【太閤下水】豊臣秀吉が原型を造り一部現在も使用されている大阪の背割下水

太閤下水(たいこうげすい)は大阪市に存在する江戸時代またはそれ以前に造られた下水道及び下水溝網です。

大坂の町の整備を始めた豊臣秀吉が、最初に整備を始めたことからその名が付されました。道路に面して建てられた町屋の裏側に下水溝が掘られたことから、建物の裏口(背中)に沿って流れるという意味で背割下水とも呼ばれます。

もっとも、現存する背割下水は、豊臣時代のものではなく、江戸時代前期に素掘りで掘られた下水道が江戸時代後期に石組溝に改造され、さらに明治期の改修を経て現在に継承されたものであり、豊臣秀吉により築造されたものとは別物と考えられています。

太閤下水築造の経緯

本願寺による大坂の再発展

大坂の地は、元々は古くは飛鳥時代に都が置かれたことはあるものの、室町時代に入る頃まではどちらかというと発展が遅れた寒村でした。

ところが、延徳元年(1489年)に5男の実如に本願寺法主の座を譲り渡した蓮如が、当時の本願寺の中心であった山科本願寺を離れて摂津国東成郡生玉荘大坂に移り、同地で堺の町衆、摂津・河内・和泉・北陸の門徒衆の援助を得て隠居所となる「大坂御坊」(後の石山本願寺)を建立したことからその発展が始まりました。

大坂御坊に入った蓮如を慕ってその周囲に人が集まって坊舎が立ち並ぶようになり、また門戸を目当てとする商売人までもが集まったことにより、大坂御坊付近に寺内町が広がって次第に賑わいを見せていくようになりました。

その後、天文2年(1533年)7月25日に本願寺10世法主証如が本願寺の本拠地を石山御坊に据えて「大坂本願寺(後の石山本願寺)」と改称して本願寺教団の新たな本拠地とし、その後に本願寺がその後に同地を拠点として全国的な大発展を遂げたことから、巨大都市として認識されていくようになりました。

豊臣秀吉による大坂の都市整備

天正8年(1580年)、織田信長との間の10年に亘る石山合戦を経て大坂本願寺が退去して寺跡が空き地になった後、天正11年(1583年)に豊臣秀吉が同地に大坂城を築城して同城に入ります。

大坂城に入った豊臣秀吉は、東横堀川を開削して西側外堀とすることにより城域を画定します。

そして、豊臣秀吉は、慶長3年(1598年)、城域内である東横堀川の内側(東側)にあった大坂本願寺時代の寺内町を東横堀川の外側(西側)に移すことにより大坂の町を拡張します。なお、このとき大坂城西側に移された町屋群は碁盤目状に整然と区割りがなされて船場と呼ばれるようになりました。

こうして大きく拡張された大坂の町ですが、上町台地の北端という高地に位置していた大坂城とは異なり、大坂の町は猫間川・平野川・大和川・淀川などが流れ込む低地に土砂が堆積したことにより形成されたものであり、極めて水はけの悪い低湿地帯に位置することとなりました(現在においてなお上町台地などの一部を除く大阪市域の約90%はポンプ排水に頼っています。)。

そこで、豊臣秀吉は、大坂の町を拓くにあたり、これらの川の氾濫を防ぐためにいくつもの運河を開削し、また大坂の町中にこれらの川・運河を渡るための多くの橋を架けていきました(大阪浪華八百八橋)。

この結果、大坂の町は、周囲を川で囲まれることによる水運の利便性を用いた商人の町として大発展していきます。

太閤下水(背割下水)

豊臣秀吉による太閤下水の整備

こうして始まった豊臣秀吉による大坂の町の開発は、開発計画時点で町割(区割り)が行われ、先に道路・水路・水道がひかれた後に、その周囲に町屋が並べられていくという形で計画的に行われました。

この豊臣秀吉による町割の際、町屋は道路に面して建てられ、それらの建物の裏側に下水溝が掘られたことから、建物の裏口(背中)に沿って流れるという意味で背割下水と呼ばれました。また、太閤・豊臣秀吉により造られたことから太閤下水とも呼ばれます。

もっとも、豊臣秀吉により造られた当時の太閤下水は、現在残るような石積みの下水溝ではなく、木組みの下水溝であったと考えられています。

なお、現在までの発掘調査では、現存する近世の石組下水道が豊臣時代のものであることを示す事実は確認されていないのですが、後の改良までの間に大阪市中の下水道として「太閤下水」の名称が広く浸透していたため、現在においてもこれらの背割下水が「太閤下水」と呼ばれるのが一般的となっています。

江戸幕府による背割下水の整備

豊臣秀吉により整備された大坂の町でしたが、大坂の陣の際に戦場となって壊滅的な被害を受け、太閤下水もまた失われてしまいました。

大坂の陣により豊臣家を滅ぼした江戸幕府は、この時点ではいまだに西国に存在する豊臣恩顧の外様大名への防衛策として大坂を直轄地とすることにより西国支配の要とし、その周囲に支城群を整備することとします。

このとき、あわせて大坂の町の再整備が行われました。

この江戸幕府による大坂の町の再整備に際しては、豊臣時代と同様に、道路・水路・水道がひかれた後に、その周囲に町屋が並べていくことにより行われ、さらにはそれらの建物の裏側に下水溝(背割下水)が掘られました。

なお、江戸幕府によって整備された背割下水が、豊臣時代に整備された背割下水(太閤下水)と同じ場所に造られたのかは不明です。

慶安年間(1648〜1658)頃の大坂を描いた絵図に現在太閤下水の公開施設となっている付近に「大水道」と書かれた水路が表現されていますので、少なくともこのときまでに現在に繋がる下水道網が整備されていったことがわかります。

大坂の背割下水

大坂の町には、東西道路である「通り」に沿って町屋が建ち並び、それらの建物の裏側に下水溝(背割下水)が掘られました。

そして、この下水溝にはさまれた40間四方の区画が町割りの基本となっていましたので、この下水溝が町境となりました。なお、背割下水路の幅は、1~4尺(約30cm~約1.2m)を標準とし、広いところでは1~2間(約1.8~約3.6m)のものも見受けられます。

また、これらの区画の中央には、4間(約7.2m)の東西道路である「通り」と、3間(約5.4m)の南北道路である「筋」が巡らされ、碁盤目状の町並みを形成していました。

現在の背割下水

石垣による護岸(江戸時代後期)

前記のとおり、大坂城下町整備時に豊臣秀吉によって整備されたと考えられる木組みの下水溝(太閤下水)は、大坂の陣の戦火によって失われてしまいました。

その後、江戸幕府による大坂の町の再整備に際し、素掘り背割下水が整備され、江戸時代後期に背割下水に石垣による護岸が施されました。

なお、江戸時代に整備された町境となる背割下水は、必ずしも太閤下水と同一位置にあったとは言い切れませんが、大体の位置関係、その特徴が一致していることから、現在では背割下水≒太閤下水と捉えることが一般的です。

暗渠となる(1894年)

その後、明治期のコレラの猛威を受け、明治27年(1894年)、大阪市によって日本初の大規模近代下水道事業となる「中央部下水道改良事業」が始まり、総延長120kmに及ぶ下水道工事が進められていきます。

このときの工事は、この時点で存在していた下水道(背割下水)の溝床にコンクリートを打ってU字形とした上でその表面にモルタルを上塗りして下水の流れを良くし、さらに開渠であった下水道に石蓋をかぶせ暗渠(閉水路)とするものでした。

大阪市文化財指定(2005年)

その後も積極的な大阪市による下水道整備の結果、現在の大阪では下水道普及率が99.9%となり市内のほぼ全域に普及しているのですが、そのうちの一部には背割下水が改良工事を経て使用され続けている箇所があります。

近世に造られた下水道が現在まで継続使用されている例はほとんどなく、大阪の都市史を考える上でも貴重な資料であるため、平成17年(2005年)、近世以前に造られ現在も使用されている約20kmのうち将来も保存可能とされる約7kmの範囲の背割下水が「中央部下水道改良事業の下水道敷(通称・太閤下水)」の名称にて大阪市文化財として指定されました。

現在の背割下水

大阪にはかつての町割が残っており、またその全てが暗渠となってはいるものの背割下水もまたビルとビルの隙間として長く連続する景観を確認できます。

このうち、現在の大阪市中央区農人橋1-3-3(市立南大江小学校の西側)には、背割下水の公開施設が置かれており、窓から覗き込むことにより下水道及びその側面の石組や溝床の様子を見ることができるようになっています。また、事前に申し込むと地下の見学施設に降りることができるようです。

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