【有岡城(伊丹城)】摂津国を支配した荒木村重の居城

織田信長に反旗を翻した荒木村重が10ヶ月間もの長きに亘って籠った有岡城。

摂津国川辺郡伊丹段丘有岡(現・兵庫県伊丹市)に存在した巨城で、摂津国を統治した荒木村重の居城であり、周囲に多くの支城をはべらした大城郭でありながら、歴史に埋もれてしまっている城と言えます。

本稿では、そんな有岡城について簡単にみていきたいと思います(なお、有岡城は在岡城とも言い、改名前は伊丹城とも言っていました。)。

有岡城築城

伊丹城(有岡城)の立地

伊丹城は、大阪平野の北西角部に位置するやや高台となった位置に存在しています。

この場所は、交通の要衝である上、大阪平野全域を監視でき、それにもかかわらず背後を険しい山で守られて防衛力に優れているという絶妙な場所です。

伊丹城築城(南北朝時代)

伊丹城は、南北朝時代に摂津国人であった伊丹氏によって建築され、代々伊丹氏の居城として使われ、また拡張されていきました。

天正17年(1520年)ころには、伊丹城は、城下町を城内部に取り込む惣構え構造の兆しが見られるようになります。

荒木村重による有岡城への改名と大改築(1574年)

天正2年(1574年)11月15日、荒木村重が伊丹城を攻略してその支配下に置きます。

その上で、摂津国の中心とするべく、伊丹城から有岡城へと改名した上で、有岡城の大改築を行います。

具体的には,本城・侍町・城下町を掘りと土塁で囲み、川で守られた東側を除いた北側・南側・西側に砦を配して惣構え構造の城を完成させました。

有岡城の縄張り

有岡城は、伊丹台地の東緑の高台を利用して南北1.7km、東西0.8kmで南北に細長くなる形状で築かれた平城であり、城の東側を流れる伊丹川との間は崖になり、さらにその東側にある駄六川と猪名川で城を守る梯郭式平城となっています。

有岡城は、支城として高槻城、茨木城、吹田城、大和田城、丸山城(能勢城)、笑路城、多田城、池田城、塚口城、大物城、神呪寺城、鷲林寺城、三田城、花隈城等を抱える周囲を取り囲む大城郭群の中枢の城として君臨していました。

惣構え

有岡城の北部には岸の砦(現在の猪名野神社付近)、西部には上臈塚砦(現在の現墨染寺付近)、南部には鵯塚砦(現在の有岡小学校南側)を配置していました。

その上で、西側と南側は人工の堀を設け、東西0.8km、南北1.7kmもの大きさで周囲に堀と土塁をめぐらして防衛帯を設け、その中に街屋敷や町屋を配置した惣構え構造をとっています。

なお、この惣構え構造は、荒木村重による大改修によって完成したものであり、有岡城攻めの際には、織田方の大軍による攻撃にも1年近く耐えるほど強固な構造でした。

本丸・主郭跡(現在のJR伊丹駅付近)

本丸は城の東側(現在のJR伊丹駅付近)に位置することはわかっていますが、残念ながら明治時代の鉄道敷設のためその東側の大半を失っています。

礎石が残っていますので、何らかの建物跡があったことも明らかとなっています。

また、日本最古の天守台を持つ城郭であったことはわかっていますが、肝心の天守の構造は一切わかっていません。

現在は史跡公園として整備され、石垣(1976年の発掘調査により城郭としては最古の石垣と判断されています。なお、五輪や供養塔等の転用石も使用されています。)・建物跡・井戸跡・堀跡が復元されています。

岸の砦跡(現在の猪名野神社付近)

有岡城惣構えの北端に設けられた砦で、現在の猪名野神社付近に往時を偲ぶ土塁や堀の跡が残されているため、同所に存在していたと推定されています。

なお、天正7年(1579年)の織田信長による有岡城攻めの際には、荒木村重の重臣であった渡辺勘大夫が防衛にあたっています。

上臈塚砦跡(現在の現墨染寺付近)

墨染寺には、荒木村重謀反後に処刑された荒木家由来の人々の墓があります。

また、墨染寺境内に女郎塚の碑があります。

なお、有岡城攻めの際には、中西新八郎、宮脇平四郎らが防衛にあたっています。

鵯塚砦跡(現在の有岡小学校南側)

鵯塚は元々古墳時代前期に造られた古墳であり、その形状を利用して砦に改築されたと言われています。

なお、有岡城攻めの際には、野村丹後が防衛にあたっています。

その他

荒木村重謀反の際、その説得のために黒田官兵衛(黒田孝高)が単身有岡城に赴いた際に捉えられ約1年間幽閉された土牢があったはずなのですが、その遺構が残っていないため、その場所の特定すらなされておりません。

有岡城廃城

有岡城の戦い(1578年)

天正6年(1578年)、荒木村重が織田信長に反旗を翻したため、織田信長軍による有岡城攻めが行われます。

有岡城は織田方の大軍を10カ月もの長きに亘って跳ね返しますが、同年11月19日遂に落城します。

有岡城廃城(1583年)

有岡城の戦いの翌年の天正8年(1580年)に、有岡城は池田之助(池田恒興の長男、池田輝政の兄)に与えられますが、天正11年(1583年)に池田之助が美濃国に転封されたことに伴い有岡城は廃城となります。

在郷町として栄える

江戸時代に入ると、旧有岡城城下町を中心として酒造りの町となり、伊丹村をはじめとする15ヶ村がひと続きとなって在郷町を形成し、酒造業と運送業で大いに栄えます。

なお、寛文元年(1661年)には、伊丹郷町の大半が近衛家の所領とされています。

城址の破壊(1891年)

有岡城の廃城後も、主郭部には堀跡や土塁跡が残されていましたが、明治26年(1891年)の鉄道敷設に際して主郭部東側が破壊されました。

その後、昭和50年(1975年)に発掘調査が開始され、昭和54年(1979年)12月に国の史跡に指定されて城址の保存策が講じられることとなり、その後史跡公園として整備されて現在に至ります。

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