【中津城(続日本100名城191番)】黒田官兵衛が築き細川忠興が完成させた水城

中津城(なかつじょう)・中津川城(なかつがわじょう)は、戦国時代末期に、豊前国に入った黒田官兵衛によって築かれ、後に細川忠興によって完成された水城(海城)です。

山国川から分かれた中津川の河口デルタ部を巧みに利用し、瀬戸内水運を利用できる絶好の立地でありながら、堅固な防御力を誇った一大城郭です。

明治期以降に大部分が破却されてしまっていること、観光用の模擬天守が不自然な場所に建てられていることなど一部残念なところもありますが、日本三大水城として名高い中津城について、その築城に至る歴史から見ていきたいと思います。

中津城築城

中津城の立地

中津城の歴史は、黒田官兵衛(黒田孝高・黒田如水)が、天正15年(1587年)、豊臣秀吉から豊前国6郡12万3000石(一説には16万石・その後の検地で18万石となっています。)を与えられ入封したことに始まります。

黒田官兵衛は、入封当初、豊前国・京都郡にあった馬ヶ岳城に入ったのですが、瀬戸内航路を有効に活用するため、また反抗的な豊前国人衆と距離を置くため、豊前湾沿いにより良い築城場所を探します。

そして、選地の結果、黒田官兵衛は、山国川から分かれた中津川の河口デルタ部を新城の地と定めます。

なお、豊前湾沿いに中津城が建てられることとなった理由は、前記のほか、獲得した領国の中心にある上、瀬戸内海に面していること、上関(現在の山口県)・鞆の浦(現在の広島県)・大坂にリレー形式の早舟を配置して、わずか3日で豊臣秀吉が君臨する畿内の情報を受け取ることが出来るようにすることなど、数々の利点があったためと言われています。

また、軍事的に見ても、西の山国川、南の東に大家川(後に細川忠興が築いた金谷堤により塞がれています。)、北の周防灘に守られた絶好の立地でした。

黒田官兵衛による築城開始(1588年)

黒田官兵衛は、豊前国人一揆を鎮めて豊前の国の安全を確保した天正16年(1588年)、闇無浜(くらなしはま)から自見(じみ)・大塚一帯に、中津城の築城を始めます。

「黒田如水縄張図」によると、中津城の本丸、二の丸、三の丸の外周に、京町や博多町などと記載されていますので、現在する中津城の基礎は、この時期に築かれたものといえます。

もっとも、中津城の築城は一大工事であったこと、途中で豊前国人一揆に悩まされたことなどから、なかなかその完成を見ませんでした。

そんな中、慶長5年(1600年)に勃発した関ヶ原の戦いの際、黒田長政・黒田官兵衛の軍功により、黒田長政が筑前52万石に加増されて黒田家が中津を離れることとなったため、中津城はその完成を見ることなく築城が中断されることとなりました。

細川家による中津城完成(1621年)

そして、慶長5年(1600年)、黒田家に代わり、細川忠興が豊前一国と豊後国二郡(国東郡・速水郡)39万石を得て入封します。

細川忠興は、当初は中津城を本拠とし、中津城の大改築を開始します(弟の細川興元が小倉城に入ります。)。

もっとも、細川忠興は、慶長7年(1602年)、居城を小倉城に移して7年がかりの大規模な改築に着手し、代わりに改築中であった中津城に細川興秋を入れます。

その後、元和元年(1615年)に一国一城令が出されたため、細川忠興は、中津城の普請をいったん中止し、小倉城と共に中津城も残されるように幕府と交渉した上で、元和2年(1616年)に中津城の残置が決まるのを待って再び中津城の改修工事を再開します。

元和6年(1620年)、細川忠興が、細川家の家督を細川忠利に譲った後、翌元和7年(1621年)に中津城に移って城下町の整備を行い、扇形の縄張りに拡張して中津城が完成します(もっとも、このとき、元和の一国一城令の影響や、細川忠興の隠居城とされたことから、本丸と二の丸との間の堀を埋め、天守台も通常の曲輪と同じ高さとなるようにその高さを切り下げています。)。

完成時の中津城には22の櫓と8つの門が設けられ、城下町が外堀の内側に収まる総構構造の一大近代城郭となっていました。

中津城の縄張り

中津城は、周防灘(豊前海)に臨む中津川(山国川の派川)河口の地に築城された平城であり、西側をこの中津川で守っているため、中津城は梯郭式平城にあたります。

また、城の周囲に巡らされた堀には海水が引き込まれているために水城(海城)ともされ、今治城・高松城と並ぶ日本三大水城の一つに数えられています。

北側の本丸を中心として、南東に二の丸、南西に三ノ丸が配置され、22基の櫓と・8つの門で守られる曲輪構造をとっており、全体ではほぼ直角三角形をなしていたため扇形に例えて「扇城(せんじょう)」とも呼ばれました。

総構(外曲輪)

(1)総構虎口

中津城総構では、東側に大塚口・蛎瀬口・島田口,西側に小倉口・広津口,南側に金谷口という6ヶ所の虎口が開けられ、出入口とされました。

(2)城下町

黒田時代・細川時代を通じて中津城総構の内側に城下町が整備され、現在においてなお黒田官兵衛にちなんだ「姫路町」や「京町」などの町名が残されています。

また、総構えの最外側には寺が多く配置され、防衛拠点を兼ねていました。

三の丸

三の丸は、本丸の南西側を守るために配置された曲輪であり、江戸時代になると藩主の一族や家老の屋敷として用いられました。

三の丸東端に大手門が設けられ、これを三方向を巨石で囲んだ奥行き13間(23m)、幅3.3間(6m)の桝形虎口で守る構造となっていました。

大手門から本丸へ向かうためには、追手門、黒門、椎木門を通過して行く構造でしたが、明治時代に本丸石垣の一部が破却されて道路が築かれているため門は残存していません。

二の丸

二の丸は、本丸の南東側を守るために設置された曲輪です。

北端に北御門が設けられ、これを桝形虎口(内桝形)で守る構造となっており、二の丸南東側には内馬場が設けられていました。

また、当時は、二の丸と本丸は、薬研堀(薬研の断面のように底がV字になっている堀)で区切られ、またこの薬研堀が高瀬川(現在の中津川)に繋がっていたことから潮の満干により水位が上下する構造となっていました。

なお、上の写真は、真ん中が堀、左側が本丸跡・右側が二の丸跡です。

なお、二の丸跡地は、現在は二の丸公園(中津北公園)となっています。

本丸

本丸は、言わずと知れた中津城の最重要曲輪です。

(1)本丸北側石垣

中津城にて最初に普請をした黒田官兵衛時代の石垣は、天正16年(1588年)に普請された現存する近世城郭の石垣としては九州最古のものであり、四角く加工された石が多く使われています(川上にあった7世紀の遺跡「唐原山城」の石を流用したと言われています。)。

その後、中津城に入った細川家は、黒田官兵衛から中津城普請を引き継いだのですが、細川家は、石垣に丸みを帯びた自然石を用いていますので、一旦黒田時代に積まれたものに、その後の細川時代に拡張されることとなり、両時代の石垣(いずれの石垣にも多くは花崗岩が使われているのですが、石の加工の有無により形状の異なる石垣となっています)を見比べることができます。

特に顕著なのは、本丸上段北面の石垣(模擬天守北面下・上の写真の石垣にy字状になっている場所)であり、黒田家の石垣に細川家が石垣を継いだ境が見られますので、必見のポイントです。

(2)本丸南側石垣

明治時代の初めに本丸南側の石垣が壊されて本丸内に通じる道が造られています。また、昭和7年には、この道(両側の石垣の間)に大鳥居が建てられました。

そして、大鳥居東側の石垣も、第二次世界大戦後に地面から上半分が撤去され、その南側にあった堀も埋められたため石垣が完全に見えなくなったのですが、平成13年~平成20年の中津市による修復工事によって、埋められた石垣が掘り起こされ、またその上部に新しい石垣を復元されるに至っています(そのため、旧来の石垣と修復石垣とで石の色が異なっています。)。

(3)天守の存否

「黒田如水縄張図」や江戸時代の絵図には天守が描かれておらず、「中津城下図」に中津川沿岸の本丸鉄門脇に三重櫓が描かれているのみであるため、中津城本丸に天守が存在したのかは不明です。

黒田官兵衛の手紙に「天守に財を積んで蓄えた」との記載が残されているため、存在した可能性もありますが、真偽は不明です。

模擬天守(1964年築RC造)と復興櫓

現在中津城に存在する天守は、本丸上段の北東隅櫓跡(薬研堀端)に、「昭和39年(1964年)に観光目的で建てられたもの」です。

鉄筋コンクリート構造で、萩城天守をモデルとして外観を仕上げ、外観5重内部5階(独立式望楼型5重5階)構造・高さは23mで築かれ、南に望楼型の二重櫓も建てられています。

この模擬天守は、奥平家歴史資料館として一般公開されています。

中津城廃城(1871年)

寛永9年(1632年)に細川家が熊本藩に転封となったため、小笠原長次が代わって8万石で入封し、事実上中津藩が成立します。

その後、享保2年(1717年)に奥平昌成が10万石で入封し、以降、中津城は奥平家の居城として明治維新を迎えます。

明治2年(1869年)、版籍奉還によって府藩県三治制下における中津藩の藩庁が置かれ、明治3年(1870年)、中津藩士であった福沢諭吉の進言によって残された御殿を除く建造物が破却されます。

明治4年(1871年)、廃藩置県により中津県の県庁が置かれ、また同年、小倉県に併合され中津支庁が置かれました。

そして、明治10年(1877年)に勃発した西南戦争において、西郷隆盛挙兵に呼応した増田宋太郎率いる中津隊の襲撃により中津支庁舎となっていた御殿も焼失しています。

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