藤原清衡(ふじわらのきよひら)は、今からおよそ900年前に京から遠く離れ未開の地と言われた奥州でのし上がり、遂には都を凌駕するともいわれる栄華を極めた奥州藤原氏4代の祖となった人物です。
名門藤原氏の血を有しながら、奥州の血で命の危険を何度も潜り抜けて泥臭く生き抜いた人物でもあります。
本稿では、そんな波瀾万丈の人生を歩んだ藤原氏初代当主の人生を振り返っていきたいと思います。
【目次(タップ可)】
藤原清衡の出自
出生(1056年)
藤原清衡は、天喜4年(1056年)、陸奥国(後の磐城国)亘理郡の豪族・藤原経清と陸奥国奥六郡を治めた俘囚長・安倍頼時の娘の有加一乃末陪の間の嫡男として生まれます。幼名はわかっていません。
父・藤原経清は、藤原北家の藤原秀郷(俵藤太)の子孫とされており、当時藤原氏の一族の係累に連なる者として中央の藤原氏からも認められていた中流貴族でした。
藤原清衡出生時の奥州政治情勢
藤原清衡を語る上では、奥州の政治情勢の理解が必須となりますので、まずはこれを簡単に説明します。
元々現在の東北地方は、「蝦夷」として「えみし」や「えぞ」と呼ばれる朝廷権力の及ばない土地でした。
そんな蝦夷に対して、桓武天皇時代ころから、平安京遷都に起因する不満のガス抜きと、東北で産出する金・良馬を求めて、蝦夷討伐政策が行われました。
このときの征伐軍の大将として最も有名なのが坂上田村麻呂です。蝦「夷」を「征」伐する将軍なので、征夷大将軍と呼ばれました。
延暦21年(802年)、坂上田村麻呂が、蝦夷の地で蝦夷の指導者であった阿弖利為(あてるい)とその副官であった母禮(もれ)を下したことにより、朝廷権力が東北地方にも及んでいくこととなります。
このとき朝廷が獲得した領土は、岩手郡・志波郡・稗貫郡・和賀郡・江刺郡・胆沢郡を中心としており、これらは陸奥国奥六郡と呼ばれました。
また、山本郡・平鹿郡・雄勝郡にもその勢力は及び、これらは出羽国山北三郡と呼ばれました。
朝廷に下った蝦夷達は、その後俘囚(ふしゅう)または夷俘(いふ)とか呼ばれて一括りにされ、この俘囚のまとめ役として陸奥国奥六郡では安倍氏が、出羽国山北三郡では清原氏が任じられています。
そして、安倍氏や清原氏は、朝廷へ貢租を行うことにより俘囚としての存続を許されるという状態に陥りました。
藤原経清が安倍方へ
そんな中、安倍氏が朝廷への貢租を怠ったため、1040年頃、陸奥守・藤原登任が、これを諫めるために陸奥国に下向します。
このとき、陸奥守・藤原登任の下向に同行して陸奥国での生活を始めた人物が藤原清衡の父である藤原経清です。
陸奥国での生活を始めた藤原経清は、陸奥国・奥六郡の俘囚長であった安倍頼良(頼時)の娘(史料では「有加一乃末陪」と記載されています。)を妻に迎えます。
ところが、その後、陸奥国奥六郡を治める安倍氏が半独立勢力化していき、朝廷と安倍氏との関係が悪化していきます。
前九年の役(安倍氏対清原氏の戦い)
安倍頼時謀反(1回目)
そして、ついに永承6年(1051年)、陸奥守・藤原登任が安倍氏征討のために動きます。
もっとも、このときに、藤原経清が朝廷を裏切って妻の実家である安倍氏側についたこともあり、陸奥守・藤原登任は鬼切部の戦いで安倍頼時に敗れます(前九年の役の始まり)。
京で公家文化を満喫していた貴族が、東北地方で戦いを繰り返していた百戦錬磨の在地勢力に勝てるはずがありせん。
朝廷は、戦いに敗れた「公家」の藤原登任を更迭し、永承7年(1052年)、後任として当時新興勢力としてきた「武士」である清和源氏・源頼義を陸奥守に任じます。
武士が官軍となって華々しく戦うことができるようになった最初の戦いが始まるのです。
このとき、源頼義が戦に同伴させた息子が有名な八幡太郎義家です。
もっとも、ここで後冷泉天皇の祖母である藤原彰子が病気となったことをきっかけとして恩赦が行われ、安倍頼時の謀反の罪も許されます(このとき、このときまで安倍頼良と名乗っていま安倍頼時は、源頼義への服従の証として、名を安倍頼時に改めています。)。
安倍頼時が朝廷に帰服したため、藤原経清もまた朝廷方の源頼義に従うこととなりました。
安倍頼時謀反(2回目)
ところが、天喜4年(1056年)、胆沢城から多賀城に向かう源頼義の配下の藤原光貞の乗る馬が何者かの攻撃を受けたことをきっかけとして、朝廷と安倍氏の争いが再燃します(阿久川事件)。
この事件の際に、藤原光貞が、自分を襲ったのは安倍頼時の息子である安倍貞任に違いないと言い出し、これに源頼義が便乗して、安倍頼時に安倍貞任の引き渡しを求めたことがそのきっかけでした。
身に覚えのない(と主張する)安倍氏側は、源頼義の求めを拒否し争いとなります。
そして、このとき藤原経清は再び安倍氏方につき朝廷に反旗を翻します。
天喜5年(1057年)、一進一退の戦況が続く中、源頼義は津軽の安倍富忠らを味方に引き入れて安倍頼時を南北から挟み撃ちにします。
危険を感じた安倍頼時は、安倍富忠を説得するために津軽に向かったのですが、その途中で安倍富忠の攻撃を受けて戦死します。
当主を失った安倍氏では、安倍頼時の嫡男・安倍貞任がその跡を継ぎます。
安倍貞任は、父・安倍頼時に劣らない戦巧者で、天喜5年 (1057年)の源頼義の侵攻に対しても、河崎柵(一関市川崎町)に兵力を集め、黄海(一関市藤沢町黄海)にて源頼義軍に圧勝し押し返しています(黄海の戦い)。
このとき、敗れた源頼義と長男の源義家は、わずか7騎で辛うじて逃げ帰ったそうです。
安倍氏滅亡(1062年・厨川の戦い)
ところが、康平5年(1062年)、安倍貞任の快進撃に危険を感じた出羽国山北三郡の俘囚長・清原氏が、源頼義に味方したことでの形勢が逆転します。
北から安倍富忠、南から源頼義、西から清原武則に攻められた安倍貞任は、陸奥国・岩手郡の厨川柵(現在の岩手県盛岡市の西方にあったと考えられています。)にて籠城しますが兵糧攻めを受けて陥落します。
安倍貞任は戦死し、藤原経清は捕縛された後、より強い苦しみを与えるために切れ味の劣る錆びた刀でゆっくり処刑されました。
安倍貞任・藤原経清らの死により安倍氏が滅亡して前九年の役の役が終わります。
藤原清衡7歳のときでした。
前九年の役での勝利者となった源氏は京でその勢力を拡大し、また清原氏は元々の出羽国山北三郡に陸奥国奥六郡を加増される大躍進を遂げます。
後三年の役(清原氏の内紛)
清原武貞の養子となる
藤原清衡は、安倍頼時の孫であり、また裏切者の藤原経清の嫡男であったことから本来は処刑される運命にありました。
ところが、藤原経清の妻である有加一乃末陪(藤原清衡の母)が安倍氏を滅ぼした敵将である清原武則の嫡男・清原武貞に再嫁されることにより助命されることとなりました。
その結果、藤原清衡は、母と共に清原武貞の下へ行き、清原武貞の養子となって清原清衡と名乗ることとなります。父の仇の養子となった訳です。複雑です。
そして、このとき清原武貞には、すでに嫡男・清原真衡がいました。
また、後に清原武貞と有加一乃末陪(藤原清衡の母)との間に清原家衡が生まれますので、藤原清衡(安倍の血)には、異父母の清原真衡(清原の血)、異父の清原家衡(清原の血+安倍の血)との兄弟関係が出来上がります。
そして、前九年の役当時の清原家当主は清原武則だったのですが、その清原氏の当主の座は、清原武則から嫡男・清原武貞へ、さらにその嫡男の清原真衡へと継承されます。
吉彦秀武謀反と清原真衡急死(1083年)
その後、清原家内で、当主・清原真衡と、重臣の吉彦秀武との諍いから、永保3年(1083年)、家中での戦いに発展します。
このとき、清原真衡が吉彦秀武討伐のため出羽に向かったのですが、兵力に劣る吉彦秀武は、藤原清衡と清原家衡を仲間に引き込み、吉彦秀武討伐のために留守となった清原真衡の本拠地を攻撃させます。
吉彦秀武と藤原清衡・清原家衡との二方面作戦を展開する程の力はなかった清原真衡は、やむなく陸奥国国司となって陸奥国に赴任していた源義家に援軍を要請します。
源義家に本拠地を防衛してもらい、清原真衡が吉彦秀武を討伐すると言う作戦でした。
藤原清衡・清原家衡だけで、陸奥国司に勝てるはずもなく、藤原清衡・清原家衡方は、源義家に大敗して降伏します。
命が危なくなった藤原清衡ですが、ここで幸運が訪れます。
吉彦秀武討伐に向かっていた清原真衡が急死したのです。
総大将の死亡により清原家の内紛は強制終了となります。
後は事後処理です。
当主の居なくなった清原家では家督相続が問題となるのですが、死亡した清原真衡の要請でたまたま清原家の本拠を守っていた源義家の裁定により、藤原清衡と清原家衡が清原家の所領のうち陸奥国・奥六郡を三郡ずつ分割継承することと決まりました。
異父弟・清原家衡との戦い(1086年)
ところが、清原家衡は、自分こそが安倍家・清原家双方の血を継ぐの正統な後継者であり、裏切者の子である異父兄である藤原清衡と相続を分け合うこととした源義家の裁定に不満を持ちます。
そして、清原家衡は、応徳3年(1086年)、藤原清衡の屋敷を襲撃し、藤原清衡の妻子眷族を皆殺しにしました。
このときはなんとか難を逃れた藤原清衡は、陸奥国府まで逃げて源義家に助けを求めます。
源義家は、自分の裁定を無視した清原家衡の行為に怒り、藤原清衡に味方して清原家衡を攻撃します。
次は、藤原清衡と藤原家衡の戦いです。
もっとも、源義家との戦いに備えて清原家衡が籠った金沢柵(秋田県横手市)は、当時最高防衛力を誇った難攻不落の要塞でした。
寛治元年(1087年)、藤原清衡と源義家は、金沢柵に攻め寄せ、味方となった吉彦秀武の献策による兵糧攻めの結果、金沢柵は陥落します。
清原家衡は下人に変装し逃亡を図りますが、近くの蛭藻沼(横手市杉沢)に潜んでいるところを捕らえられて斬られます。
清原家衡の死亡により、奥羽に覇をとなえた清原氏が滅亡します。
陸奥国・奥六郡支配権獲得(1087年)
後三年の役は清原氏の私闘とされたため、朝廷からは何の恩賞もなく、当然藤原清衡には官位の賞与もありませんでした。
もっとも、藤原清衡は、養子とはいえ清原家一族最後の残存者となったため、清原家の所領奥六郡を領することとなりました。藤原清衡32歳のときでした。
その後、藤原清衡は、清原姓から実父の姓である藤原姓に復して奥州藤原氏の祖となります。
源義家はタダ働き
他方、藤原清衡に味方した源義家は、その労力に反し得た領地はなく、逆に自らの領地を働いた部下に与えなければならない境遇に置かれます(このことによって、源氏の名を挙げたという結果はあるですが)。
以上から、結論だけ見ると、後三年の役は藤原清衡に源義家がしてやられた合戦といえます。
このリベンジとして、時代が下って、藤原清衡の曾孫(藤原泰衡)が、源義家の玄孫(源頼朝)に滅ぼされたというのも何かの因果を感じますね。
奥州藤原氏の国造り
奥州での藤原氏の勢力拡大
源義家と共に戦ったことにより、藤原清衡は、中央の朝廷の力を思い知らされます。
そこで、陸奥国・奥六郡を得た藤原清衡は、寛治5年(1091年)に関白藤原師実に貢馬するなど、積極的に京の公家たちと交誼を深め、寛治3年(1089年)には陸奥押領使に任命されるなどその地位の向上に尽力します。
また、本拠地を江刺郡豊田館に構え、勢力の拡大を図ります。
平泉造営
藤原清衡は、嘉保4年(1094年)頃には居館を江刺郡豊田館から、磐井郡平泉に居を移し政治文化の中心都市の建設に着手します。
また、長治2年(1105年)、50歳になった藤原清衡は、平泉にて中尊寺の中興(事実上の創建)に着手します。この時建てられた堂宇は「最初院」または「多宝寺」と称され、『法華経』「見宝塔品」に登場する多宝如来と釈迦如来を本尊とするものでした。
さらに、藤原清衡は、宋から一切経の輸入も行うなど北方貿易にも着手し、奥州藤原氏4代100年の栄華の基礎を築きます。
藤原清衡の最期(1128年7月13日)
金銀螺鈿をちりばめた金色堂を落慶した翌年の大治3年(1128年)7月13日、藤原清衡は死去します。当時としては異例の長命の73歳でした。
現存する金色堂は、藤原清衡が自身の廟堂として建立したもので、内部の須弥壇内には清衡と子の基衡、孫の秀衡、曾孫の泰衡の4代の遺体(ミイラ)が安置されています。
この藤原清衡の遺骸を調査した結果、身長159cm、血液型はAB型、やせ型、顔は頬骨の秀でた比較的短い顔で鼻筋が通り、手の形は小さく華奢、四肢の筋はよく発達し、没年齢は70才以上であったことがわかっています。
また、レントゲン検査によると、左半身に顕著な骨萎縮が見られ、脳出血、脳栓塞、脳腫瘍などによる半身不随であったと見られています。
九世紀終わり頃に刈田郡以北は賊地に帰しました。伊達に関門が作られ一般人の往還は禁断とされました。放蕩の輩が禁をおかし女遊びに行くの取り締まりが強化されました。歌枕の下紐の関は伊達の大木戸と言われています。関門をすり抜け悪事をはたらく麁蝦夷を取り締まるため押領使がおかれました。
刈田郡以北十四郡の北に六郡が置かれたことを示す史料は見当たりません。弘仁二年(八一一)正月丙午【十一】》○丙午。於陸奧國。置和我。〓縫。斯波三郡。