(現在の大坂城所在地)に本山として構えた寺院です。
その前の拠点であった山科本願寺が法華一揆・六角連合軍に焼き払われて信仰の中心を失ったことへの反省から、本山の本願寺を中心として、堀と土塁で取り囲まれた寺内町で防衛し、さらにその外側に51もの支城を張り巡らせて防衛する城構え構造(城郭寺院)で成立しました。
その防衛力は強く、織田信長が10年の歳月をかけても攻め落とせなかった城としても有名です。
なお、当時は大坂本願寺と呼ばれており、江戸時代に入るまでに石山本願寺と呼ばれていた事実は確認できていないのですが、本稿では便宜上石山本願寺の名称で統一します。
【目次(タップ可)】
石山本願寺建築の経緯
浄土真宗の興り
本願寺は、親鸞が開いた鎌倉仏教の1つである浄土真宗本願寺派の寺院です。
浄土真宗開祖である親鸞自身には独立開宗の意思は無かったと言われており、浄土往生を説く浄土宗開祖の法然に師事し、真実の教えを継承・展開させたことを生涯の喜びとしていました。
そのため、各地に簡素な念仏道場を設けて教化する形をとりはしたものの、親鸞が独自の寺院を持つことはありませんでした。
そのため、親鸞が浄土真宗教団を設立しようとしたことを示す記録はなく、親鸞自身が浄土真宗と名乗ったこともありません(浄土真宗の宗旨名が用いられるようになったのは親鸞没後)。
本願寺教団の巨大化
肉食妻帯が認められた浄土真宗では、開祖の血族が存在することとなり、この開祖血族と、開祖の高弟との間で対立が生じていきました。
このうち、浄土真宗(本願寺)法主の座は、親鸞血統と親鸞祖廟(大谷廟堂)を手にする一族によって継承されることとなり、覚如が、元亨元年(1321年)に浄土真宗を寺格化し、元弘元年(1331年)に「口伝鈔」を記して「三代伝持の血脈」を表明し、法灯継承を主張しました(【法脈】法然⇒親鸞⇒如信⇒覚如・【血統】親鸞⇒覚信尼⇒覚恵⇒覚如)。
そして、その上で、覚如は、親鸞を宗祖・開祖、如信を本願寺第2世とした上で、自らを本願寺第3世に定めます。
他方、親鸞の高弟たちは、親鸞の死後、親鸞血族間の争いを尻目に血族集団から離れて次々と独立し、自ら教えを広める独自の教団を設立していきました。
その後、長禄元年(1457年)6月に本願寺第8世となった蓮如が、比叡山の圧力に屈して京を出て、親鸞の足跡を追って全国行脚をしながらの布教活動を行い、文明3年(1471年)に越前国吉崎に御坊を開いた後、文明10年(1478年)1月に山科に入って本願寺造営に着手します。
そして、浄土・聖道諸宗の僧俗を次々と帰依させ、浄土真宗多宗派を次々と吸収することによって本願寺教団を巨大化させていきます。
山科本願寺落成(1483年8月22日)
文明15年(1483年)8月22日に山科本願寺が落成し、本願寺の再興が成ります。
再興された山科本願寺には参詣人や各職種の人たちが集うようになり、またそれらを目当てにした寺内町が形成された結果、山科は京市中を上回る賑わいを見せるようになります。
大坂御坊建立(1497年4月)
山科本願寺完成を見届けた蓮如は、延徳元年(1489年)に5男の実如に本願寺法主の座を譲り渡し、自身は山科本願寺南殿に隠居します。
その後、高齢となった蓮如は、教団から離れて余生を過ごすため、当時はまだ寒村であった摂津国東成郡生玉荘大坂に移り、堺の町衆、摂津、河内、和泉、北陸の門徒衆の援助を得て隠居所となる「大坂御坊」(後の大坂本願寺)を建立し、明応6年(1497年)4月に同寺に入ります。なお、大坂御坊建立以前の同地は生国魂神社の境内であったのですが、現在地である上町台地西麓に遷座されています。
以上の結果、蓮如の隠居所となった大坂御坊でしたが、その周囲に蓮如を慕った人が集まって坊舎が立ち並ぶようになり、またそれを門戸を目当てとする商売人までもが集まり、大坂御坊付近が次第に賑わいを見せていくようになりました。なお、「大坂」という地名の初見は、蓮如が作成し明応7年(1498年)11月21日付で門徒に送った御文章(大坂建立章・4帖第15通)とされています。他方で、なぜ「石山」と呼ばれるようになったのかは不明であり、拓かれた直後の大坂御坊の風景が近江国・石山に似ていたから、または土中に礎石に使える石があったからなどとも言われるも理由は明確になっておりません。
以上のとおり拡大していく大坂御坊の周りは、やがて6町の寺内町(六町の構)となり、そこの周囲に土塁と堀を巡らせた防衛構造を持つようになりました。
飯盛城の戦い参戦(1532年6月)
他方、山科に残った山科本願寺は、大永5年(1525年)2月2日に本願寺第10世となった証如が、周囲の戦国大名とも積極的に関わっていくという本願寺拡大路線とっていき、後に山科本願寺を失うきっかけとなった戦乱に加担していきます。
具体的な経緯は、以下のとおりです。
河内国を支配するに至った畠山義堯が、守護代の木沢長政に命じて飯盛山に飯盛山城を築城したのですが、木沢長政が守護の畠山義堯から守護職を奪い獲る企てをしていることが発覚します。
怒った畠山義堯は、三好勝宗の助力を得て、享禄4年(1531年)8月から飯盛山城を攻めますが、細川晴元の助力を得た木沢長政の籠る飯盛山城をなかなか攻略できませんでした。
他方、防衛側の木沢長政もまた、畠山義堯らを追い返すまでには至らず、細川晴元が、飯盛山城解放が困難と判断し、山科本願寺法主であった証如に一揆軍の蜂起を要請します。
本願寺では、先代であった実如の遺言である「諸国の武士を敵とせず」という禁があったのですが、まだ17歳であった若き証如が、畠山義堯方の三好元長が本願寺のライバルであった法華宗に肩入れしていることを問題視し、その相手方である木沢長政・細川晴元方につくことを決めてしまいます。
そして、証如は、享禄5年(1532年)6月5日、山科本願寺から大坂に移動した上で、摂津国・河内国・和泉国にいる本願寺門徒に動員をかけ、この動員要請に3万人もの門徒が立ち上がり、同年6月15日、飯盛山城攻撃軍を背後から襲い、飯盛山城を解放します。
天文の錯乱
ところが、法華宗と三好元長に勝利した後も本願寺一揆軍の蜂起は収まらず、浄土真宗を信じる門徒たちの中で法華宗以外の仏教宗派も追放すべきだとする声が次第に大きくなり、証如や蓮淳などの本願寺指導者の静止命令を無視して独自の行動を取り始めてしまいます。
享禄5年(1532年)7月10日には、大和国の富商であった橘屋主殿・蔵屋兵衛・雁金屋民部らが1万の一揆を指導し、興福寺の被官ながら大和国内で戦国大名化しつつあった筒井順興・越智利基を攻め滅ぼすべく興福寺に攻め寄せていきました。
このときの本願寺一揆勢の攻撃により、興福寺内の多くの伽藍が焼失し、また戦禍及んだ春日大社もまた略奪の対象となったのですが、攻撃自体は興福寺方に撃退されます。
また、南下した一揆勢は、越智氏が籠る高取城の攻撃したのですが、これもまた追い払われています。
畠山義堯・三好元長の排除のために本願寺を利用しようとした細川晴元でしたが、自らの予想に反して独自の動きを始めた本願寺一揆勢に危険を感じ、それまで敵対していた法華一揆と手を組んで一向一揆鎮圧(本願寺との手切れ)を決意します。
これに対し、細川晴元の変心を知った本願寺指導者の1人であった蓮淳が、細川晴元との徹底抗戦を決断してそれまでの一揆勢の行動を事実上追認し、本願寺と細川晴元・法華宗との全面対決に至ります。
山科本願寺焼失(1532年8月)
そして、享禄5年(1532年)7月28日、細川晴元方の木沢長政・茨木長隆らの策により山村正次に率いられた法華一揆勢が蜂起し、これに近江国守護である六角定頼が呼応します。
天文元年(1532年)8月7日、京に集結した法華一揆が、次々と京中の本願寺系寺院を攻撃し、さらに法華一揆・六角連合軍が、同年8月12日には、蓮淳の籠る大津・顕証寺を攻撃してこれを攻め落とします。
その後、同年8月24日早朝、勢いに乗る法華一揆・六角連合軍約3万人が山科本願寺への総攻撃を開始します。
水落から山科本願寺寺内町に突入した連合軍は、次々と寺内町に火を放ち、遂には本山にも火の手が及んで山科本願寺が炎上し陥落します(山科本願寺の戦い)。
大坂本願寺成立(1533年)
本拠地であった山科本願寺が廃墟となり、新たに本拠を求めなければならなくなった本願寺10世法主証如は、蓮如の隠居先として築かれた大坂御坊が淀川・大和川水系や瀬戸内海の水運の拠点である上、住吉・堺・和泉・紀伊・京・山陽方面のハブとなる陸上交通の要地でもあることに目をつけます。
また、石山御坊が、大阪平野の中にある上町台地の北端に位置しており、その北部・東西が川と湿地帯に囲まれている天然の要害となっており、難攻不落の城といえる防御力を有していたことも魅力でした(このことは、後にここに築かれた大坂城を滅ぼすため、徳川家康が大変な苦労をしたことからもわかります。)。
そこで、本願寺10世法主証如は、本願寺の本拠地を石山御坊に据えて「大坂本願寺」と改称しすることなより本願寺教団の新たな本拠地とし、天文2年(1533年)7月25日に山科本願寺から持ち出した祖像を石山本願寺に鎮座することにより同寺の開山としました。
なお、石山本願寺へ移転した後も細川晴元と本願寺との戦いは続いていたのですが、天文4年(1535年)11月末に両者の間で和議が成立しています。
石山本願寺の縄張り
石山に入った本願寺は、山科本願寺を失うなどの甚大な被害を被ったことへの反省とし、軍事力強化を進めていきます。
まず、門徒を増やして経済力をつけて寺領を拡大するとともに、朝廷や戦国大名にも積極的に接近していきます。
次に、石山本願寺には、堀や土塁・石垣などを設置するなどして城塞化していきました。なお、天文日記・天文十年八月十一日条に暴風雨で寺中の櫓がことごとく倒れて5つしか残らなかった(自夜半計至今日已尅、暴風駛雨以外也。所々屋根共吹逃、松木等吹折、寺中之櫓悉吹倒之、只五相残。言語道断之次第也)と記載されており、このことから天文10年(1541年)の時点で石山本願寺内には相当数の櫓が存在する城郭構造となっていたことがわかります。
また、石山本願寺の周囲に「寺内町」を形成していき、これらを外曲輪とすることで更なる防衛力強化を図っていきました。
さらには、石山本願寺の周囲に51城に及ぶ支城を配し、支城ネットワークを駆使した強固な防衛システムを持っていました。
石山本願寺の立地
石山本願寺は、現在の大阪城近辺(本丸説・二の丸説・法円坂説あり)周辺にあったとされているのですが、前記のとおり、同地は淀川・大和川水系や瀬戸内海の水運の拠点である上、住吉・堺・和泉・紀伊・京・山陽方面のハブとなる陸上交通の要地にある上、大阪平野の中にある上町台地の北端の高台に位置しており、その北部・東西が川と湿地帯に囲まれた天然の要害となっていました。
寺域(内曲輪)
石山本願寺の寺域は、後に豊臣秀吉の大坂城が築城するに際して取り壊して埋められた上、その後さらに徳川大坂城がその上に盛り土がなされた上で築かれていますので、現在となっては往時の遺構はほとんど確認ができません。
そのため、石山本願寺の寺域(内曲輪)の構造はもちろん、その位置さえ定かではありません。
この点、石山本願寺の寺域(内曲輪)推定値としては、大きく分けると、大坂城本丸説・同二の丸説・法円坂説の3説が唱えられています。
なお、豊臣秀吉時代の大坂城本丸の6~7m下の地層から「永禄五天」=永禄5年(1562年)とのヘラ書きがなされた瓦が発掘されているところ、同年に石山本願寺が火災に遭っていることとも整合しますので、大坂城本丸説に理があるようも思われます。
寺内町(外曲輪)
太田牛一が記した信長公記には、加賀国から城造り職人を召し寄せて方八町で構築したと記載されており、石山本願寺寺内町は、8町四方(872m×872m、宇野主水日記によると7町×5町)の土地の中に、6町(南町・北町・西町・清水町・新屋敷・北町屋)・2000軒に及ぶ町屋が建ち並び、職人等の本願寺教団に繋がる一向宗門徒が居住する巨大都市に成長しました。
そして、各町には町衆から選ばれた年寄・宿老・若衆による自治的な運営がなされ、当時の最先端都市であった堺と並ぶ繁栄ぶりであったと言われています。
また、これらの寺内町は、本山である石山本願寺を中心にその周囲に濠や土塁で囲まれた寺内町を有する環濠城郭都市を構成していました。
なお、当然ですが、本願寺寺内町のみで石山本願寺を支えていたわけではなく、大阪平野に広がる大伴(富田林市)・大ケ塚寺内町(河南町)・塚口(尼崎市)・名塩(西宮市)・小浜(宝塚市)・富田(高槻市)・枚方(枚方市)・招提(枚方市)・久宝寺(八尾市)・貝塚(貝塚市)などの衛星寺内町ネットワーク(いわゆる「大坂並」)により社会体制が維持されていました。
支城
石山本願寺は、その周囲に51城に及ぶ支城を配し、これらの支城ネットワークを駆使した強固な防衛システムを持っていたとされています。
この支城ネットワークの全貌は不明ですが、信長公記や陰徳太平記において高津城・丸山城・ひろ芝城・正山城・森口表城・大海城・飯満城・中間村城・鴫野城・野江城・楼ノ岸城・勝曼城・木津城・難波城・本庄城などが挙げられています。
石山本願寺消滅
織田信長による圧力
石山本願寺を本拠地とする本願寺教団でしたが、永禄11年(1568年)に因縁の相手との接触が始まります。
足利義昭を奉じて上洛した織田信長が、上洛直後に本願寺に対して「京都御所再建費用」の名目で矢銭5千貫を要求してきたのです。
また、必ず真偽は不明ですが、元亀元年(1570年)正月には石山本願寺の明け渡しを迫ってきたと言われています。
これは、戦国期に至るまでに巨大化した宗教団体が、その信徒からお布施による上納金のみならず、荘園・関銭・金融業からなる莫大な経済力を得ており、その有り余る経済力から、軍事力・政治力を得ていたのですが、これらの富が宗教団体に集まるということは、富を吸い上げられた庶民がその分貧しくなることを意味します。
また、庶民が貧しくなるということは、その庶民を労働させて税を得る領主の取り分が減ることを意味します。
このことを問題視した織田信長が、自国の発展のために宗教団体と戦う道を選んだことによるものでした(信仰自体を禁じるような「宗教」との戦いではなく、信仰自体は問わない世俗化した「宗教団体」との戦いです)。
実際、石山本願寺の地が、京にほど近く、商都大阪という経済の中心地・交通の要衝地でもあるにもかかわらず、北・東・西の三方を湿地帯に囲まれた台地の上に建っており事実上南以外からは攻め込まれることがないという要害でもあるという、軍事的・経済的・政治的な面からまさに理想的な立地であり、これを本願寺に持たせておくわけにはいかなかったのです。
石山戦争
もっとも、本願寺側としても、石山本願寺はこの時点での本願寺門徒の信仰の本拠地ですので、このような要求を飲めるはずがありません。
他方、本願寺側も織田信長の巨大な軍事力を理解していますので、むげに拒絶すると攻め込まれる可能性もあり、織田信長の要求に対して究極の選択を迫られます。
そんな悩みに苛まれていた最中、浄土真宗本願寺派第11世・顕如は、一旦は阿波国に追い払われた三好三人衆が畿内に戻って野田城・福島城を建築し、織田信長に宣戦布告したとの報を聞かされます。
悩みぬいた顕如は、近衛前久の進言もあって、石山本願寺という信仰の地を守るため、三好三人衆と協力して織田信長と対立する道を選びます。
10年にも及ぶ石山合戦の始まりです。なお、この頃から、石山本願寺(大坂本願寺)は、石山御坊と呼ばれるようになっています。
石山本願寺焼失(1580年8月2日)
顕如による檄文による第1次挙兵、伊勢長島・越前などの同時蜂起に伴う第2次挙兵、本願寺包囲戦などを経つつ、本願寺側は顕如及びその子である教如を中心としつつ織田信長軍に対する徹底抗戦を続けます。
もっとも、織田軍の包囲によって陸上補給路が断たれ、また第二次木津川口の戦いにより海上補給路まで断たれた本願寺に勝ち目がなくなります。
その結果、本願寺内では、織田信長との講和目指す勢力(穏健派)が生まれ、徹底抗戦を主張する勢力(強硬派)と対立していくようになります。
この本願寺内の意見対立に苦慮しながらも、顕如は、織田信長との講和の道を選択し、天正8年(1580年)閏3月7日、朝廷を介した織田信長との講和に応じ、本願寺顕如ら門徒の石山本願寺退去などを約しました。なお、信長公記によると退去期限は7月20日であったとされています。
そして、顕如は、同年4月9日に、本願寺を嫡子で新門跡となった教如に引き継いで、紀伊鷺森御坊に退去しました。
ところが、本願寺に残った教如は、織田信長に対する徹底抗戦を主張して大坂本願寺に籠城し、顕如から義絶されてもその考えを変えませんでした。
もっとも、その後も状況が改善しなかったため、もはや籠城は困難と判断した教如は、天正8年(1580年)8月2日、大坂本願寺を織田信長に明け渡し、自身は雑賀に逃れます。
なお、このとき大坂本願寺において出火し、同寺は完全に焼失しています(教如方が火を放ったのかは不明です)。