【文禄の役】豊臣秀吉による唐入り作戦第一弾

16世紀末、日本国内を統一した豊臣秀吉は、2度に亘って朝鮮半島に兵を送っています。

一度目が天正20年(1592年)から文禄2年(1593年)までの文禄の役であり、二度目が慶長2年(1597年)からの慶長3年(1598年)までの慶長の役です。

明国を攻略するための戦争だったのですが、明国までの通り道となった朝鮮半島が主戦場となったため、朝鮮出兵とも言われます。

この2度の戦いは、老害化した豊臣秀吉が、当時の多くの大名の反対を押し切って行われた暴挙であり、豊臣家臣団を武断派と文治派に分ち、兵力を温存した徳川家康によってこの分断を利用されて豊臣政権が失われるに至らしめた愚策であると言われることが多いのですが、そのような事実はありません。

結果的に失敗したために酷い言われようがなされているのですが、他国を侵略するという道義的評価は置いておいて、豊臣政権維持という政策目的からすると本質的には愚策であったとは考え難い作戦です。

本稿では、豊臣秀吉による政権盤石化政策の一環として行われた朝鮮出兵のうちの第一段である文禄の役について簡単に説明していきたいと思います。 “【文禄の役】豊臣秀吉による唐入り作戦第一弾” の続きを読む

【河内百済寺】人質として日本に残された百済王族が大坂枚方に創建した氏寺跡

百済寺(くだらでら・くだらじ)は、天平勝宝2年(750年)頃に百済王敬福によって建立されたと言われる河内国・交野郡中宮郷に存在した寺であり、現在でいうと大阪府枚方市内の淀川及び天野川沿いの小高い丘(交野ヶ原)上に位置します。

人質としてヤマト政権の下に送られた百済皇子が百済王氏の氏を与えられ、祖国滅亡後にヤマト政権下で力をつけて有力氏族となった後、その氏寺とするために建立した寺院でもあります。

ヤマト政権下で力を持った百済王氏は、百済寺の北部に一族を住まわせるための集落を形成していたとも考えられており、百済王氏の活躍の舞台として氏寺としてのみならずその周囲に広がった集落全体としての価値があります。

藤原摂関政治の確立により百済王氏が力を失ったために百済寺もまたいずれかの時点で失われてしまったのですが、その歴史的価値から昭和27年(1952年)3月29日に国の特別史跡に指定され、現在まで長い時間をかけて発掘調査が進められてきました。 “【河内百済寺】人質として日本に残された百済王族が大坂枚方に創建した氏寺跡” の続きを読む

【大阪環状線の歴史】私鉄を国有化して繋ぎ合わせたループ路線

大阪環状線は、その名のとおり大阪市街地を環状に走行するJR路線です。

大阪市内で最も有名ともいえるこの路線ですが、完成したのはそれほど昔ではありません。

また、環状と言いつつも円形ではない変な形をしており、その理由は、

既に市街地を形成していた大阪の町の内部に線路を引き込むことが出来なかったことから、外周に沿って線路が敷設されるに至ったことによります。

本稿では、大阪環状線が現在の形になるに至った経緯について順に説明していきたいと思います。 “【大阪環状線の歴史】私鉄を国有化して繋ぎ合わせたループ路線” の続きを読む

【御三卿】紀伊徳川系で徳川将軍家を承継する目的で創設された分家

御三卿(ごさんきょう)は、江戸時代中期の第8代将軍・徳川吉宗と、第9代将軍・徳川家重の子によって創設された徳川将軍家の一門家です。

紀伊徳川家出身の徳川吉宗が、ライバルである尾張徳川家の影響力を低下させるために創設されたと考えられており、徳川宗武(徳川吉宗三男)を家祖とする田安徳川家、徳川宗尹(徳川吉宗四男)を家祖とする一橋徳川家、徳川重好(徳川家重次男)を家祖とする清水徳川家がこれに該当します。

御三家に次ぐ高い家格を持つとしながらも当初は大名として藩を形成することも政治権力を持つこともなく、将軍の親族でありながら将軍家の部屋住みとして扱われ、将軍家や親藩大名家に後継者がない場合に養子を提供することを主な役割とするに過ぎない家でした。

もっとも、幕末期には幕政にも関与するようになり、江戸幕府最後の将軍である第15代将軍・徳川慶喜が一橋家から輩出されたことでも知られています。 “【御三卿】紀伊徳川系で徳川将軍家を承継する目的で創設された分家” の続きを読む

【三国干渉】臥薪嘗胆を合言葉にロシアを仮想敵国にするに至った国辱事件

三国干渉(さんごくかんしょう)は、明治28年(1895年)4月23日、フランス・ドイツ帝国・ロシア帝国の列強三国が、日本に対して、6日前である同年4月17日に調印(国家代表者間による交渉・条約文作・署名による内容確定)された日清戦争の講和条約である下関条約(批准は同年5月8日)の内容うちの1つである日本による遼東半島所有を放棄して清に返還するよう求めた勧告です。

日本側としては、日清戦争において多くの損害を被りながら獲得した遼東半島を失うことに抵抗が多かったのですが、当時の日本陸海軍に列強三国を相手にして戦うだけの国力はなく、やむを得ずに勧告に従って遼東半島を返還するという決断に至っています。

この点については、日本政府のみならず日本国民全体が悲憤慷慨し、この屈辱を忘れないために「臥薪嘗胆」をスローガンとして、国力増強・軍事力増強に努めていくようになりました。 “【三国干渉】臥薪嘗胆を合言葉にロシアを仮想敵国にするに至った国辱事件” の続きを読む

【徳川御三家】徳川将軍家版宮家が尾張・紀伊・水戸の3家となった経緯

徳川御三家(とくがわごさんけ)は、江戸時代に徳川宗家(将軍家)に次ぐ家格を持ち、将軍就任資格を持つとして徳川の苗字を称することを許された3つの分家です。

最終的に尾張徳川家・紀伊徳川家・水戸徳川家の3家に落ち着いたため、あたかも最初からこれらの家で始まったようなイメージを持ちがちですが、実際は紆余曲折を経て最終的にこの3家に落ち着いています。

そこで、本稿では、徳川御三家が現在のイメージに沿う形となるに至った歴史的経緯を順に説明していきたいと思います。 “【徳川御三家】徳川将軍家版宮家が尾張・紀伊・水戸の3家となった経緯” の続きを読む

【日本三名鐘】姿の平等院鐘・声の園城寺鐘・銘の神護寺鐘について

日本三名鐘は、日本全国の寺院内にある梵鐘のうち、特に優れたものとされる3つの鐘です。

平等院鐘・園城寺鐘・神護寺鐘が挙げられるのが一般的であり、「姿の平等院鐘」・「声の園城寺鐘」・「銘の神護寺鐘」と呼ばれ称えられてきました。

以下、これらの日本三名鐘について簡単に紹介していきたいと思います。 “【日本三名鐘】姿の平等院鐘・声の園城寺鐘・銘の神護寺鐘について” の続きを読む

【北政所(おね・ねね・高台院)】豊臣秀吉の正室

北政所(きたのまんどころ)は、天下人となった豊臣秀吉の正室です。

諱はねね・おね・ねいなど諸説あり、従一位を授かった際の位記では豊臣吉子とされ、また落飾後に朝廷から高台院の院号を賜っているためその呼称も様々なのですが、本稿ではもっとも知られている通称である北政所の表記で統一します(歴史上、北政所と呼ばれた女性は多いのですが、現在では豊臣秀吉の正室を指す固有名詞とされる程の知名度を誇ります。)。

養子の教育・朝廷との折衝・人質の管理など、豊臣政権下で代えのきかない重要な役割を担った有能な女性であったこともあり、姫好きで知られる豊臣秀吉が、数々の高貴な身分の女性を妻に迎えたにもかかわらず、正室の座を下級武士の娘に過ぎない北政所から変更することはありませんでした。 “【北政所(おね・ねね・高台院)】豊臣秀吉の正室” の続きを読む

【日本三古橋】山崎太郎(山崎橋)・勢多次郎(瀬田の唐橋)・宇治三郎(宇治橋)について

日本三古橋は、飛鳥時代から奈良時代にかけて架けられたとされる古橋の中で、さらに歴史のある大きな3つの橋をいいます。

古来より「三大・・」が好きな日本人は、古代に架けられた橋についても日本三古橋と称してランク付けを行い、誰がどういう根拠で定めたのかは知りませんが、それらを三兄弟に例えて山崎太郎(山崎橋)、勢多次郎(瀬田の唐橋)、宇治三郎(宇治橋)と呼んで讃えました。

そこで、本稿では、それらの概略を簡単に説明していきたいと思います。

なお、文献上確認できる日本最古の橋は、仁徳天皇14年(326年)に架けられた猪甘津橋(鶴橋)とされているのですが(日本書紀)、この橋は日本三古橋に含まれておりません。 “【日本三古橋】山崎太郎(山崎橋)・勢多次郎(瀬田の唐橋)・宇治三郎(宇治橋)について” の続きを読む

【宿場町】軍事的機能→政治的機能→社会的機能を順に獲得した街道沿いの集落

宿場(宿場町)は、江戸幕府が、開幕直後に交通の要地として街道沿いに認定した上で、その統治下に置いた集落です。

古くからあった城下町などがそのまま転用された場所もあれば、江戸幕府によって新たに住民・町屋が集められて形成された場所もありました。

宿場が置かれた目的は、豊臣家及びその恩顧の大名達と対峙するための軍事的意味から公用人馬の調達・公用文書の輸送を第一とするものでした。

もっとも、豊臣家が滅亡して太平の世が訪れると、前記のような軍事目的のみならず、参勤交代の際の大名宿泊地や、一般庶民が旅する際の旅人宿泊地としても利用されるに至りました。

これらの経緯から、宿場町は、時期を経るに従って軍事的機能→政治的機能→社会的機能を獲得していくこととなり、軍事的機能(問屋場・木戸・見附・枡形・寺社仏閣)・政治的機能(本陣・脇本陣)・社会的機能(旅籠・木賃宿・茶屋・商店・高札場)などが混在する複合場所として成長していきました。 “【宿場町】軍事的機能→政治的機能→社会的機能を順に獲得した街道沿いの集落” の続きを読む