徳川家康と豊臣秀頼が争い、豊臣家が滅亡するに至った大坂の陣は、冬と夏の二度に亘って戦われています。
このうち、最初の戦いである大坂冬の陣で、最も激しい戦いが行われたのが真田信繁が築き守った出城・真田丸です。
真田の名を全国に知らしめた余りにも有名な戦いであり、2016年の第55作NHK大河ドラマ「真田丸」の題材にもなっています。
本稿では、この真田丸について、建築(築城)に至る経緯から説明していきたいと思います。
【目次(タップ可)】
真田丸築城
真田丸の築城目的
方広寺鐘銘事件をきっかけとして、豊臣家取り潰しを決め、徳川家康軍約20万人が大坂城に向かって進軍していきます。
対する豊臣方でも、慶長19年(1614年)10月2日、旧恩の有る大名や浪人をかき集め、徳川家康との戦争準備に着手します。
そして、徳川軍が迫るの報を聞いた大坂方では、豊臣家宿老の大野治長らを中心とする籠城派と、浪人衆の真田信繁らを中心とする野戦派とで意見が対立したのですが、浪人の意見が宿老の意見を覆せるはずもなく、最終的には大坂城籠城策に決定します。
籠城策に決まった豊臣方では、堅固な大坂城に籠城することとし、その警戒・連絡線を確保するために大坂城外に複数の砦等を築きます。
この点、大坂城は上町台地の北端に位置し、北・東・西の三方を川(猫間川・平野川・大和川・淀川・東横堀川など)と、これらに起因する湿地に守られていたのですが、上町台地による高台となっている南側は、障害物も少なく、防衛力が他の三方と比べると大きく劣っていました。
当然、豊臣方としても、南側を防衛するために長大な堀を築いていたのですが、徳川家康の大軍を迎え討つには十分とはいえません。
そこで、大坂城の南側の守りを担うために築かれたのが真田丸です。
真田丸の立地
真田丸の築城にあたっては、防衛の劣る大坂城の南側のうち、特に地形の高低差が少なく惣堀の幅も狭い場所が選定されました。
ここには、南側の弱点を補う目的と、そこに出丸を築くことで敵の注意を引きつけ大坂城の真の弱点を見逃しやすくする目的がありました。
所在場所は、現在明星学園がある付近(北緯34度40分19.4秒 東経135度31分32.4秒)と考えられています。
また、真田丸の所在場所は、他の場所と比較するとやや防御力に劣るとはいえ、その背後には空堀を挟んで大坂城の総構があるため、補給や情報伝達は容易な位置にありました。
真田丸築城(1614年)
真田丸築城場所は、元々寺院が立ち並ぶ場所であり、真田信繁は、この寺院の構造物を巧みに利用して真田丸を築いています。
なお、真田信繁により築かれることとなった出丸が真田丸ですが、真偽は不明ですが、実際は、後藤又兵衛がここに馬出として「後藤丸」を築こうとして準備していたところに、真田信繁がその資材を勝手に撤去させて乗っ取ってしまったとの説もあります。
真田丸の縄張り等
真田丸の構造
真田丸は、大坂城の惣構の外(大坂城と真田丸との間には幅200mもの谷があります。)に築かれた台形に近い半円形の曲輪であり(諸国古城之図・大坂真田出丸・広島藩浅野家所有)、その規模は、南北220m×東西140mとも、南北270m余×東西280m余とも言われています。
真田丸内部は、上下2段に分かれて鉄砲で反撃できるように工夫され、石落としなども設置されました。
また、虎口を後方(北側)と両脇(東西)に設け、深さ8m・幅40〜45mもの巨大な空堀とその外側には三重の柵を張り巡らせていました。なお、西側出入口は惣堀に近い場所に設置されていたため、ここからの侵入を試みると、真田丸と惣構内からの十字砲火を受けることになります。
また、北側にはさらに真田丸自体の出城が築かれており、その規模とあわせ鑑みると、大坂城の出城というには壮大過ぎますので、独立した城と評価すべきかもしれません。
迎撃準備
真田信繁は、巨大な防衛曲輪となった真田丸の巨大な空堀で敵の足を止め、それを曲輪内から射撃で仕留めるとの作戦を立案します。
そのため、真田信繁は、真田丸に、多くの火縄銃に加えて、長さ2m・重さか20kgともいわれる大狭間筒(おおはざまづつ)を配備し、300mもの遠方からの射撃を可能にしていました(大坂冬の陣屏風図にも、3人掛で大狭間筒を扱っているところが描かれています。)。
真田丸の戦い
大坂城北側・東側・西側砦が次々陥落
大坂城の外周に砦を築いた豊臣方は、それぞれに兵を入れて徳川軍を待ち受けます。
慶長19年(1614年)11月19日、徳川方の蜂須賀至鎮が木津川口砦を攻撃したことにより大坂冬の陣がはじまります(木津川口の戦い)。
もっとも、豊臣方は、①木津川口の戦い(11月19日)、② 鴫野の戦い・今福の戦い(11月26日)、③ 野田・福島の戦い(11月28日夜半)、④博労淵砦の戦い(11月29日)などに敗れ、北側・東側・西側の砦を放棄して大坂城内に撤退します。
この結果、大坂城の守りは、大坂城の惣構自体と、南側出城である真田丸だけとなります。
大坂城南側の布陣
その結果、徳川軍は、20万人ともいわれる大軍で大坂城を包囲し、真田丸正面には前田利常率いる1万2000人、南部利直・松倉重政・榊原康勝らが率いる数千人などを配置します(対する真田丸は、真田信繫率いる5000人で守ります。)。
また、大坂城南側では、その他、八丁目口・谷町口に井伊直孝率いる4000人・松平忠直率いる1万人などが布陣しています(対する豊臣方では、八丁目口・谷町口に木村重成・後藤基次・長宗我部盛親らが率いる1万2000人などで守っていました。)。
真田丸の戦い
真田丸に正対した前田利常は、塹壕を掘り、それを土塁で固めることによって真田丸に近づいていこうと考えたのですが、真田丸の前方にある篠山に配備された真田軍が、塹壕を掘る前田利常隊の兵に次々と銃撃を加えたため、その作業は難航を極めます。
困った前田利常は、作戦の妨害を繰り返す篠山奪取を目論み、慶長19年(1614年)12月4日夜、、本多政重・山崎長徳らに命じて篠山に奇襲を仕掛けさせます。
ところが、篠山に着いてみると、そこに布陣していたはずの真田軍は既に真田丸に撤退していたため篠山はもぬけの殻となっていました。
難なく篠山を奪取した前田利常軍でしたが、夜が明けた際に、目の前にいる真田軍からの挑発を受け、前田利常からの指示なしに一斉に真田丸に向かって突撃を仕掛けてしまいます。
そして、この前田軍の突撃につられ、八丁目口・谷町口に井伊直孝隊、松平忠直隊までもが突撃を開始してしまします。
ここで、真田信繫は、突撃してくる前田軍が空堀に入り込んだ後、真田丸の土塁・城壁に取りつくのを待って一斉射撃を開始します。
火器を準備して待ち構える砦に一斉攻撃を仕掛けるなど正気の沙汰ではなく、徳川軍は成果を上げることなく損害だけが拡大していきます。
予想外の攻撃に出たとの報を聞いた前田利常はもちろん徳川家康までもが、無意味な突撃をやめさせようと盛んに指示を出したのですが、次々と城に向かっていく後方の兵が邪魔となって前線の兵は身動きが取れず、撤退が完了するまでに相当の時間を費やしました。
こうして、真田丸の戦いは、真田信繫軍の大勝利に終わり、徳川軍では、諸説ありますが1万人を超える戦死者を出したと言われています。
真田丸廃城(1615年)
その後、慶長19年(1614年)12月20日に、本丸を残して二の丸、三の丸を破壊し、惣構の南堀、西堀、東堀を埋めることを条件の1つとして豊臣方と徳川方との間で和議が締結されたため、それに従って真田丸も破壊されました。
参考(観光用)
真田丸は、現在の大阪市内の中心部に程近い場所にあり、電車で行って周囲を探索するのに絶好の場所にあります(上記案内板写真参照)。
「真偽はおいておいて、」三光神社には、真田丸から大坂城とを行き来できたとされる真田の抜穴跡というのも残されています。
また、少し足を伸ばせば、冬の陣で徳川家康が夏の陣で真田信繁が本陣とした茶臼山や、真田信繁が死亡した場所にある安居神社などにも行くことができますので、興味があれば是非。