【松平清康】あと5年あれば天下を取れたと言われた徳川家康の祖父

松平清康(まつだいらきよやす)は、安祥松平家の3代当主であり、後の天下人徳川家康の祖父にあたる人物です。

安祥松平家の本拠地を岡崎に移した後、三河国を統一する寸前まで勢力拡大させ、僅か25歳の若さで非業の死を遂げなければ天下を取れたとまで言われた名将でした。

後の徳川家康躍進の基礎を作った人物でもあります。

本稿では、そんな隠れた名将・松平清康の人生について振り返っていきたいと思います。

松平清康の出自

出生(1511年9月7日)

松平清康は、永正8年(1511年)9月7日、西三河北部に勢力を持つ松平家の1つである安祥松平家2代当主・松平信忠の嫡男として生まれます。

母は大河内満成の娘であり、幼名は竹千代といいました。なお、本稿では説明上の便宜として、「松平清康」の名で統一します。

その容貌は、背が低く、眼は百済鳥のようであったと言われています(三河物語)。

松平家は、三河国加茂郡松平郷から興った一族であり、室町期に三河国額田郡岩津(現在の愛知県岡崎市)に本拠を移した後は三河の各要地に分家を配置しながら南に向かって勢力を広げていきました(戦国期には「十八松平」と呼ばれるまでに枝分かれしています。)。

この松平家の惣領(嫡流)は、岩津城(現在の岡崎市岩津町)を本拠とする岩津松平家であり、松平清康が生まれた安祥松平家は、岩津松平家の傍流にすぎませんでした。

もっとも、永正3年(1506年)に今川氏親の名代として1万人の兵を率いて進軍してきた伊勢盛時(北条早雲)の軍勢により岩津城が落城した際、その援軍として駆け付けた安祥松平家の松平長親が井田野において寡兵をもって今川勢を破って勇名を轟かせたことから、以降、安祥松平家が岩津松平家に代わって惣領化していくようになっていました(なお、岩津領は、後に安城家の庶流である三木松平家の松平信孝によって押領されています。)。

安祥松平家の家督相続(1523年)

他方、永正14年(1517年)には、駿河国を治める今川家が遠江国曳馬の吉良領を攻略して遠江国を統一するなどしてその勢力を西に広げていき、西三河にも迫ってきます。

ところが、これを迎え撃つはずの安祥松平家2代当主・松平信忠の器量は凡庸であったため、西進してくる今川家に対する有効な手立てを打つことができませんでした。そればかりか、松平信忠は、一門衆・家臣団からの信望を得られなかったため、安祥松平家自体が空中分解寸前の危機に陥ります。

困った先代の松平長親(道閲・松平清康の祖父)は、一門衆と協議を重ね、大永3年(1523年)、松平信忠を強制的に隠居させるというクーデターを起こします。

この結果、神輿として担ぎ上げられた松平清康が、元服をして僅か13歳にして安祥松平家の家督を相続することとなります。

松平清康は、元服に際し、その権威を高めるために吉良持清の偏諱を受けて松平清孝(まつだいらきよたか)を名乗ります。

なお、松平清康名で発給された文書は現存していないため、実は、文書上は松平清康という名は確認できていないため、「松平清康」名を避けるべきであるとする説もあるのですが、同名が一般に知られていることからどこかの段階で改名された可能性があるため、本稿では同名での表記で統一します。

叔父である松平信定との確執

松平信忠の隠居に際し、安祥松平家中ではまだ若い松平清康(松平信忠の子・松平長親の孫)ではなく、松平信定(松平信定の弟・松平清康の叔父)を望む声がありました。

先代当主であった松平長親もまた、松平清康よりも松平信定を望んでいた様子もありました。

もっとも、松平信定は、松平親房(親忠の四男、入道宗安)の婿養子として安祥松平家から出た立場であったために安祥松平家の当主となるにはふさわしくないとの判断がなされ、次期当主が松平清康に決まったのです。

この結果、松平信定は、叔父の所領であった三河国碧海郡桜井(現在の愛知県安城市桜井)に桜井城を築いて居城とし(桜井松平家)、甥である松平清康に仕える立場となりました。

もっとも、松平信定は、この立場に納得ができず、その後は安祥松平家の跡目を窺う動きを始めます。

三河国制圧戦

奥三河・足助城攻略戦(1525年)

安祥松平家の家督を継いだ松平清康は、西進してくる超大国・今川家に対抗する力を得るため、武力による三河国の平定を進めていきます。

まずは、大永5年(1525年)、奥三河(三河国加茂郡足助庄、現在の愛知県豊田市足助町)にある足助城を取り囲み、姉を城主・鈴木重政の嫡子である鈴木重直に輿入れさせることでこれを傘下に組み込みます。

ここで松平清康に幸運が訪れます。

大永6年(1526年)に今川家当主であった今川氏親が死去し、後を継いだ幼い今川氏輝が西進政策から対武田政策へと方針を大転換したのです。

これにより、今川の脅威が薄れたため、松平清康は三河国内での積極的な勢力拡大政策が可能となります。

岡崎松平制圧戦(1526年)

松平清康は、大永6年(1526年)、矢作川を挟んだ東側に位置する岡崎松平家の攻略に着手することとし、宇津忠茂(大久保忠茂)の進言に従い、まずは計略を用いて岡崎城の南東部に位置する山中城を開城させます。

これにより、岡崎城を東西から挟み込むことに成功した松平清康は、岡崎城に籠る松平昌安(西郷信貞)に対して降伏を勧告します。

勢いに押された松平昌安は、松平清康からの降伏勧告を受け入れ、娘の於波留を松平清康に嫁がて岡崎城を開城し、大草(現在の愛知県額田郡幸田町)に退きます(この結果、岡崎松平家は、後に大草松平家と呼ばれるようになります。)。

岡崎松平家を追い払った松平清康は、当時明大寺(現在の愛知県岡崎市明大寺町に)にあった旧岡崎城に安祥松平家の拠点を一旦移した後、松平昌安の娘である於波留を正室にしてその権威を用いて岡崎統治を始め、さらに龍頭山に新岡崎城の築城を開始します。

なお、三河国平定戦を進める松平清康を横目に、桜井松平家の松平信定が独断で動き始め、大永6年(1526年)ころからは松平清康と敵対していた織田弾正忠家に接近していきます(松平信定の嫡男である松平清定の室として織田信秀の妹を迎え、さらに後に松平信定の娘を織田信光に嫁がせて関係を深めていきます。)。

勢力急拡大(1529年)

岡崎に進出した松平清康は、享禄2年(1529年)、東側(今川氏輝)の脅威が薄れた隙をついて西側にある尾張国への侵攻を開始します。

ところが、この尾張国侵攻は、織田弾正忠家と接近しつつあった松平信定(桜井松平家)にとって認めがたいものであったため、尾張国侵攻によって松平信定と松平清康との関係悪化が表面化していきます。

享禄2年(1529年)、一旦は松平清康の命によって織田弾正忠家の将である酒井秀忠が守品野城(瀬戸市)や岩崎城を落とした松平信定でしたが、その後松平清康に対して不穏な動きを示すようになっていきます。

また、尾張国へ侵攻した松平清康は、奥三河の山家三方衆(田峯城菅沼氏・長篠城菅沼氏・亀山城奥平氏)を屈服させた後、今川家の動きが悪いと見て兵を転進させ、西三河南部の尾島城(小島城、現在の愛知県西尾市)を陥落させ、またその後、東三河の今橋城(後の吉田城)、牛久保城などを次々と攻略していきます。

享禄3年(1530年)、松平清康は、降伏勧告を拒んだ熊谷実長が籠る八名郡の宇利城攻撃に入ったのですが、このときに松平信定が大手口を攻撃していた福釜松平家の松平親盛に援軍を送らなかったために同人を討ち死にすることとなり、この結果、陣中で松平清康が松平信定を罵倒するという事件が起こり(三河物語)、松平清康と松平信定の亀裂が決定的なものとなります。また、吉田城攻めの際にも、敵中に突撃した松平清康を見て、「大将に討ち死にをさせよ」と発言して敢えて制止しなかったとも言われています。

その後、宇利城は同年11月4日に陥落し、その後、松平清康の勢いを見た渥美郡田原の戸田氏も下ったため、松平清康は三河国内の最大勢力となったのですが、同時に、松平信定という獅子身中の虫を抱えることともなってしまいました。

岡崎への本拠地移転(1530年ころ)

享禄3年ないし同4年(1530年ないし1531年)に新岡崎城が完成すると、松平清康は、安祥松平家の本拠を岡崎に移し、明大寺から大林寺を城の北側に、安祥から甲山寺を城の北東側に移設し、さらに菅生川の南に龍海院を建てるなどして、新岡崎城周辺の経済環境・防衛環境を整えていきます。

また、岡崎五人衆・代官・小代官による支配体制を整備するなどして、岡崎の地を中心として三河の実質的な支配権を確立させていきます。

世良田姓を名乗る

また、勢力拡大に伴い、その権威性をも高めるため(従来の支配層である吉良家との比較という点でも重要でした。)、松平家が清和源氏の流れをくむ新田氏一門である得川氏の庶流・世良田氏の流れの家柄であると称し始めます。

この結果、松平清康は、以降、世良田次郎三郎と名乗ることとなりました。

なお、後に松平清康の孫である徳川家康が松平から徳川への名字変更を行う際に、このときに松平清康が世良田姓(得川姓)を名乗ったことを理由としています。

松平清康の最期

尾張国再侵攻(1535年12月)

その後も勢力拡大を続ける松平清康は、織田信秀と戦いを続ける織田藤左衛門尉(織田寛故)を支援するという名目で、天文4年(1535年)に再び尾張国侵攻作戦を開始します。

尾張国に入った松平清康は、同年12月、織田信光(桜井松平家・松平信定の娘婿、織田信秀の弟)の居城であった守山城に取りつき、攻城戦を開始します(なお、信長公記では「守山」、三河物語では「森山」と記載されています。)。

森山崩れ(守山崩れ、1535年12月5日)

守山城を取り囲むように布陣した松平清康軍では、その家臣であった阿部定吉に謀反の噂が立っていました。

松平清康自身は、阿部定吉を信頼していたためにこの噂を信じていなかったのですが、家臣団の中には阿部定吉に疑念を抱いている者が多くいる状況でした(この風説を流布したのは、桜井松平家の松平信定であったとも言われているのですが、詳細は不明です。)。

そのため、阿部定吉は、嫡男の阿部正豊に対し、もしも自分が謀反の疑いによって殺されたならば誓書を松平清康に見せて自らの潔白を証明して欲しいとお願いをしていました。

そんな中、事件が起こります。

天文4年(1535年)12月5日早暁、松平清康の本陣で馬離れの騒ぎが起こったのですが、この騒ぎを聞いた阿部正豊が、父・阿部定吉が松平清康に粛清されたと勘違いして松平清康を斬殺してしまいます。なお、このとき阿部正豊が使用した刀は、徳川に仇なす刀といわれる村正の1つである「千子村正の刀」であったと伝えられています(改正三河後風土記)。

「あと五年あれば天下を取れた名将」と言われた松平清康の早すぎる死でした。享年は25歳でした。

主君殺しの大罪を犯した阿部正豊はその場で殺されたのですが、当主を失った松平軍は守山城攻めを維持できずに岡崎に撤退することとなります。

松平清康の遺体もまた岡崎まで運ばれることとなったのですが、途中、腐敗が酷くなったため、同中にあった観音寺(現在の愛知県西尾市長縄町)に一旦葬られた後、安祥松平家の菩提寺である大樹寺に移されました。

その後の安祥松平家

「善徳公(御諱清康安祥二郎三郎殿と世に称し申す)士卒をあはれみ、勇材おはしませしかば、人々其徳になびき従ひ奉れり」(江戸中期の逸話集・常山紀談)と評された松平清康の死は、安祥松平家を危機に陥らせます。

松平清康の死を知った織田信秀が、間もなく(時期については資料により異なります)、混乱する松平領への侵攻を開始し、また、その後に尾張国遠征に参加していなかった松平信定が、松平清康の遺児である竹千代(後の松平広忠)と対立してこれを伊勢国に追放してしまったからです。

ここから安祥松平家、徳川家康によって独立が果たされるまで苦難の道を進むこととなるのですが、長くなりますので以降の話は別稿に委ねます。

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