クナシリ・メナシの戦いは、寛政元年(1789年)年に道東の国後郡から目梨郡にかけての地域で起きた、アイヌ交易権を濫用していた飛騨屋の横暴にたえかねたアイヌ人の一斉蜂起です。
130人のアイヌ人が蜂起し、71人の和人が殺害されたのですが、発生場所が遠方ということもあり、松前藩の鎮圧部隊が事件発生の2ヶ月後に現場に到着したころには蜂起は終結していたため、実際には松前藩とアイヌとの戦闘が行われることはありませんでした。
大規模戦闘が起こった訳ではありませんでしたが、松前藩から交易権を代行していた飛騨屋の横暴とそれによるアイヌの困窮が明らかとなり、江戸幕府によるアイヌの生活環境改善に向かうに至ったターニングポイントとなった事件です。
本稿では、クナシリ・メナシの戦いについて、その発生に至る経緯から簡単に説明していきたいと思います。
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クナシリ・メナシの戦いに至る経緯
和人の夷島進出(鎌倉時代)
正確なところは不明ですが、本州に住む倭人と、夷島(後の蝦夷地・北海道)に住むアイヌとの交易は、鎌倉時代頃に始まったと言われます。
その後、十三湊(現在の青森県五所川原市)を拠点とする安東家が、蝦夷管領(蝦夷代官)を名乗って夷島南端部(道南)に対する支配権を主張するようになったのですが、永享3年(1432年)に新興勢力の南部家により十三湊(本州)から追い出されて夷島(蝦夷地・北海道)のウショロケシ(函館)まで逃亡し、同地で勢力回復を図ります。
このときの安東盛季の夷島移転の後、その家臣であった蠣崎家もこれに続くなど和人の夷島移住が続いたため、和人による本州に近いウショロケシ(函館)やマトマイアイヌ(松前)などへの進出が続きました。
蠣崎家の夷島統治権認定
その後、コシャマインの戦いで名を上げた武田信広が蠣崎家を継ぎ、夷島・道南一帯で蠣崎家が勢力を高めていきました。
道南地域で勢力を強めていく蠣崎家は、中央で天下統一事業を進めていく豊臣秀吉の勢いを利用するため、大量の貢物を持参してこれにすり寄り、機嫌を良くした豊臣秀吉から夷島全域の支配権を与えられることに成功します(あわせて、安東家家臣から独立した大名として扱われることとなりました)。
このことは、夷島に住むアイヌからすると、寝耳に水のとんでもない出来事でした。
それまで形式的には単なる一取引相手にすぎない蠣崎家が、突然主君とされるに至ったからです。
当然、夷島中で蠣崎家に対する反発が起こります。
もっとも、蠣崎家は、豊臣秀吉の死後に天下を平定した徳川家にいち早く取り入り、江戸幕府からも夷島支配権の追認を獲得してしまいました。
蠣崎家によるアイヌ搾取
以上の経過により松前藩を立藩して江戸幕府による幕藩体制下に入ることとなった蠣崎家は、江戸幕府の経済制度である石高制(土地の標準的な玄米収穫量である石高を基準として封建制度を定める制度)に服することとなりました。
ところが、江戸時代の農業技術では寒冷な地域で稲を栽培することが困難であり、松前藩のある蝦夷地では米を収穫することができませんでしたので、米の収穫量を基準として松前藩を計ると、松前藩は無高となってしまいます。
そこで、豊臣秀吉からアイヌとの独占交易の朱印状を与えられていたこと(新羅之記録)をさらに強化し、徳川家康が松前藩に対して黒印状を与えてこの独占状態を1万石相当とする国の制度にしてしまいます(徳川実紀)。
この結果、松前藩では、米の収穫量ではなく、アイヌとの交易利益で石高を評価することとされたのです。
そして、江戸幕府は、この松前藩の財政を維持させるため、アイヌとの交易を松前藩に独占させることとしました。なお、この頃に、それまで夷島と呼ばれていた現在の北海道を蝦夷地と呼ぶようになりました(より正確にいうと、それまで夷島の中に和人が住む和人地と、アイヌが住む蝦夷地があったのを、その全部を蝦夷地と呼びこれを和人である松前藩に独占交易権の形で統治させることたしたということです。)。
以上の結果、松前藩では、家臣に与えられる俸禄は石高に基づく地方知行ではなく、いわゆる交易権(商場・場所)をもって知行制をもって主従関係が結ばれることとなったのです(商場知行制)。
ところが、元々商売人ではなかった武士にアイヌとの交易を担当させることに無理があり、次第に商売が松前藩士の手に負えなくなっていき、松前藩士たちに負債が積み上がっていくようになります。
困った松前藩士たちは、自らアイヌと交易を行うのではなく、アイヌとの交易権を「場所請負人」の名目で商人に代行させ、商人から手数料を回収する方法を取り始めます(場所請負制度)。
当然ですが、商人は、商売のプロです。
交易条件も松前藩士よりも圧倒的にシビアです。
文字を持たず教育の行き届いていないアイヌが、海千山千の商売歴を持つ商人に搾取される構造が出来上がってしまいます(商人が日常的に計算を誤魔化すので、アイヌとの商売勘定を「アイヌ勘定」とも呼んでいました。)。
さらに、商人達は、アイヌの生活圏からさらなる利益を得るため、内陸部に分け行って山を切り崩しての砂金収集を始めたため、アイヌの鮭漁場に甚大な被害をもたらしました。
松前藩は、これらの商人達の行為に対しては、これを嗜めることはせず黙認しており、むしろこれを推奨するような風潮さえありました(商人が多くの利益を得る方が、そこから上前をはねる松前藩の収益も増加するからです。)。
シャクシャインの戦い(1669年6月)
寛文9年(1669年)6月に松前藩(とその代行者となっていた和人商人)からの搾取に耐えきれなくなったアイヌ・シブチャリの首長シャクシャインが中心となって、アイヌによる大規模な武力蜂起が起こります(シャクシャインの戦い)。
この戦いの大枠はアイヌと和人の諍いなのですが、アイヌ部族間の紛争が激化し、それを収めることができなかった松前藩に対する誤解をシャクシャインが巧みに利用して大規模紛争に発展しました。
一時的にはアイヌ側が優位に進んでいた戦いでしたが、松前藩側に江戸幕府が参戦したことにより戦局が一変し、最終的には、松前藩が、藩のお家芸ともいえる汚いやり方でシャクシャインを騙し討ちしたことによりアイヌが鎮圧され、戦後アイヌが更なる厳しい立場に置かれることとなっています。
アイヌに対する支配権強化
アイヌ武装蜂起を鎮めた松前藩は、戦後処理との名目で寛文12年(1672年)までアイヌ各地に出兵し続け、その軍事力を基に蝦夷地でのアイヌ交易の主導権を絶対化してしまいます。
そして、各地に駐屯させた軍事力を基に武装蜂起に参加しなかったアイヌ部族を含めたアイヌ全体に対し、松前藩以外との交易禁止・和人への業務妨害禁止などを定める七ヵ条の起請文を差し入れさせて、松前藩に対する服従を誓わせてしまいました(渋舎利蝦夷蜂起ニ付出陣書)。
アイヌ人からの経済的搾取
その後、米と鮭の交換レートをいくぶん緩和するなど、融和策も行われたのですが、基本的には和人によるアイヌ人搾取は強化されていき、アイヌにとってはさらなる厳しい時代が続いていくこととなったのです。
もっとも、対外的な敵がいなかったために徴兵が不要であったこと、米が取れないために農業力を必要としなかったことなどから、松前藩はアイヌを労働力として捉えることはせず、人別帳を作成するなどしてアイヌの人口把握をすることをしませんでした。
そのため、松前藩によるアイヌ支配は緩やかなものであり、当初は金銭的搾取は行われたもののアイヌ文化への侵襲などは行われませんでした(松前藩としては、アイヌ人を使うのではなく、アイヌ人からピンハネすることを主眼としていたのです。)。
西廻航路の延伸(北前船)
ところが、この事態を一変させる江戸時代の海上流通技術革命が起こります。
寛文12年(1672年)に東回り航路の開発を開通させた江戸幕府は、これを成功させた河村瑞賢に対し、今度は東北地方日本海側の迅速・簡便な米の廻送ルートの開発を命じます。
この当時の東北地方日本海側の米廻送ルートは、酒田を出帆した後に敦賀で陸揚げし、その後琵琶湖北岸まで陸送した後、琵琶湖を船で南進して大津で再度陸揚げし、その後再び桑名まで陸送し、三度桑名で船に積み替えて江戸まで海上輸送するというものだったのですが、この廻送ルートは、何度も米の蔵入り・積み替えが必要となる上、難所となる峠越えの必要もあったため、東回り航路を大きく超える時間と手間が必要となっていたからです。
この求め対し、河村瑞賢は、酒田→小木→福浦→柴山→温泉津→下関を寄港地とすることによりまずは大坂まで廻送する航路を策定し、その後大坂→大島→方座→畔乗→下田に入った上で江戸に入港するという完全海路ルートを開発します。
こうして完全海路での東北地方日本海側の米廻送ルートの安全性が確認されたことにより、米廻送の費用・期間の大幅短縮に成功し、このルートは西回り航路として日本海側の物流の大動脈となりました。
こうして西廻り航路の安全性が確認されると、その利益率の高さを知った船主自身が主体となって貿易を行うようになり、西廻り航路の出発地点となっていた酒田からさらに北の蝦夷地にまで進んで同地と貿易を行う者が現れるようになります。
北前船が扱う商品は食料品から生活物資まで様々であり、大坂→蝦夷地は木綿類が、蝦夷地→大坂は海産物が主力となっていたのですが、この頃に日本本土での農業改革により、日本本土全域で肥料を用いた農業が行われるようになり、その原料として蝦夷地の鰊粕が大流行しました。
これに松前藩から交易権を代行していた商人が目をつけたことから、アイヌの更なる悲劇が始まります。
アイヌ人を労働力として搾取
がめつい商人達は、アイヌ人から鰊を買い付けるよりも、アイヌ人を使って自ら鰊漁をした方がより高い利益が得られると考え、アイヌ人を使用しての漁業開発を始め、アイヌ人の低賃金酷使を始めたのです。
江戸時代に入った頃から和人との交易なしに生活が立ちいかなくなる状況に追い込まれていたアイヌは、商人達による雇用を受け入れざるを得ませんでした。
この結果、漁場を荒らされるのみならず、漁場そのものを奪われることとなったアイヌは経済的に更に困窮していきました。
抵抗するアイヌ
多忙、アイヌは、蝦夷地南部のみに住んでいたのではなく、蝦夷地北部・千島・樺太などにも多数居住しており、ロシア人と交易をしている者も多くいました。
ロシアと交易という独自の財源を持つ者達(蝦夷地では、松前藩から遠く離れた道東・道北地方でその傾向が顕著でした)は、松前藩による低賃金酷使を受け入れる必要はなく、松前藩との間でも交易以上の妥協をしませんでした。
そればかりか、これらのアイヌは条件の悪い松前藩との交易を拒否し、和人船の襲撃をすることさえありました。
飛騨屋のクナシリ交易請負(1773年)
この点、松前藩は、難航する地域での交易についても商人達に丸投げをすることとしており、宝暦4年(1754年)には国後島・択捉島・得撫島を含むクナシリ場所を開いて最東端交易範囲を拡大させ、安永2年(1773年)に同地交易を飛騨国の材木商であった飛騨屋に請け負わせます。
交易を請け負った飛騨屋は、安永3年(1774年)、アイヌとの交易を開始するべく商品を大量に積み込んだ船団を送ったのですが、クナシリアイヌ(首長はツキノエ)に襲撃されて全ての商品を奪われてしまいました。
この結果、大損害を被った飛騨屋は、経済的立て直しをするのに長期間を要することとなり、その後もロシアとの関係を基に牽制してくるアイヌとは8年間もの長きに亘って交易を始めることができませんでした。
他方、松前藩とロシアを天秤にかけながら有利な交易をしようとしていたクナシリアイヌでしたが、ロシア側もまたツキノエの強圧的な交易交渉に尻込みをし、ロシア・アイヌ交易もスムーズに進んでいきませんでした。
こうなると、クナシリアイヌとしても松前藩との交易を拒否し続けることはできず、天明2年(1782年)に松前藩にそれまでの非礼の詫びを入れ、以降、クナシリアイヌと飛騨屋との交易が始まることとなりました。
もっとも、当然ですが、船団を襲撃された飛騨屋のアイヌに対する恨みは強く、飛騨屋は、根室・国後等に進出した後、アイヌからの大収奪を始めます。
それは、それまでのような不公平な交換比率による交易のみならず、経済力を背景としてアイヌ人に鰊粕製造の奴隷労働を強いるという極めて過酷なものでした。
アイヌ人に対する待遇改善失敗
この飛騨屋によるアイヌ人からの簒奪(とそれによる飛騨屋が得ていた莫大な利益)の話は江戸幕府中枢にまで及んでおり、仙台藩医の工藤平助が記した赤蝦夷風説考によりロシアの南下政策脅威についての警告を受けていた江戸幕府としては、アイヌがロシア側に与してしまわないよう調査団を派遣するに至ります。
この調査団による調査結果により、飛騨屋によるアイヌ人からの簒奪の事実が次々と明らかとなり、江戸幕府としても対応を要する状況であるとされたのです。
そのため、飛騨屋によるアイヌ簒奪の状況が改善される道が開かれるかに見えました。
ところが、この改善の道はすぐに閉ざされます。
調査団を派遣して和人とアイヌとの共存関係を構築しようと試みた田沼意次が、天明6年(1786年)に松平定信との政争に敗れて失脚し、その後に老中になった松平定信が田沼意次憎しとの理由で田沼意次が行った政策のほぼ全てを無かったことにしてしまったからです。
田沼意次の失脚によりアイヌ人の待遇改善の道が閉ざされたことにより、アイヌ人に対する飛騨屋から過酷な労働を強いられ、女性は性的暴力を振るわれ、ことあるごとに難癖をつけられてツクナイ(賠償金)を取られ、それらを抗議すれば激しい暴力を加えられて押さえつけられるといった滅茶苦茶な状況が改善されることなく続いていき、アイヌ人の不満が際限なく高まっていきました。
クナシリ・メナシの戦い
アイヌ要人の立て続けの死去(1789年)
このような状況下で、アイヌ人による蜂起の背中を押す事件が起こります。
寛政元年(1789年)、クナシリ惣乙名であったサンキチが病気となったのですが、そのサンキチが飛騨屋支配人の勘兵衛から振る舞われた暇乞の酒を飲んだ直後に死亡したのです。
また、続けて別の惣乙名であったマメキリの妻が、飛騨屋から受け取った食べ物を食べて急死してしまいました。
これらの事件に対する飛騨屋の関与・落ち度は不明なのですが、それまで飛騨屋からの非道な行為に晒されていたアイヌ人は、飛騨屋による毒殺であると考え、その怒りを爆発させます。
アイヌ人蜂起(1789年5月)
怒りに燃えるアイヌ人は、寛政元年(1789年)5月、まずはクナシリ惣乙名ツキノエの留守中にクナシリ場所のアイヌが、続けてこれに呼応したネモロ場所メナシのアイヌが蜂起します(クナシリ・メナシ両地区合計130人)。
そして、クナシリで蜂起したアイヌ人は、直接の加害者であった飛騨屋支配人・番頭・通訳などを次々と殺害した後、続けて飛騨屋の非道を見て見ぬふりしていた目付の松前藩士1人を殺害します。
また、対岸のメナシでは、停泊中の飛騨屋の船を襲い、船中にいた和人を殺害します。
この一連の襲撃により、飛騨屋使用人70人と松前藩士1人の計71人が殺害されました。
松前藩の対応
アイヌ人蜂起の報告は、寛政元年(1789年)6月に松前藩に届きます。
松前藩は、急ぎ兵260人・鉄砲85丁・大砲3門の鎮圧隊を編成し、陸路で現場に向かって進んで行きました。
そして、松前藩鎮圧軍は、約2ヶ月かけて現場に到着したのですが、その頃には蜂起した者たちも日常生活に戻っており、松前藩軍とアイヌ側とで戦いとなることはありませんでした。
裁判と判決言渡し
そこで、現場に到達した松前藩士たちは、道東の3乙名であるアッケシ(厚岸)のイトコイ・ノッカマップ(根室)のションコ・クナシリ(国後)のツキノエに命じて捜査を行わせます。
捜査の結果、蜂起者が130人であったことが判明し、そのうち和人殺害に関わった37人が逮捕されました。
松前藩では、飛騨屋の非道を見て見ぬふりをしていた自らの落ち度を無視して、この37人全員を処刑するとの判決を下します。
首謀者の死刑執行(1789年7月21日)
そして、松前藩は、寛政元年(1789年)7月21日、死刑執行がなされることとなり、37人のうちで最も身分の高かったマメキリから順に1人ずつ牢から出され、斬首されていきました。
ところが、5人の斬首が終わり、6人目に差し掛かったところで牢の中から「ペタウンケ」という叫びが発せられ始めます。
この叫びに恐怖を感じた松前藩士は、斬首を取りやめ、牢内を一斉射撃することにより残りの32人を殺害してしまい、これによりクナシリ・メナシの戦いは終わりました。
クナシリ・メナシの戦い戦後
飛騨屋の場所請負人の権利剥奪
クナシリ・メナシの戦いの後、松前藩はこの事件の責任を飛騨屋に押し付け、飛騨屋の場所請負人の権利を剥奪します(後任は、阿部屋村山伝兵衛)。
江戸幕府の動き
一方、江戸幕府も動き出し、寛政3年(1791年)から翌年にかけてクナシリ場所やソウヤ場所で御救交易を行いました。
そして、江戸幕府は、そして、江戸幕府は、ロシアの南下政策に対抗するためにはアイヌの取り込みが不可欠であり、これを松前藩に任せることなどできないと考え、寛政11年(1799年)に東蝦夷地(北海道太平洋岸および千島)を、文化4年(1807年)には和人地および西蝦夷地(北海道日本海岸・樺太)・オホーツク海岸を天領に組み込んでしまいました。
場所請負制の見直し
そこで、江戸幕府は、天領化した蝦夷地の和人定住制限を緩和し、北見方面南部への和人進出を進めていきます。
また、江戸幕府は、場所請負制も幕府直轄としてアイヌの経済環境の改善が図られるようになりました。