【大阪の由来】上町台地北端部の地名が広域行政区域を指す名称となるに至った歴史

大阪の名称の由来をご存知ですか。

「おおさか」とは、元々は上町台地北端のみを指す地名であったのが、大坂本願寺寺内町成立とその後の豊臣秀吉による大坂城及び城下町の整備により現在の大阪市中央区近辺一帯を指す言葉に意味が拡張され、明治期に大阪府・大阪市が成立したことによりほぼ現在と同じ範囲を示す名称となるに至りました。

読み方は「ヲサカ」→「オオザカ」→「オオサカ」と変遷し、表記は「大坂」→「大阪」と変遷して現在に至ります。

本稿では、現在の大阪という概念が生まれるに至った歴史的経緯について、簡単に説明していきたいと思います。

「おおさか」という名称がない時代

古代の地形

現在の大阪平野付近には遅くとも約1万年以上前には人が住みつき、生活を営んでいたことがわかっているのですが、その地形は現在のものとは大きく異なっていました。

紀元前約6000年から前約5000年ごろに起こった縄文海進により海水が河内平野へ進入したため、縄文時代中期頃は現在の高槻市付近を北限、東大阪市付近を東限として上町台地と生駒山地の間に河内湾と呼ばれる湾が形成され、大阪の地形は現在よりも海岸線が大きく内側に位置していました。

そのため、上町台地が「難波潟」と呼ばれる葦原の広がる湿地に突き出した半島状の陸地となっていました。

その後、北側の淀川や、南側の大和川(付け替え前の旧河川)により運ばれてきた土砂が堆積して平野が形成されていったのですが、これらの堆積地は氾濫原や扇状地性の低地となっていました。

そこで、これらの低湿地を避けた周囲に集落ができて巨大化していきました。

都・副都として機能

4世紀末の第16代・仁徳天皇治世になると難波高津宮が置かれるなどして、都・副都として機能する古代日本の中心地域となり、その後、飛鳥に政治の中心地が移転した後も大陸との外交・貿易のためその海路に権威を示すための巨大な古墳群が建設されていきました。

さらに、5世紀になると、大王墓が奈良盆地から大阪平野に移動してその規模が巨大化することから、この頃には強力な王権(ヤマト政権)が大阪湾の眺めを意識した場所に本拠を構え、広範囲に海に面するという地形を利用して、住吉津や難波津を起源に持つ港湾都市として経済的に発展し、またそれを利用して遣隋使・遣唐使などの使節を送り出したり返答使の迎接を行ったりするなどの外交地としても利用されるに至ったことがわかります。

他方、河内湾と瀬戸内海とを行き来する海水の流れが生じることから、海流による航海の難所としても知られたことから浪速・難波などとも呼ばれるようになりました(他方で、その発展ぶりから浪花・浪華とも呼ばれました)。

摂津国・河内国

その後、正確な時期は不明ですが、大化の改新が行われた大化元年(645年)ころまでには、現在の大阪に当たる地域が摂津国の一部と河内国(大河内)の2つの国で構成されると考えられるようになっていました。

この点、摂津国は、日本書紀では「津国」と記載されるなど、港を意味する「津」を司る場所という意味からその名称が付されました。

また、河内国は、河内湾にちなんでその名称が付されました。なお、古事記や出土した木簡では「川内」と記載されており、河内国という国名は大宝4年(704年)の国印鋳造時に確定したと考えられています。

和泉国成立(757年)

その後、元正天皇が、霊亀2年(716年)3月27日、離宮・珍努宮(茅渟宮・和泉宮、霊亀3年/717年2月15日完成)を造営するために河内国から和泉郡・日根郡を分割し、さらに同年4月13日にはこれに大鳥郡をも分割した上で、政務を行うと共に離宮を警護する役所である和泉監が建てられました(続日本紀)。なお、「和泉国和泉」(郡)と記載されたこの時期のものと推定される木簡が出土していることから、領域名称としてはこの当時から「和泉国」と呼ばれていたようです。

この結果、一時的に国家による地方行政と異なる特別な機関となった和泉監でしたが、これが天平12年(740年)8月20日に廃止されて、一旦、3郡が河内国に戻されました。

そして、その後の天平勝宝9歳(757年)5月8日、再度、これら三郡が河内国から分離され、これら三郡をあわせて和泉国が設置されるに至りました。

なお、和泉国の国名については、当初は「泉」という一字で表記されたのですが、和銅6年(713年)に出された諸国郡郷名著好字令によって国名を二字にすると定められたため、佳字の「和」を付与されて「和泉国」となりました。

以上のとおり、現在の大阪府にあたる地域は、律令国における摂津国東部7郡及び河内国全域・和泉国全域とで構成されており、これら3国から1字ずつとって摂河泉(せっかせん)とも呼ばれますが、これらを合わせて「おおさか」などとする概念は存在していませんでした。

交通の要衝地として発展

そして、律令制度では、都周辺地域を五畿内(大和国・山城国・摂津国・河内国・和泉国の5国)を特別行政地域として扱い、その中でも西日本交通の要である瀬戸内海の東端に位置して難波津を要する摂津国には特別の官署である摂津職が置かれて、通常国の国司と同様の同国の司法・行政・警察のほかに難波宮難波津などの管理も任されました。

なお、難波津は、後に源氏渡辺氏によって整備されて渡辺津を名称を変更し、瀬戸内海と京を繋ぐ淀川水運、四天王寺・住吉大社・熊野へと続く熊野街道の起点として大発展します。

中世の摂津国・河内国・和泉国

また、中世後期頃になると、摂津国・河内国・和泉国内の各地に都市的集落(港津集落・守護所・門前町・寺内町など)が形成され、またそれらを結ぶ交通路が整備されていきました。

以上のとおり、中世期頃までは、現在の大阪府にあたる地域は摂津国・河内国・和泉国という3つの別々の国という認識であり、これらを合わせて「おおさか」などとする広域的概念は存在していませんでした

また、戦国時代ころまでは、より小さな範囲を示す地名としても「おおさか」という名があったとする記録は残されておりません

「おおさか」=上町台地の北端部の時代

大坂という地名の初出

では、歴史上「おおさか」が出てくるのはいつなのかというと、「大坂」という地名が記録上現れる最古のものは明応5年(1496年)に浄土真宗中興の祖である蓮如によって書かれた御文です。

蓮如は、延徳元年(1489年)に5男の実如に本願寺法主の座を譲り渡した後、当時の本願寺の中心であった山科本願寺を離れ、当時はまだ寒村であった摂津国東成郡生玉荘大坂に移った上で堺の町衆、摂津・河内・和泉・北陸の門徒衆の援助を得て隠居所となる「大坂御坊」(後の石山本願寺)を建立して同地に移ります。

その後、大坂御坊の周囲に蓮如を慕った人が集まって坊舎が立ち並ぶようになり、また門戸を目当てとする商売人までもが集まり、大坂御坊付近に発展した寺内町などにより次第に賑わいを見せていくようになりました。

以上の結果、大坂御坊で生活をし、門前町として同地周辺を発展させていった蓮如が作成し、明応7年(1498年)11月21日付で門徒に送った御文章(大坂建立章・4帖第15通)の中に記載された「摂州東成郡生玉乃庄内大坂」との記載が現在までに記録上現れた「大坂」の地名の初見となっています。

蓮如は、この文書で「大坂」が摂津国東成郡生玉乃庄の中にあるとしていることから、蓮如がこのとき「大坂」とした範囲は上町台地の北端付近という狭い範囲のみを意味していると考えられます。

なお、蓮如以前には大坂を「ヲサカ」と発音していたものが、蓮如以後には「オオザカ」と発音するようになったと言われていますが、正確なところは不明です。

大坂という呼称の定着

前記のとおり、全国的にはほとんど名が知られていなかった上町台地の北端部付近のみを指す「大坂」という地名でしたが、これが全国的に有名となる事件が起こります。

天文2年(1533年)7月25日に本願寺10世法主証如が本願寺の本拠地を石山御坊に据えて「大坂本願寺(後の石山本願寺)」と改称して本願寺教団の新たな本拠地としたのです。

そして、本願寺がその後に同地を拠点として全国的な大発展を遂げたことから、「大坂」が、上町台地北端のみならずその周囲の寺内町を含めた広範囲の地名として拡大認識されていくようになったのです。

「大坂」=大坂三郷の時代

大坂という呼称の範囲拡大

その後、織田信長との間の10年に亘る石山合戦を経て天正8年(1580年)に大坂本願寺が明け渡されて寺跡が空き地になると、天正11年(1583年)に豊臣秀吉が同地に大坂城を築城します。

大坂城に入った豊臣秀吉は、東横堀川を開削して西側外堀として利用し、その内側にあった大坂本願寺時代の寺内町を砂洲を埋め立てて土地を開発した東横堀川の外側(西側)に移すなどして大坂の町を拡張します。

こうして大坂城西側に移された町屋は碁盤目状に整然と区割りがなされて船場と呼ばれ、さらに周囲を川で囲まれることによる水運の利便性を用いた商人の町として大発展していきます。

このように、豊臣秀吉による大坂城とその城下町整備により、かつては上町台地北端のみを指す地名であった「大坂」が、整備された大坂城城下町一帯(現在の大阪市中央区付近一帯)を指す地名に拡大しました。

そして、天下人豊臣秀吉の本拠地に大名屋敷が配され、またその城下町に商人が集められたことから、政治・経済の中心都市となった大坂の名は全国に知れ渡ることとなりました。

江戸時代の大坂

その後、大坂夏の陣により豊臣家が滅んだこと、その戦禍により荒れ果ててしまったことから、大坂の町は一時的に荒廃します。

もっとも、豊臣家を滅ぼした江戸幕府は、西国大名の抑えとするために大坂を直轄地(天領)として大坂城を再建し大坂城代を置き、海運の要衝地として利用するため河川の改修や堀の開削を行いました。

また、堂島には世界最初の先物取引を行った米市場(堂島米会所)が置かれたため、米の取引を行うために諸藩が蔵屋敷を置いたことから、大坂は日本全国の物流が集中する日本経済・商業の中心地となり、「天下の台所」と呼ばれる繁栄を見せました。

なお、各藩の蔵屋敷に年貢米を運ぶために水路が巡らされ、それらの水路を越えるために大坂浪華八百八橋と言われる多くの橋が架けられたことから、「水の都」とも呼ばれる発展を見せ、またこの経済的な発展に伴って「元禄文化」が花開きました。

そして、大坂の町は江戸幕府が派遣する大坂町奉行の指揮下で北組・南組・天満組(なお、天満は元和年間頃まで大坂とは別の町でした)の三組に分かれ、総称して大坂三郷と呼ばれました。

「大阪」=広域行政区画の時代

大阪府設置(1868年5月2日)

前記のとおり、江戸時代までの大坂は大坂三郷(北組・南組・天満組)を意味しました。

そして、律令制にいう摂河泉においては、摂津国に直轄の大坂城・高槻藩・麻田藩が、河内国に丹南藩・狭山藩が、和泉国に伯太藩・岸和田藩が置かれていましたが、これらを総じて「おおさか」と呼ぶ概念はありませんでした。

現在のような大阪の概念が誕生したのは、明治時代になってからです。

慶応3年12月9日(1868年1月3日)の王政復古の大号令により成立した明治政府は、慶応4年(1868年)1月22日に前身の大坂町奉行を変更した大坂鎮台を設置し、さらに同年1月27日にこれを大坂裁判所に改称しました。なお、ここでいう裁判所とは、民政を行う地方行政機関を意味しており、現在ある司法権を行使する裁判所とは別物です。)。

また裁判所名に「おおさか」が選ばれたのは、大坂町奉行所が大坂三郷に置かれていたことにちなみます。

また、「おおさか」の漢字表記は、元々は「大坂」とされていたものが、江戸時代中期頃には「大坂」と「大阪」が併用されるようになり、大阪府成立により「大阪」に一元化されました。「坂」ではなく「阪」を採用したのは、「坂」の字が、分解すると「土に反る」として死を連想させることや、「士が反する」すなわち武士が叛く(士族が反乱する)と読めることから明治新政府が「坂」の字を嫌ったとも言われているのですが、正確なところは不明です。

その後、明治政府は、同年閏4月21日に政体書を出して府藩県三治制を敷くことを布告し、各裁判所が、順次府県に変更されていくこととなりました。

そして、同年5月2日、大阪裁判所が変更されて大阪府が成立しました。

発足当初の大阪府の管轄地域は、摂津国東成郡61村(大坂町奉行34村・大坂城代役知22村・京都所司代役知2村・小田原藩領5村)、西成郡132村(大坂町奉行117村・旗本領6村・田安徳川家領9村・閑院宮家領2村)、住吉郡37村(大坂町奉行17村・住吉大社領14村・小田原藩領8村)、河内国交野郡1村(加納藩預地)でした。

大阪府の再編成

慶応4年(1868年)5月19日に奈良県が、同年6月22日に堺県がそれぞれ設置されました。

また、大阪府司農局が南北に分割大坂裁判所に設置されていた司農局(町地を除く周辺部を管轄)が、慶応4年(1868年)6月8日に南北に分割した後、明治2年(1869年)1月20日に北司農局が摂津県・南司農局が河内県に改称されました。

5月10日、摂津県を豊崎県に改称されました

そして、同年8月2日に豊崎県を兵庫県に・河内県を堺県に編入合併し、同年9月1日に旧豊崎県住吉郡・東成郡・西成郡を編入し、また同年12月26日に狭山藩を堺県に編入合併するなどの編成が進みます。

明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県を経て、同年11月20日に高槻県・麻田県、旧豊崎県島上郡・島下郡・豊島郡・能勢郡を大阪府に編入合併します。

その後、明治9年(1876年)4月18日に奈良県を堺県に編入合併した後、明治14年(1881年)2月7日にはその堺県をも大阪府に編入合併して最大版図となったのですが、明治20年(1887年)11月4日に奈良県を再設置します。

そして、昭和33年(1958年)に京都府の一部を大阪府へ編入して現在の府域となりました。

大阪市成立(1889年)

他方、大坂の町については、明治2年(1869年)にそれまでの大坂三郷(北・南・天満)から4大組(東・南・西・北)に制度変更がなされます。

その後、明治8年(1875年)の大区小区制施行により順に第1~4大区となった後、明治12年(1879年)の郡区町村編制法の施行により再び東・南・西・北の4区制となりました。

そして、明治22年(1889年)に従前の郡区町村編制法に替わって日本の市の基本構造を定める市制が施行されたことにより大阪府管内の大阪市となりました。

大正14年(1925年)の第二次市域拡張で東成郡・西成郡の残余44町村全てを編入したことにより、首府の東京府東京市(現在の東京都区部)を人口で追い抜いて日本最多・世界第6位の人口を有する大都市となりました(大大阪時代、なお、昭和7年/1932年に東京府東京市が周辺町村の合併により市域を拡大させたことによって再び東京に追い抜かれています。)。

その後、昭和30年(1955年)の第三次市域拡張で河内国範囲にあった6町村を編入してほぼ現在の市域となりました。

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