前九年の役(ぜんくねんのえき)は、平安時代後期に陸奥国・奥六郡の俘囚長であった安倍氏の反乱から始まった一連の戦いです。前九年合戦とも呼ばれます。
東北地方の一大勢力となった安倍氏が滅亡した大戦争であり、源氏の家名を高めた後三年の役の前哨戦となった戦いでもあります。
本稿では、そんな前九年の役について、その発生に至る経緯から説明していきたいと思います。
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前九年の役に至る経緯
安倍氏が陸奥国奥六郡を実効支配
元々現在の東北地方は、「蝦夷」として「えみし」や「えぞ」と呼ばれる朝廷権力の及ばない土地でした。
そんな蝦夷に対しては、桓武天皇時代ころから、平安京遷都に起因する不満のガス抜きと、東北で産出する金・良馬を求めて、蝦夷討伐政策が行われました。なお、このときの蝦夷征伐軍の大将として最も有名なのが坂上田村麻呂であり、蝦「夷」を「征」伐する将軍なので、征夷大将軍と呼ばれました。
延暦21年(802年)、坂上田村麻呂が、蝦夷の地で蝦夷の指導者であった阿弖利為(あてるい)とその副官であった母禮(もれ)を下したことにより、朝廷権力が東北地方にも及んでいくこととなります。
このとき朝廷が獲得した領土は、岩手郡・志波郡・稗貫郡・和賀郡・江刺郡・胆沢郡を中心としており、これらは陸奥国奥六郡(岩手県北上川流域)と呼ばれました。
また、山本郡・平鹿郡・雄勝郡にもその勢力は及び、これらは出羽国山北三郡と呼ばれました。
朝廷に下った蝦夷達は、俘囚(ふしゅう)や夷俘(いふ)とか呼ばれ、この俘囚のまとめ役として陸奥国奥六郡では安倍氏が、出羽国山北三郡では清原氏が任じられています。
そして、安倍氏や清原氏は、朝廷へ貢租を行うことにより俘囚としての存続を許されるという状態に陥となります。
安倍氏の勢力拡大
朝廷の傘下に下った俘囚達でしたが、11世紀半ば頃になると、陸奥国奥六郡を治める安倍氏の勢力が大きくなり、各地に柵(城砦)を築いて半独立化していきます。
勢力を高めていった安倍氏は、1040年頃の安倍頼良の代になると、朝廷への貢租さえも怠るようになります(陸奥話記)。
また、安倍頼良は、多賀国府の在庁官人にその触手を伸ばし、亘理郡を治める藤原経清や、伊具を治める平永衡に娘を嫁がせてこれらを取り込んでいきます。
そして、安倍頼良は、奥六郡の南限であった衣川を越え、国府領の岩井郡の支配を始めるなどして陸奥国府の多賀城を脅かしていきます。
陸奥守・藤原登任下向(1050年)
こうなると、朝廷としても安倍頼良を捨て置くことはできません。
朝廷は、永承5年(1050年)、安倍頼良を諫めるために陸奥守・藤原登任を陸奥国に下向させることとします。
前九年の役(1051年~1062年)
鬼切部の戦い(1051年)
国府多賀城に入った藤原登任は、永承6年(1051年)、兵を率いて安倍頼良討伐に向かいます。
このときの藤原登任の軍には、秋田城介であった平繁茂も加わり、その兵数は数千人にのぼっていました。
これに対し、安倍頼良軍も迎撃軍を準備して玉造郡鬼切部(おにきりべ、現在の宮城県大崎市鳴子温泉鬼首高畑付近)で待ち受けたため、同地で合戦となります(鬼切部の戦い)
合戦とはいえ、京の公家が地の利を知る在地豪族に敵うはずもなく、この戦いは安倍頼良軍の大勝に終わり、敗れた藤原登任は陸奥守の任を更迭されます。
源頼義下向(1051年)
討伐軍の大敗を知った朝廷は、永承6年(1051年)、安倍頼良の討伐について公家では不足であると考え、武士にその討伐をさせようと考えます。
そこで、朝廷は、河内源氏の棟梁である源頼義を陸奥守に任じて下向させ、安倍頼良の討伐に向かわせます。
国府多賀城に入った源頼義は、直ちに軍備を整えていったのですが、着任間もない永承7年(1052年)に上東門院藤原彰子の病気平癒祈願の大赦布告が発せられたため、安倍頼良の罪も免じられることとなりました。
この結果、安倍頼良としても無用な戦いを避けるため、再度、源頼義に服従することにより朝廷に下ることとします。なお、このとき安倍頼良(よりよし)は、その名が直属の主となった源頼義(よりよし)と同音であることを遠慮し、自ら名を安倍頼時(よりとき)と改めています。
これにより、安倍氏討伐のために陸奥守となって国府多賀城に赴任したでしたが、戦は発生せず、天喜元年(1053年)に鎮守府将軍に任官して胆沢城(鎮守府)に入った後、何らの武功を挙げる機会もなくいたずらに任期のみが経過していきました。
阿久利川事件(1056年2月)
そして、天喜4年(1056年)2月に陸奥守としての任期を終えることとなった源頼義は、多賀城(国府)に戻るために胆沢城(鎮守府)を出発します。
そして、源頼義は、道中の阿久利川の湖畔で野営をしていたのですが、このとき武功を挙げることなく陸奥守としての任期が終わることを恐れ、源頼義配下の在庁官人であった藤原光貞の野営地が夜討ちに遭い人馬に損害が出たとの報告があったことを奇貨として、この襲撃は安倍頼時の嫡子である安倍貞任の手によるものに違いないと決めつけます。
源頼義は、この襲撃の顛末を説明させるため、安倍貞任(安倍頼時の嫡子)の出頭を命じたましたが、嫡子が殺害される危険を感じた安倍頼時はこれを拒否します。
この安倍頼時の回答を理由として、源頼義は、安倍氏に謀反の意志ありとして、討伐戦を行うことを決めます(阿久利川事件)。
なお、源頼義が安倍頼時討伐を決定するに至った阿久利川事件は、源頼義による謀略説や、藤原説貞(光貞、元貞の父)などの反安倍氏の在庁官人による謀略説などがあり、その原因ははっきりとしていません。
藤原経清の離反
安倍頼時討伐を決めた源頼義は、安倍頼時方が治める陸奥国奥六郡に侵攻を始めると共に、国府内の親安倍氏勢力の粛清を始めます。
まず手始めは、安倍頼時の娘婿であった平永衡でした。
源頼義は、平永衡が安倍討伐軍の陣中できらびやかな銀の兜を着けているのは、甲冑をことさら派手にして舅の安倍頼時に自軍の位置を知らせるという安倍氏への寝返りの布石であるとの讒言を基に、一方的に平永衡を殺害します。
この平永衡粛清劇を目にした藤原経清は、次は平永衡と同じく安倍頼時の娘婿である自分の番であると考え、多賀城奇襲の偽情報を発して源頼義軍を多賀城に向かわせ、その隙に800人の兵を率いて離反・脱走して安倍軍に帰属してしまいます。
安倍頼時戦死(1057年7月)
源頼義と安倍頼時との戦いは一進一退の様相を呈します。
決戦では決着をつけることができないと判断した源頼義は、安倍氏側の諸将の調略を進めます。
そして、源頼義は、天喜5年(1057年)5月、配下の気仙郡司・金為時を使者として派遣して鉇屋、仁土呂志、宇曾利の3地域(現在の下北半島周辺)の俘囚である安倍富忠らを説得し、味方に引き入れることに成功します。
安倍富忠ら下北半島方面の俘囚が源頼義方につくと、陸奥国奥六郡は、北(安倍富忠)と南(国府多賀城)によって挟撃されることとなり、安倍頼時は苦しくなります。
そこで、安倍頼時は、安倍富忠らを思いとどまらせようと自ら津軽に向かったのですが、同年7月、道中の仁土呂志辺で安倍富忠の伏兵の攻撃を受けて深手を負います。
やむなく本拠地である衣川に戻ろうとした安倍頼時でしたが、その手前の鳥海柵(胆沢郡金ケ崎町)において死去します。
安倍頼時を失った安倍氏では、嫡男の安倍貞任が本拠地を厨川として後を継ぎます。
黄海の戦い(1057年11月)
策略により安倍頼時を討った源頼義は、天喜5年(1057年)9月、朝廷に安倍頼時戦死を報告して論功行賞を求めたのですが、これを得ることはできませんでした。
そこで、源頼義は、さらなる武功を求め、同年11月、国衙兵2000人と傘下の武士500人(合計して1800人程度であったとも)を率いて国府多賀城から出陣し、安倍貞任征伐に向かいます。
もっとも、冬の雪中行軍は難航し、兵糧の不足もあって源頼義の軍の士気は一気に下がっていきます。
これに対し、安倍貞任は、河崎柵(現在の一関市川崎村域)に4000人ほどの兵力を集めて守りを固めた上、黄海(きのみ、現在の一関市藤沢町黄海)において国府軍と戦いに至ります。
寡兵、物資欠乏、士気低下状態の源頼義軍が、地の利もあり準備万端で待ち受けていた倍の数を擁する安倍貞任軍に勝てるはずがありません。
この戦いは、安倍貞任軍の圧勝に終わり、源頼義軍では、30年来の家臣の佐伯経範や藤原景季らが戦死し、源頼義自身も長男である源義家を含めたわずか7騎で命からがら戦線を離脱するような有様でした。
当主の死により一旦は勢力が落ちた安倍氏でしたが、黄海の戦いの勝利により息を吹き返し、安倍貞任の下で国府を凌ぐ力を有するようになり、康平2年(1059年)ころには衣川の南にまで勢力を伸ばし、朝廷の赤札の徴税符を廃して藤原経清の白札で税金を徴するほどの勢いを有するようになります。
清原氏参戦(1062年)
対する源頼義は苦しみます。
鬼切部の戦い、黄海の戦いと二度に亘って大敗し、多くの国衙兵を失っていましたので、その敗戦で補充がままならなかったからです。
そこで、源頼義は、やむなく関東・東海・畿内の武士に働きかけて麾下の兵力の増強に努めます。
そうこうしているうちに時間が経ち、康平5年(1062年)春に源頼義の陸奥守の任期が切れたため、その後任として高階経重が着任することとなったのですが、勢力を回復しつつある源頼義の圧力により郡司らが高階経重に従うことはなかったため、高階経重は帰洛して解任され、再び源頼義が陸奥守に任ぜられます。
ここで、源頼義は、一発逆転の奇策にでます。
源頼義と安倍貞任との戦いで中立を保っていた出羽国仙北(秋田県)の俘囚である清原光頼に対して参戦を依頼し、この依頼を聞き入れた清原光頼が源頼義の側に参戦することとなったのです。
これにより戦局は一変します。
それまで戦いをしていなかったため無傷の兵を擁していたこと、清原氏の参戦により、安倍氏が清原氏と源頼義とに挟撃されることとなったからです。
厨川陥落(1062年9月17日)
勢いを取り戻した源頼義は、安倍貞任が治める奥六郡について、南側から順に攻略し、北進していきます。
小松柵から順に安倍氏の拠点を撃破していった源頼義軍は、そのまま北上を続け、康平5年(1062年)9月17日、安倍貞任の本拠地であった厨川柵(岩手県盛岡市天昌寺町)を陥落させます(厨川の戦い)。
安倍貞任は、厨川戦いで安倍貞任は深手を負い、その巨体を楯に乗せられて源頼義の面前に引き出されたものの源頼義を一瞥しただけで息を引き取り、陸奥国奥六郡に覇を唱えた安倍氏は滅亡します。
そして、安倍貞任の首は、丸太に鉄釘で打ち付けられ晒されます。
また、国衙側から安倍氏側に寝返った藤原経清は、源頼義方に捕らえられた後、できるだけ苦痛を長引かせるために、わざと錆び刀で鋸引き斬首の刑に処されました。
前九年の役の後
前九年の役の論功行賞
安倍氏を滅ぼした源頼義は、康平5年12月17日(1063年1月19日)、朝廷に一連の騒乱鎮定を上奏し、陸奥守就任を望みます。
ところが、康平6年(1063年)2月25日の除目において、源頼義は、望んだ陸奥守ではなく正四位下伊予守(源義家は出羽守)に補任されるにとどまりました。
また、源頼義が求めた郎従10名余りに対する恩賞も与えられることはありませんでした。
この決定に不満を抱いた源頼義は、この後、2年間伊予国に赴任せず、京都にて朝廷と交渉を続けています。
前九年の役後の奥羽の勢力図
他方、清原武則は、安倍氏を滅ぼした戦功によって、朝廷から従五位下鎮守府将軍に補任された上で奥六郡までも与えられます。
この結果、前九年の役は、清原氏の独り勝ちという結果で終わり、清原氏が奥州・羽州の覇者となります。
なお、藤原経清の妻であった安倍頼時の息女(有加一乃末陪)は夫と兄の敵である清原武貞に再嫁し、藤原経清の遺児(後の藤原清衡)共々清原氏に引き取られています。
余談(9年の戦いとされた理由)
本稿で紹介した前九年の役は、源頼義の下向(1051年)から安倍氏滅亡(1062年)までに要した12年という年数から、元々、古事談・愚管抄・古今著聞集などで「奥州十二年合戦」と記された戦いでした。
ところが、保元物語・源平盛衰記・太平記などでは「前九年の役」の名称で記され、この名称が一般化して現在に至っています。
これは源頼義が本格介入した年を基準として戦乱を9年間と計算したという説や、「奥州十二年合戦」が「後三年の役(1083年~1087年)と合わせた名称」と誤解されて、12年から3年を引いて前段について9年と間違えたなどの説があり、その理由については明らかなことはわかっていません。
なお、時代小説ではありますが、この前九年の役の辺りの話を描いた小説とそれを基にしたドラマがありますので、興味がある方は是非。