【武士の相続ルールの変遷】

平安時代頃に興り、その後力を強めていった武士ですが、武士の家の相続がどのような方法でなされていたのかご存知ですか?

武士が興る前の日本では、律令という法規があったのですが、律令は貴族社会の法であり、武士階級には適用されず、またそもそも武士には全く周知されていませんでした。

他方、貞永元年(1232年)に武士についての規範となる御成敗式目が制定されたのですが、わずか51か条にすぎず、しかも家族親族法はその中の18条〜27条に記載されているにとどまったため、武士の相続については専ら武士の慣習に従うこととされました。

では、武士が生れて以降、慣習的に武士の家督(家長としての身分・権限・家名などをまとめた権利)は、どのように相続されていったのでしょうか。

実は、時期によって武士の家の相続システムは大きく違っています。

そこで、以下、武士の家の相続システムについて時代の変遷を踏まえて説明していきます。

鎌倉時代の武士の相続:分割相続

平安時代末期頃からの武士の巨大化

平安時代末期頃の日本では、農業技術の発達により、全国的に農地が飛躍的に増えていきました。

この点、この頃に力をつけた武士は、と、自ら在地地主として大規模開墾を行って土地を確保していっただけでなく、貴族から土地の権利を獲得していきました。

分割相続の原則

以上の結果、新たに大きな土地を獲得していくこととなった武士ですが、広大化していく土地を一族の家長(及びその嫡子)だけで管理・開発していくことには限界がありました。

純粋にマンパワーが足りなかったのです。

そこで、この頃の各地の武士の家では、広大な土地を効率的に開発していくため、広大な土地を家長だけで独占するのではなく、一族内の多くの子に分け与えることで一族の繁栄させようと考えました(なお、律令制度でも分割相続が認められ、女子も相続権を有していたこともこの考えの基礎となっていました)。

そのため、平安時代末期から鎌倉時代初期頃の武士では、家の相続について、男子の中で最も能力の高い者を嫡子=惣領=本家と定めて一族所領の主要部分を継承させつつ、残る部分を惣領以外の男子(庶子)及び女子に分割相続させることが一般的になりました。なお、分割相続した者は、分家創設者となりました。

この点について、鎌倉幕府有利御家人であった足利家の相続を例にすると、本家として足利家を維持しつつ、分家となる細川家・斯波家・畠山家などを次々と成立させていくイメージです。

惣領制

そして、武士一族では、本家家長(及びその嫡子)が頂点に君臨し、そこから独立生計を営んで独自の軍事力を有する分家を統制する構成となっていました。

そして、戦時には、本家の下に、それぞれの分家が独自の軍事力を集めて参集し、本家家長及び惣領がこれらを運用する仕組みが取られました。

また、この構造は平時においても同様であり、分家の男子・女子は、平時にも、家長や惣領が主催する祭祀や、鎌倉幕府や荘園領主から一族に対して課された公事を割り当てられたりする負担を課せられました。

鎌倉幕府の武士統制

そして、鎌倉幕府では、以上の構造を有していた諸国の各武士の管理につき、個々人を細かく管理することなく一族の家長(惣領=本家の長)を御家人として管理し、当該御家人のみに軍役・公事を負担させる扱いをとりました。

そして、鎌倉幕府から負担を命じられた御家人が、その負担を分家(庶子・一族)に割り振り処理をするという上命下達制度が確立していました。

すなわち、鎌倉幕府は、本家の長を通じてその下に位置する武士団を間接支配する構造となっていたのです(惣領制)。

そして、この惣領制の下では、相続(誰にどれ位譲るか)を含めた家の問題については家長が絶対的な決定権を持ち、鎌倉幕府は、各家の問題については介入しないことを原則としていました。

分割相続の問題点

以上の構造によりシステム化していた鎌倉武士社会でしたが、鎌倉時代後半期になると限界が見え始めます。

その理由は、当時の技術水準で開発可能な土地は開発しつくされたことや国内での戦いが減少したことにより武士が新たな土地(及びそこから得られる年貢)を獲得することが難しくなっていったからです。

すなわち、鎌倉幕府による統治の成熟により社会が平和になっていったために、成長限界を迎えた武士階級が新たな収入増加を得ることが望めない状況下となっていったからです。

かかる状況下であったにもかかわらず武士の家で分割相続を続けていった結果、本家の経済力が弱くなっていきました。

その結果、本家家長(惣領)が分家を押さえつけることができなくなっていき、各家で、先細っていく所領の相続をめぐって争いが頻発するようになりました。

単独相続へ

以上の問題に対応するため、鎌倉時代後期になると、所領細分化を防止する目的でそれまでの分割相続を取りやめ、惣領への単独相続が行われるようになっていきました。

そして、この結果、一族の庶子=分家は、惣領=本家に完全に隷属していくようになります。

また、女子の相続権が本人一代限りのものとされたことから、女性の地位の低下を招いていきました。

室町時代の武士の相続:単独相続

単独相続が原則化

そして、室町時代に入ると、各家には所領を分割相続する余裕が完全になくなり、嫡子や当主一人で家督と主要な所領を継ぐ単独相続原則が確立するに至りました。

そして、家督相続は、家をまとめるために一族の主な者による合議により決定され、それを当主が指名する形が中心となっていきました。

幕府の関与

また、鎌倉幕府が滅亡した後に成立した室町幕府は、鎌倉幕府の守護制度を継承した上で、さらにその権限を増大させたのですが、このときの有力武士の土地支配権の根拠が室町幕府による守護職(地頭)任命であったことから、これを獲得・維持するため、有力武士は領国ではなく京に住み込んで室町幕府に取り入ることが必要となりました。

その結果、有力な武士の家では、家の中だけで相続を決定することが出来ず、将軍や守護など上の権力が認めることが必要となっていったのです。

以上の結果、室町時代には、武士の家督相続は、当主が中心に決めるという原則があったものの、それを支える一族の支持と、幕府の承認という要素も加わった複雑なものとなっていったのです。

実力者が相続人となる

以上のように、家中の合意(私的要素)と幕府の承認(公的要素)により決定されていった室町時代の武士相続でしたが、6代将軍足利義教が謀殺されたことにより将軍の求心力が低下していきました。

そのため、武士の家中で争いが起こった場合に、幕府がこれを仲裁することが困難となっていきました。

そして、この問題が顕在化して応仁の乱が勃発すると、他家との対立はもちろん、各家の家中の対立においても、実力により権力を獲得していく動きが顕在化していき、相続についても当主の意見や幕府の意向ではなく、より力の強い者(必ずしも、嫡子・長子とは限らない)が選ばれていくようになっていきました。

そして、戦国時代に入るとこの傾向はより顕著となり、より力のある者が家を守ることに適しているということで、家中でも実力者が家を継ぐということが支持されていきました(必ずしも嫡子が相続するわけではなくなる)。

お家騒動の頻発

対外的に見るとより優れた者が家長となって家を率いることは、お家の存続に有用であるかに思えます。

ところが、このシステムは逆に家を滅ぼしかねない危険をはらんでいます。

それは、より優れた者が家を継ぐべきとすると、一族内において家長の子や兄弟が、自分こそが家長となるに相応しいと主張して家長に反旗を翻す可能性を誘発したからです。

実際、室町時代中頃以降になると、このお家騒動により弱体化し、他家に滅ばされてしまう家が続出するという戦国時代へ繋がってしまいました。

江戸時代の武士の相続:嫡子単独相続

その後、徳川家康が、日本を統一して徳川家による支配構造となる江戸幕府を成立させると、江戸幕府による支配構造を安定化させて末永く続くことを目指したシステムを構築していきます。

そのうちの1つが、戦国期まで頻発した兄弟間の家督争いの撲滅でした。

徳川家康は、徳川家の家督争いを防ぐのみならず、下々の家の家督争いが上級家まで波及することを防ぐため、徳川家を含めた全ての武家について適用する統一システムを構築します。

そのうちの1つが、家督相続の原則であり、武士の家の家督は、たくさんいる子供のうち、「嫡出の男子が単独で継ぐ」というものでした(そして、その根拠として、儒学を勧めることとしました。)。

これにより、生まれながらにして家督相続者が決まっていることから、各家における相続争いを完全に封じてしまうことに成功します。

さらに、上級武士の相続については、主君や幕府への届け出・許可を必要としたことで、江戸幕府は、家督相続を利用して武士を統制することに成功し、幕府権威の維持手段として政権の安定にも寄与しました。

明治維新後の相続

旧民法下の相続(1898年7月〜1947年5月)

明治維新により江戸幕府が倒れて明治新政府が成立すると、それまでの武士・封建制度を撤廃して富国強兵政策を進めていきます。

また、幕末期に締結された不平等条約の撤廃を目指し、西洋列強に倣って法律の整備が進められていきます。

このときの法整備については相続制度についての法規範化も進められ、明治31年(1898年)に旧民法が施行されて家を維持するために戸主を頂点とする「家制度」が確立します。

もっとも、このとき法制化された相続制度について、戸主の相続(発生要因は、戸主の死亡・隠居・戸籍喪失等の3つでした)については、江戸時代の「嫡子による家督相続」原則が維持され、原則として嫡出長男が家督を単独相続する仕組とされました(なお、戸主以外の者の相続については「遺産相続」とし、直系卑属・配偶者・直系尊属・戸主の順に相続されるとされていました。)。

現行民法下の相続(1947年5月~)

もっとも、戦後民法が改正され、現行民法の施行により昭和22年(1947年)5月3日に家督相続制度は廃止されます。

そして、以降、法の下の平等を定める現在憲法の理念に従い、相続制度は、男女・年齢による区別を設けず、法の順序に従った相続人間で分け合うこととされ、現在に至っています。

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