基礎的な初等教育を行う学校である小学校ですが、日本において、いつ・どこで始まったかご存知ですか?
実は、明治維新直後に京都で始まりました。
京都が都であったために同地ではじまったというわけではなく、都が東京に移ることにより衰退していく町の勢いを取り戻すための人材育成を目的として始まりました。
しかも、公権力によってではなく、衰退を憂いた市民によって設立されたのです。
本稿では、日本で初めて設立されることとなった京都の小学校の始まりについて見ていきたいと思います。
【目次(タップ可)】
明治維新による京の衰退
京の衰退
延暦13年(794年)の平安京遷都以来、朝廷のお膝元として日本の都となって栄えてきた京でしたが、度重なる戦災に遭い大きな被害に遭い続けました。
もっとも、朝廷に荒れた京を復興させる力はなく、京の維持管理はときの有力者のきまぐれに委ねられました。
その後、時代が下って江戸時代になっても、天保の飢饉・絹物禁止令・開港などの様々な事件に見舞われ、幕末頃までの間に大きく衰微していました。
特に、禁門の変に起因する大火災である元治の大火は致命的であり、この大火によって京南部の町屋がすべて灰塵と帰す大きな被害が発生していました。
遷都論の高まり
大政奉還や王政復古により江戸幕府が倒れ、慶応4年(1868年)に朝廷に政治権力が戻ってくることとなり、同年閏4月には京都府が成立することとなったのですが、朝廷や新政府に衰退し切った京を復興させる力はありませんでした。
そこで、新たに成立した新政府内部から、新たに天皇親政を行うにあたり、京を捨てて新天地で新たな出発をしようとの声が高まります。
京の建て直し策
他方、都の地位を奪われると考えた京の住民たちは、まちの勢いを立て直すことが急務と考えます。
そこで、京では、慶応4年(1868年)に京都府が改正を行い、それまでどの組に属しても良かった江戸時代から続く町組について、地理的なまとまりを持つグループ(上京45番組・下京41番組)に組み換え、それぞれに警察・消防等の地域行政機能を持たせることとしました(第一次町組改正)。
そして、その上で、明治元年(1868年)9月、京都府は、町の発展のための教育を行きわたらせるため、各町に小学校の建設を各町に奨励する指示を出しました(小学校設立仕方の示達)。
そこで、各町会所に併設する形で小学校が設立されることに決まります。まちづくりは人づくりからという考えです。
番組小学校誕生
日本初の小学校誕生(1869年)

そして、京都府では、翌明治2年(1869年)に再度の町組の再編成が行われて上京33組・下京32組(同年に下京にて組分離があって33組となる)に組み換えられ、上京と下京にそれぞれ北西から順に番号が付され番組と呼ばれる組織に再編されました(第二次町組改正)。
同年5月、京都府が小学校の諸規則を制定し、この番組をもとにまずは64(上京では28番組と29番組が、下京では22番組と32番組がそれぞれ2番組で1校を設立したため各33組32校となっています)の番組小学校が設立されることとなったのです。
最初の開校式(1869年5月21日)
そして、明治2年(1869年) 5月21日、上京第二十七番組小学校(後の柳池小学校)において最初の開校式が行われ、その後次々と開校していきました。
国による整備
学区会
明治4年(1871年)に戸籍法が制定され、戸籍を扱う単位としての地方行政組織「戸籍区」が設置されました。
そして、京都府においても、明治5年(1872年)に戸籍制度が導入され、町を単位として各町に戸長が置かれました。
このとき、「番組」が「区」に改められて上京33区・下京32区とされ、この区が学区単位(学区会)とされました。
そして、各学区会で学区の財政の意志決定が行われるようになりました。
これは、地域が小学校を運営する仕組みです。
小学校名変更
そして、番組が区に改称されたのに伴って、小学校名もまた番組番号から個別具体的な小学校名に変更されていきました。
なお、個別具体的な小学校名は、漢籍・歴史的地名・通り名など様々な由来に基づいて付されました。
【上京】
| 設立日 | 当初小学校名 | 変更小学校名 | |
| 1869.9.15 | 第一番組 | → | 乾隆(けんりゅう) |
| 1869.10.16 | 第二番組 | → | 成逸(せいいつ) |
| 1869.9.1 | 第三番組 | → | 翔鸞(しょうらん) |
| 1869.10.1 | 第四番組 | → | 嘉楽(からく) |
| 1869.12.2 | 第五番組 | → | 西陣(西陣) |
| 1869.12.6 | 第六番組 | → | 室町(むろまち) |
| 1869.10.1 | 第七番組 | ||
| 1869.10.16 | 第十三番組 | ||
| 1869.9.1 | 第八番組 | → | 仁和(にんな) |
| 1869.10.6 | 第九番組 | ||
| 1869.8.2 | 第十番組 | → | 正親(せいしん) |
| 1869.7.8 | 第十一番組 | → | 桃園(とうえん) |
| 1869.10.1 | 第十二番組 | → | 小川(おがわ) |
| 1869.10.6 | 第十四番組 | → | 出水(でみず) |
| 1869.10.16 | 第十五番組 | → | 聚楽(じゅらく) |
| 1869.11.26 | 第十六番組 | → | 中立(ちゅうりつ) |
| 1869.10.6 | 第十七番組 | → | 待賢(たいけん) |
| 1869.10.21 | 第十八番組 | → | 滋野(しげの) |
| 1869.10.16 | 第十九番組 | → | |
| 1869.11.21 | 第二十番組 | → | 梅屋(うめや) |
| 1869.9.21 | 第二十一番組 | → | 竹間(ちっかん) |
| 1869.10.16 | 第二十二番組 | → | 富有(ふゆう) |
| 1869.10.26 | 第二十三番組 | → | 教業(きょうぎょう) |
| 1869.10.6 | 第二十四番組 | → | 城巽(じょうそん) |
| 1869.11.1 | 第二十五番組 | → | 龍池(たついけ) |
| 1869.8.17 | 第二十六番組 | → | 初音(はつね) |
| 1869.5.21 | 第二十七番組 | → | 柳池(りゅうち) |
| 1869.12.21 | 第二十八番組 | → | 京極(きょうごく) |
| 1869.12.22 | 第二十九番組 | → | |
| 1869.12.11 | 第三十番組 | → | 春日(かすが) |
| 1869.9.21 | 第三十一番組 | → | 銅駝(どうだ) |
| 1869.11.21 | 第三十二番組 | → | 川東(かわしがし) |
| 1869.7.11 | 第三十三番組 | → | 新洞(しんとう) |
【下京】
| 設立日 | 当初小学校名 | 変更小学校名 | |
| 1869.12.1 | 第一番組 | → | 乾(いぬい) |
| 1869.11.26 | 第二番組 | → | 本能(ほんのう) |
| 1869.9.16 | 第三番組 | → | 明倫(めいりん) |
| 1869.6.20 | 第四番組 | → | 日彰(にっしょう) |
| 1869.7.26 | 第五番組 | → | 生祥(せいしょう) |
| 1869.11.1 | 第六番組 | → | 立誠(りっしょう) |
| 第七番組 | → | 郁文(いくぶん) | |
| 1869.10.6 | 第八番組 | → | 立格(かくち) |
| 1869.9.11 | 第九番組 | → | 成徳(せいとく) |
| 第十番組 | → | 豊園(ほうえん) | |
| 第十一番組 | → | 開智(かいち) | |
| 第十二番組 | → | 永松(ながまつ) | |
| 第十三番組 | → | 醒泉(せいせん) | |
| 第十四番組 | → | 修徳(しゅうとく) | |
| 第十五番組 | → | 有隣(ゆうりん) | |
| 第十六番組 | → | 尚徳(しょうとく) | |
| 第十七番組 | → | 稚松(わかまつ) | |
| 第十八番組 | → | 菊浜(きくはま) | |
| 第十九番組 | → | 植柳(しょくりゅう) | |
| 第二十番組 | → | 皆山(かいざん) | |
| 第二十一番組 | → | 安寧(あんねい) | |
| 第二十二番組 | → | 淳風(じゅんぷう) | |
| 第三十二番組 | |||
| 第二十三番組 | → | 梅逕(ばいけい) | |
| 第二十四番組 | → | 有済(ゆうさい) | |
| 第二十五番組 | → | 粟田(あわた) | |
| 第二十六番組 | → | 新道(しんみち) | |
| 1869.9.11 | 第二十七番組 | → | 安井(やすい) |
| 第二十八番組 | → | 六原(ろくはら) | |
| 第二十九番組 | → | 貞教(ていきょう) | |
| 第三十番組 | → | 修道(しゅうどう) | |
| 第三十一番組 | → | 一橋(いっきょう) | |
| 第三十二番組 | → | 弥栄(やさか) |
学制(1872年8月2日)
明治5年(1872年)8月2日、太政官より109章からなる教育法令発され、身分・性別に区別のない国民皆学を目指し、全国を学区に分けてそれぞれに大学校・中学校・小学校を設置することとなりました。
そして、同年10月、京都府において学制が管内に布告され、京の小学校も整備対象となり、明治8年(1875年)から小学区に改称されました。
なお、明治12年(1879年)3月、郡区町村編制法に基づき、上京区・下京区が置かれ、従来の区を「組」と改めることにより上京区33組・下京区32組とされました。
また、同年9月29日、学制が廃止された上で、新たに教育令(明治12年太政官布告第40号)が公布され、地方官(府県長官)に与えられた権限が縮小されました。
明治19年(1886年)4月、教育令が廃止され、新たに小学校令が公布され、同年6月、鹿ヶ谷・浄土寺・岡崎・聖護院・吉田・粟田口・南禅寺村を上京区(上京第34組)に、今熊野・清閑寺村を下京区(下京第33組)に編入しています。
学区制(1892年)
市制公布により明治22年(1889年)4月に京都市が成立します。
そして、明治25年(1892年)7月に公布された区会条例により、京都市においても学区制度が確立され、上京区28学区・下京区32学区に整備されました。
その後、明治35年(1902年)2月に葛野郡大内村東塩小路・西九条両地区を京都市下京区に西九条地区として編入して下京第33学区が設置されます。
また、大正7年(1918年)4月に朱雀野村など16町村が編入されて上京区第29〜35学区及び下京区第34〜38学区が設置され、学区数73・学校数78となりました。
学区名を小学校名に合わせる(1929年4月)
昭和4年(1929年)4月、学区の名称についてそれまで上京/下京第○○学区とされていたものを、各小学校名を冠する名称に改称されることとなりました。
その後、東山・中京・左京の3区が増設されました。
そして、昭和6年(1931年)4月には、伏見市などの27市町村が京都市に編入された上で右京・伏見の2区が新設され、学区数が101、学校数は129となりました。なお、周辺市町村の京都市への編入による市域拡大時以外の学区拡大はなく、人工増大などについては1つの学区の中に複数の小学校を設けることで対応されました。
小学校再編
学区制度終焉(1942年4月)
戦争が近づいてきた昭和16年(1941年)2月、国民学校令公布され(4月施行)、小学校を運営する「学区」の法的根拠が失われます。
そこで、同年4月に京都市内学区制廃止となり、同年6月には京都市局部長会議が「学区」呼称廃止を決定し、・・町内会連合会と呼ぶこととなりました。
そして、昭和17年(1942年)4月、143に分けられた町内会連合会を小学校通学区域単位とされ、地域が学校を運営するという「学区」制度が終了するに至りました。
現在の学校制度へ
その後、昭和22年(1947年)に制定された学校教育法と、その後数十回に及ぶ同法の改正により現在の小学校制度に繋がりました。
もっとも、現在では少子化の影響もあって、京都市内の小学校が統廃合されて減少していき、現在では町組(元学区)の名残は祭りや運動会に留まるようになっています。