【岩倉使節団】明治新政府の遣唐使

岩倉使節団(いわくらしせつだん)は、明治維新期の明治4年(1871年)11月12日から明治6年(1873年)9月13日まで、欧米列強諸国計12ヶ国を歴訪した使節団です。

岩倉具視を特命全権大使とし、首脳陣や留学生を含む100名を超える大集団で構成されました。

訪問先の欧米各国で視察した議会・銀行・工場・病院・学校などの近代設備を学び、それを日本に持ち帰ったという意味で日本近代化の原点として明治政府の国家建設に大きな影響を与えた一団であり、その大きな効果から、日本の歴史上でも遣唐使に比すべき意味をもつ使節とも言われています。

岩倉使節団派遣の目的

岩倉使節団派遣当時の近代法秩序

岩倉使節団は、明治4年(1871年)に明治新政府により欧米列強国に対して派遣された使節団です。

この使節団が派遣されるに至った経緯を知るためには、まずはこの当時の世界基準となっていた西洋中心の近代国際法秩序(万国公法体制)について理解する必要があります。

当時に明確な基準があったわけではないのですが、このときの近代国際法秩序の概念は、当時の世界中の国々を文明国(欧米列強)・半文明国(日本・清・朝鮮・トルコ・タイなど)・未開に分け、文明国は、半文明国に対して文明の差による優越的地位にあると判断して半文明国に対して不平等条約を押し付けるという行動を繰り返していました。

そのため、文明国はこの理を日本にも押し付け、嘉永7年(1854年)3月3日に締結された日米和親条約を皮切りに、日本は欧米列強との間で次々と不平等条約を締結させられていきました。

このことは文明国側からしたら当然の理屈であり、秩序を例に出して説明すると、幕末の江戸でイギリス人が罪を犯したということで江戸幕府に捕まったとします。

このときの江戸幕府には刑法という刑罰法規はなく、刑事訴訟法という刑事裁判手続法規もなく、さらに言うと適正手続に則って裁判がなされる裁判所すらありませんでした。

このような状況下で捕まったイギリス人は、当時のよくわからない東洋の理論で処罰されることとなりうるのですが、法制度の整った文明国人としてそのような事態が認容できるはずがありません。

そこで、イギリス側としては、日本で何らかの罪を犯したイギリス人がいたとしても、その人物をイギリスの法によって処罰しなければならないと考えたのでした。

これがいわゆる領事裁判権です。

なお、文明国(欧米列強)は、未開については国としてすら認めておらず、そこに対しては先行領有主張をした国の所有地となるという考えを持っており(植民地支配の正当化理論)、これに基づいて文明国(欧米列強)によるアフリカ・東南アジアの植民地支配が進められていったのでした。

そして、ここでいう文明国については、当時の文明国(欧米列強)が承認した国がこれに該当すると考えていました。

岩倉使節団派遣の目的

明治4年(1871年)7月14日にそれまでの藩を廃止して日本全国を府・県に一元化し、これを中央政府で管轄する廃藩置県を行うという行政改革によって日本の統治制度を整えた明治政府は、その先の目標として、当時の世界基準となっていた西洋中心の近代国際法秩序(万国公法体制)に参加してその中で文明国の地位を得ることを目標とします。

そして、文明国入りするためには、各国と結んだ不平等条約の撤廃が必要となります(文明国同士で不平等条約を締結したりはしませんので、不平等条約を結ばされていること自体が非文明国の証明となっていました。)

また、前記のとおり、文明国と認められるためには、不平等条約をの撤廃と文明国(欧米列強)の承認も必要となりますので、それを得るための欧米列強型の制度の導入と富国強兵策を指向します。

この欧米列強型の制度の導入と富国強兵のために欧米列強国から様々な技術・文明を学ぶ必要が生じました。

そこで、これらの目的を達成する下地を作る(欧米列強の調査+国書を届けての不平等条約改正の「予備」交渉)ため、大隈重信の発案によって派遣が決まったのが岩倉使節団なのです。

なお、当初はもっと小規模になる予定だったのですが、当時の薩長土肥出身者による藩閥政治における政治的思惑などが絡み合って最終的には明治新政府中枢の約半数(右大臣・岩倉具視、薩摩藩のトップ・大久保利通、長州藩のトップ・木戸孝允を含む)を長期間外遊させるということとなったのです。

留守政府結成

他方、岩倉使節団外遊により主要人物の半分が不在となる明治新政府の留守を守るとともに廃藩置県の後始末を行うため、太政大臣三条実美を筆頭に西郷隆盛・井上馨・大隈重信・板垣退助・江藤新平・大木喬任らによって日本国内に留守政府が結成されます。

そして、岩倉使節団出発前に、外遊に出る岩倉使節団と日本に残る留守政府との間で、各省大輔以上の政府高官レベルにおける岩倉使節団留守中の政治について、岩倉使節団留守中に大規模改革を行わないことを約束する盟約書(大臣・参議・大輔盟約書)が結ばれました。

岩倉使節団出発(1871年11月12日)

岩倉使節団は、明治4年(1871年)11月12日、米国太平洋郵船会社の蒸気船である「アメリカ」号に乗船して横浜港を出発し、太平洋を東進して、アメリカ西海岸にあるカリフォルニア州サンフランシスコに向かいました。

なお、岩倉使節団が派遣された時期が明治4年(1871年)であった理由は、安政5年(1858年)に締結された日米修好通商条約を皮切りに次々締結された各修好通商条約が、その15年後にそれぞれ改訂時期を迎えることから、このタイミングで不平等条約の改正を図るため、その準備をさせる時期にあったためです。

岩倉使節団構成メンバー

出発時の岩倉使節団のメンバーは、右大臣岩倉具視を特命全権大使とし、使節・各省関係者46名(薩摩藩・長州藩出身者中心)・随員18名・留学生43名からなる合計107名の一団でした。

主要メンバーは、以下のとおりです。

使節

(1)特命全権大使

・岩倉具視(右大臣)

(2)副使官

・木戸孝允(旧長州藩士、維新三傑)

・大久保利通(旧薩摩藩士、維新三傑)

伊藤博文(旧長州藩士、後の初代内閣総理大臣)

・山口尚芳(旧佐賀藩士)

(3)書記官

① 一等書記官

・田辺太一(旧江戸幕府幕臣)

・何礼之(旧江戸幕府幕臣)

・福地源一郎(旧江戸幕府幕臣)

② 二等書記官

・渡辺洪基(旧福井藩士)

・小松済治(旧会津藩士)

・林董三郎(旧江戸幕府幕臣、後の日英同盟時の駐英公使)

・長野桂次郎(旧江戸幕府幕臣・通詞)

③ 三等書記官

・川路寛堂(旧江戸幕府幕臣)

④ 四等書記官

・安藤太郎(旧鳥取藩士)

・池田政懋(旧佐賀藩士)

(4)大使随行

・久米邦武(旧佐賀藩士)

・中山信彬(旧佐賀藩士)

・内海忠勝(旧長州藩士)

・野村靖(旧長州藩士)

・五辻安仲(公家)

各省関係者

出発時には26名構成であった各省派遣の理事官と随員は、現地参加組や後発隊を加え、他方到着地毎に各赴任地に向かっています。

(1)理事官

・田中光顕(旧土佐藩士)

・東久世通禧(公家)

・山田顕義(旧長州藩士、後の日本大学創設者)

・佐佐木高行(旧土佐藩士)

・田中不二麿(旧尾張藩士)

・肥田為良(旧江戸幕府幕臣)

(2)随行

・村田新八(旧薩摩藩士)

・由利公正(旧福井藩士)

・原田一道(鴨方藩藩医)

・長與專齋(旧大村藩士)

・安場保和(旧熊本藩士)

・若山儀一(医師)

・阿部潜(旧江戸幕府幕臣)

・沖守固(旧鳥取藩士)

・富田命保(旧江戸幕府幕臣)

・杉山一成(旧江戸幕府幕臣)

・吉雄永昌(旧オランダ通詞)

・中島永元(旧佐賀藩士)

・近藤鎮三(旧江戸幕府幕臣)

・今村和郎(旧土佐藩士)

・内村公平(旧米沢藩士)

・大島高任(旧盛岡藩士)

・瓜生震 (旧福井藩士)

・岡内重俊(旧土佐藩士)

・中野健明(旧佐賀藩士)

・平賀義質(旧福岡藩士・判事)

随員

・新島襄(旧安中藩士・通訳、後の同志社大学創設者)

・岩倉具綱(富小路政直の長男)

・大久保利和(旧薩摩藩士、大久保利通の長男)

・畠山義成(旧薩摩藩士)

・山縣伊三郎(旧長州藩士)

・山口俊太郎(旧佐賀藩士・岩倉使節団副使の山口尚芳の長男)

・吉井幸輔(旧薩摩藩士)

・吉原重俊(旧薩摩藩士、後の初代日銀総裁)

留学生

また、明治新政府は、未来への投資として、岩倉使節団に数多くの留学生を同行させ、欧米諸国に送り出しています。

留学生の多くは士族であったのですが、一部に公家出身者や、当時わずか満6歳であった津田梅子を含む5名の女性も含まれていました。

これらの留学生は、それぞれの留学先で使節団から離れ、それぞれの地で勉学に励んで、後にその知識を日本に持ち帰っています。

(1)イギリス留学

・中江兆民(旧土佐藩士、後の自由民権運動家)

・鍋島直大(旧佐賀藩11代藩主)

・百武兼行(旧佐賀藩士、後の日本画家)

・前田利嗣(旧加賀藩15代藩主)

・毛利元敏(旧長府藩14代藩主)

(2)イギリス・フランス留学

・前田利同(旧富山藩13代藩主)

(3)アメリカ留学

・金子堅太郎(旧福岡藩士、後の大日本帝国憲法起草者)

・日下義雄(旧会津藩士)

・木戸孝正(旧長州藩士・木戸孝允の長男)

・黒田長知(旧福岡藩12代藩主)

・高木貞作(旧桑名藩士)

・團琢磨(旧福岡藩士、後の三井財閥総帥)

・津田梅子(後の津田塾大学創設者)

・鳥居忠文(旧壬生藩8代藩主)

・永井繁子(後の日本最初のピアニスト)

・牧野伸顕(旧薩摩藩士・大久保利通の次男、後のべルサイユ会議全権)

・三岡丈夫(旧福井藩士)

・山川捨松(後の大山巌の妻、鹿鳴館の貴婦人)

・山脇正勝(旧桑名藩士・旧新撰組隊士、後の長崎造船所初代所長)

・吉川重吉(旧岩国藩主一族)

(4)ドイツ留学

・平田東助(旧米沢藩士)

・武者小路実世(公家・武者小路実篤の父)

(5)ロシア留学

・清水谷公考(公家)

・万里小路正秀(公家・万里小路正房八男)

(6)その他留学

・大村純熈(旧大村藩12代藩主)

・朝永甚次郎(旧大村藩士)

・長岡治三郎(旧大村藩士)

・錦小路頼言(公家)

・坊城俊章(公家)

岩倉使節団歴訪ルート

江戸時代に幕府が条約を結んだ国が14か国(アメリカ・イギリス・フランス・ベルギー・オランダ・ドイツ・ロシア・デンマーク・スウェーデン・イタリア・オーストリア・スイス・スペイン・ポルトガル)あったため、岩倉使節団は、これら14か国の全てを訪問して、挨拶回りを行う予定でした。

もっとも、事情によりスペインとポルトガルへの訪問が取り止められたため、岩倉使節団の訪問国は12か国となっています。

以下、順に紹介します。

アメリカ訪問(1871年12月から約7か月)

横浜を出港した岩倉使節団は、約1ヶ月に及ぶ航海を経て、明治4年(1871年)12月6日、最初の訪問国であるアメリカのサンフランシスコに到着します。

岩倉使節団に参加した者はその大半が断髪・洋装姿だったのですが、特命全権大使である岩倉具視は日本の文化に対して誇りを持って髷と和服という姿で渡航したため、アメリカ人に強い印象を与えます(その姿がアメリカの新聞の挿絵にも残されています。)

極東の小国からやってきた羽織袴の人物の珍しさもあって、アメリカに到着した岩倉使節団は、民間レベルでの大歓迎を受けます。

この大歓迎に気をよくした岩倉使節団は、条約改正の「予備交渉」予定であったにも関わらず、アメリカに対して条約改正の「本交渉」を試みようとします。

ところが、岩倉使節団から条約改正交渉の提案をした段階で、アメリカ側から全権委任状の提出を求められます。

もっとも、岩倉使節団が元々「条約改正の準備」交渉目的の使節であり、使節団員が国際法上条約改正交渉に全権委任状が必要であることを知らなかったことから、岩倉使節団は全権委任状を持っていませんでした。

そのため、岩倉使節団による条約改正交渉依頼は、アメリカ側から門前払いを言い渡されるに至りました。

そこで、岩倉使節団は、条約改正交渉をするための全権委任状を受け取るために大久保利通と伊藤博文を急ぎ帰国させ、同人らが条約改正交渉権限を有することを認める「国書御委任状」を受け取り、再渡米してアメリカ側に提示します。

もっとも、アメリカ側としては、国際法当然の事実である全権委任状も持たずに条約改正交渉を求めてきた日本を文明国と認めることはできずに日本の交渉要求は打ち切られました。

これにより、岩倉使節団によるアメリカを含めた欧米諸国との条約改正交渉は断念され、以降の岩倉使節団は、欧米列強諸国の視察に専念することとなりました。

なお、条約改正交渉を拒絶された岩倉使節団はサンフランシスコからシカゴに向かったのですが、そこで特命全権大使であった岩倉具視は、同行していた子である岩倉具定らに「未開の国と侮りを受ける」と説得されたことにより断髪し、服装も以降は洋装に改めています。

そして、その後、岩倉使節団は、シカゴ→ワシントンD.C.→ボストン→ニューヨークを経て、キュナード社の蒸気船オリムパス号に乗船して太平洋を渡ってイギリスに向かいます。

ヨーロッパ訪問(1872年7月から約1年)

イギリスに到着した岩倉使節団は、続けてヨーロッパ諸国での視察を始めることとなったですが、アメリカ滞在中に起こった全権委任状取り付けで長い時間を費やしたために予定が大幅に押してしまい、ヨーロッパ視察は当初の予定に比べて短期間となってしまいました。

① イギリス

アメリカを出発した後大西洋を渡った岩倉使節団は、クイーンズタウンを経て、明治5年(1872年)8月17日リヴァプールに到着します。

そして、同日、蒸気車に乗り換えてブライトンを経てロンドンに到着します。

そして、イギリスにおいては、ロンドンを起点として、ブランドフォード→ポーツマス(海軍基地視察)→ロンドン→ウィンザーキャッスル→ロンドン→ウーリッジ→グレートリー→ロンドン→シドナム→ロンドン→リヴァプール→クルー→リヴァプール→セントヘレンズ→マンチェスター→グラスゴー→グリーノック→エジンバラ→グラントン→エジンバラ→アトール→ダンケルド・バーナム→ケンモア→キリン→カランダー→エジンバラ→ガラシールス→メルローズ→ニューキャッスル→シールズ→ニューキャッスル→ブランドフォード→ミットランド→ハリファックス→ブラッドフォード→シェフィールド→バートン→バーミンガム→コベントリー→ウォリック→バーミンガム→ウスター→ビーストンキャッスル→ストークオントレント→ビーストンキャッスル→ノースウィッチ→ビーストンキャッスル→チェスター→ロンドン→レディング→ロンドン→グリニッジ→ロンドン(ウインザー城にてヴィクトリア女王に謁見)を視察しています。

その後、蒸気車でドーバーに移動した後、船でカレーに向かっています。

なお、暦制の変更によりグレゴリオ暦が採用され、明治5年(1872年)12月2日の翌日が明治6年(1873年)1月1日となっています。

② フランス

カレーに上陸した岩倉使節団は、汽車に乗り換えてパリに入ります。

その後、岩倉使節団は、約2か月間パリに滞在した後、明治6年(1873年)2月17日、蒸気車でベルギー・ブリュッセルに向かいます。

③ ベルギー

ベルギーに入った岩倉使節団は、首都であるブリュッセルを起点として、ヘント→ブリュッセル→ブークハウト→ブリュッセル→リエージュ→ブリュッセル→クールセル→マルシエンヌ→ワーテルロー→ブリュッセルを視察しています。

その後、明治6年(1873年)2月24日、汽車でオランダに向かいます。

④ オランダ

オランダに入った岩倉使節団は、明治6年(1873年)2月24日、アントウェルペンを経てハーグに入り、ロッテルダム→ハーグ→ライデン→ハーグ→アムステルダム→ハーグ→フォールスコーテン→ハーグ→を視察しています。

その後、同年3月7日、汽車でドイツに向かいます。

⑤ ドイツ

ドイツに入った岩倉使節団は、エッセンを経てベルリンに入り、ポツダム→ベルリンを視察し、明治6年(1873年)3月28日、蒸気車でロシアに向かいます。

⑥ ロシア

明治6年(1873年)3月30日、岩倉使節団は、ロシア・サンクトペテルブルグに入って同地を視察した後、同年4月13日、蒸気車でハンブルク(ドイツ)→キール(ドイツ)を経てデンマークに向かいます。

⑦ デンマーク

デンマークに入った岩倉使節団は、コアセーを経て、明治6年(1873年)4月19日、コペンハーゲンに入り、同地を視察します。

⑧ スウェーデン

その後、スウェーデンに入った岩倉使節団は、郵船に乗ってマルメを経て、明治6年(1873年)4月24日、ストックホルムに入り、同地を視察します。

⑨ ドイツ

その後、再びドイツに入った岩倉使節団は、明治6年(1873年)5月1日、ハンブルクに入り、その後フランクフルト(同年5月3日)→ミュンヘン(同年5月5日)を視察します。

⑩ イタリア

その後、明治6年(1873年)5月9日、イタリアに入った岩倉使節団は、フィレンツェ(同年5月9日)→ローマ(同年5月11日)→ガゼルタ(同年5月20日)→ナポリ(同年5月21日)→ポンペイ(同年5月22日)→ナポリ(同年5月23日)→ローマ(同年5月24日)→ヴェネツィア(同年5月27日)→トリエステ(同年6月3日)を視察します。

⑪ オーストリア

そして、明治6年(1873年)6月7日、オーストリアに入った岩倉使節団は、首都ウィーンを視察し、同地滞在中に万国博覧会も視察しています。

⑫ スイス

明治6年(1873年)6月19日、スイスに入った岩倉使節団は、チューリッヒ(同年6月19日)→ベルン(同年6月20日)→トゥーン・トラハト・ザルネン(同年6月22日)→ルツェルン・フィッツナウ(同年6月23日)→ルツェルン・ベルン(同年6月24日)→ローザンヌ(同年6月29日)→ジュネーブ(同年6月29日)→ローザンヌ(同年7月12日)→ジュネーブ(同年7月12日)を視察します。

⑬ フランス

その後、明治6年(1873年)7月15日、フランスに入った岩倉使節団は、リヨン(同年7月15日)→マルセイユ(同年7月18日)を視察します。

そして、同地でヨーロッパ視察を終了させた岩倉使節団は、同年7月20日、マルセイユから郵船アウア号に乗ってイタリア・ナポリに向かい、そこからヨーロッパを後にします。

その後、同年7月26日にエジプト・ポートサイドを経て、同年7月27日にスエズ運河を通過し、同年8月1日にイエメン・アデン港を経て、アラビア海に乗り入れます。

植民地訪問(1873年8月から約2か月)

そして、明治6年(1873年)8月9日にスリランカ・ゴール港に入ると、その後、アジア各地にあるヨーロッパ諸国の植民地であるシンガポール→(同年8月18日)→サイゴン(同年8月22日)→香港(同年8月27日)→上海(同年9月2日)を経た後、太平洋郵船の「ゴールデンエイジ」号にて日本への帰路につきます。

帰国(1873年9月13日)

その後、長崎(1873年9月6日)→神戸(同年9月9日)を経て、明治6年(1873年)9月13日に横浜港に帰着しています。

帰国後の岩倉使節団

留守政府との対立

日本に戻った岩倉使節団は、欧米列強諸国と日本の文明力の違いに衝撃を受けます。

また、岩倉使節団は、留守政府が、自分たちが日本を離れている間に留守政府が重要な政策決定や人事登用をしないとした約定を破って、次々と強兵を主眼とする政治システムを構築していたことに驚きます。

西欧列強との経済力・軍事力を目にしてきた岩倉使節団は、まずは経済力を高めるために内政を優先すべきであるとの考えを持っていたため、留守政府が進めていた強兵を主眼とする政治システムの改善が必要であると考えました。

そこで、岩倉使節団の面々は、まずは留守政府が握っていた明治新政府内での権限を取り戻すために行動を開始します。

具体的には、留守政府で力を持ちつつあった江藤新平をはじめとして、政府首脳のメンバーを罷免して入れ替えていきました。

また、朝鮮出兵をという外征論をうたう留守政府との対立(征韓論問題)が明治六年の政変に発展したのですが、これを利用して最終的に明治天皇の英断を獲得し、政争に敗れた西郷隆盛が政府の役職を辞職させ、あわせて軍人・官僚合せて約600人が政府から追い出します。

これにより、明治新政府の構成員を岩倉使節団のメンバー(主に薩摩・長州出身者)で占めることに成功します。

文明開化

この結果、岩倉使節団は、それぞれの分野で殖産興業を進めていきます。

具体的には、大久保利通は工業の近代化に、木戸孝允は議会制民主主義にそれぞれ注力し、また同行した留学生も、帰国後に政治・経済・科学・教育・文化など様々な分野で活躍して日本の文明開化に大きく貢献していきました。

また、日本政府は、自らが文明国であると主張するため、明治8年(1875年)に朝鮮半島西側沿海で測量を行っていた日本軍艦が江華島に近づいて朝鮮から砲撃を受けるという事件をきっかけとして朝鮮に圧力をかけ(江華島事件)、翌明治9年(1876年)に日本側に有利な条件の日朝修好条規(江華条約)を締結させてています。

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