忠州の戦い(ちゅうしゅうのたたかい)は、文禄元年(1592年)4月28日、朝鮮の忠州市付近の弾琴台で戦われた文禄の役初期の合戦です。戦場となった場所の地名を取って弾琴台の戦いとも言われます。
同年4月12日に朝鮮に上陸した日本軍は、その後、3隊に分かれて朝鮮首都・漢城を目指して進軍していったのですが、その最先鋒であった一番隊が漢城に肉薄したところで、朝鮮国王・宣祖が、女真族との戦いで数多くの軍功を挙げた三道都巡察使・申砬に日本軍の撃退を命じたことにより勃発しました。
もっとも、朝鮮軍総大将となった申砬が、防衛に適した鳥嶺を放棄してしまったことや、決戦の地に逃げ場のない弾琴台を選択したことなどにより朝鮮軍が惨敗し、首都・漢城陥落のきっかけを作った一戦となっています。 “【忠州の戦い】文禄の役の際の朝鮮首都・漢城に迫る日本軍と朝鮮軍との野戦” の続きを読む