【御三卿】紀伊徳川系で徳川将軍家を承継する目的で創設された分家

御三卿(ごさんきょう)は、江戸時代中期の第8代将軍・徳川吉宗と、第9代将軍・徳川家重の子によって創設された徳川将軍家の一門家です。

紀伊徳川家出身の徳川吉宗が、ライバルである尾張徳川家の影響力を低下させるために創設されたと考えられており、徳川宗武(徳川吉宗三男)を家祖とする田安徳川家、徳川宗尹(徳川吉宗四男)を家祖とする一橋徳川家、徳川重好(徳川家重次男)を家祖とする清水徳川家がこれに該当します。

御三家に次ぐ高い家格を持つとしながらも当初は大名として藩を形成することも政治権力を持つこともなく、将軍の親族でありながら将軍家の部屋住みとして扱われ、将軍家や親藩大名家に後継者がない場合に養子を提供することを主な役割とするに過ぎない家でした。

もっとも、幕末期には幕政にも関与するようになり、江戸幕府最後の将軍である第15代将軍・徳川慶喜が一橋家から輩出されたことでも知られています。

御三卿創設の経緯

徳川御三家創設

江戸幕府を開幕した徳川家康は、徳川家中で相続争いが起きないようにするためにその能力や美醜を問わず直系嫡男相続を制度化した上で、それを補佐させるために出来る限り多くの後継ぎ候補を儲けるべく20人以上の側室を娶り、その間に多くの子を儲けました。

その上で、徳川家康は、徳川宗家(徳川家康→徳川秀忠→徳川家光という直系血筋)の血縁が途絶えた際の保険とするために分家の設置を進めていきました。

そして、その後の紆余曲折を経て、18世紀初めころまでに尾張徳川家・紀伊徳川家・水戸徳川家の3家が徳川宗家(将軍家)に次ぐ家格を持ち、将軍就任資格を持つとして徳川の苗字を称することを許された3つの特別な分家(徳川御三家)となるに至りました。

徳川吉宗の将軍就任(1716年7月18日)

享保元年(1716年)4月30日、第7代将軍徳川家継がわずか8歳で早世したことにより、徳川宗家であった徳川秀忠の男系が絶えてしまいます。

この結果、江戸幕府開幕以来初めて分家である徳川御三家から次期将軍が選ばれることとなりました。

このとき、大奥の有力者であった天英院が徳川吉宗を指名したこともあり、最終的には紀伊徳川家の徳川吉宗が御三家筆頭の尾張藩主を抑えて江戸幕府第8代将軍に就任することに決まります。

この結果、徳川吉宗は、享保元年(1716年)7月18日、征夷大将軍・源氏長者宣下を受け、江戸幕府第8代将軍となったのです。

徳川吉宗の思惑

将軍に就任した徳川吉宗は、以降も自身の血統である紀伊徳川家での将軍継承を志向し、ライバルでもあり自らも将軍の座を争うこととなった尾張徳川家を追い落としを模索します。

この尾張徳川家排除策として考え出されたのが、新たな将軍継承可能家の創設でした。

この時点で将軍継承可能家として、尾張・紀伊・水戸の3家があったのですが(そのため紀伊系は1/3)、ここに紀伊系の自らの子孫を加えるとその紀伊系での承継の可能性が高まると考えたのです(2家創設だと紀伊系が3/5、3家創設だと紀伊系が4/6)。

御三卿創設

他方、徳川吉宗治世頃になると、徳川吉宗自身が享保の改革を進めなくてはならない程に幕府財政が悪化しており、もはや江戸幕府に将軍の庶子を大名として独立させていく経済的余裕はありませんでした。

そこで、徳川吉宗は、自身の4人の男子のうち、将軍職を継ぐ長男・徳川家重以外の三男・徳川宗武、四男・徳川宗尹(二男は夭折)を大名として独立させるのではなく、これらを部屋住みの扱いにして江戸城内(将軍家)に留めておき、折を見てしかるべき大名家へ養子として送り込むなどして新たな将軍継承家を作り出そうと考えました。

御両卿(田安家・一橋家)創設

こうして、徳川吉宗は、三男・徳川宗武と四男・徳川宗尹に江戸城内に屋敷を与えて「将軍家の部屋住み」として将軍庶子の江戸待機の先例を作って手元に置き続けました。

もっとも、この両名がどこかの大名家に養子に出されることはなく、三男・徳川宗武には享保16年(1731年)に、四男・徳川宗尹には元文5年(1740年)に江戸城内に屋敷が与えられて新家が創設されるに至りました(なお、これらの新家は、屋敷地が所在する江戸城内の最も近い城門の名称からそれぞれ田安家・一橋家と呼ばれました。)。

そして、創設された田安家・一橋家は、かつて御三家となったことがある両典厩家(甲府家・館林家)の例に倣い、「御両卿(ごりょうきょう)」と呼ばれ、それぞれ幕領より賄料として合力米3万俵は支給されることとされました(延享3年/1746年にそれぞれ10万石に増額)。

また、家臣も幕府からの出向者が割り当てられ、家老は御付人にて定員2名とされました。

以上のように、田安家・一橋家(後の清水家も同様)は、屋敷・賄料・家臣のいずれもが幕府から与えられていたため、独立の大名に数えず、あくまで将軍の親族にとどまる扱いとされました。

そのため、創設当初の御両卿では、当主本人(屋敷主)やその嫡子が養子となって御三家や越前家を相続した例があるなど家督相続により家を永続させるという前提がなく、当主(屋敷主)不在となっても屋敷・領地・家臣団は存続したまま将軍の新たな庶子を待つ「明屋敷(あけやしき)」の措置がとられました。なお、明屋敷は、田安家で1度・一橋家で1度・清水家で4度発生しています。

徳川吉宗将軍引退(1745年9月25日)

徳川吉宗は、延享2年(1745年)9月25日、将軍職を長男・徳川家重に譲って隠居したのですが、第9代将軍となった徳川家重は幼少期に患った脳性麻痺により言語不明瞭で政務を執ることが困難であったため、以降も徳川吉宗が大御所として実権を握り続け、徳川家重の子である徳川家治の成長を待つこととなりました。

なお、病弱な徳川家重ではなく、聡明な御両卿から将軍を迎えようとする動きもあったのですが、将軍継嗣争いを避けるため、長子相続という将軍家の慣例に従ってあえて長兄である徳川家重が選ばれたとも言われています。

清水家創設(1759年)

将軍職を継いで第9代将軍となり2男を儲けた徳川家重は、宝暦9年(1759年)、その二男・徳川重好に対して江戸城内の屋敷を与えて新家を創設されます。

このとき徳川重好に与えられた屋敷が清水門に近かったことから、同家は清水家と呼ばれるようになりました。

そして、この清水家にも幕領より賄料として10万石が与えられることとなり、同家とそれまでの御両卿(田安家・一橋家)とを合わせて「御三卿」と呼ばれるようになりました。

なお、御三卿という名称は、これら3家の当主が元服時に公卿位である従三位に昇ることから付されました。

御三卿の位置づけ

将軍継嗣資格を事実上紀伊徳川家で独占

以上の経過を経て創設された御三卿は、御三家に次ぐ家格を持つと考えられるようになり、徳川将軍家に後嗣がないときに後嗣を出す資格があるとされました。

この御三卿の創設により、将軍後嗣を出し得る家が、それまでの御三家(尾張・紀伊・水戸)に紀伊徳川家をルーツとする御三卿(田安・一橋・清水)が加わり、合計6家となりました。

そして、この6家のうち、水戸が格下として事実上のランク外とされたため、実質的には5家(尾張・紀伊・田安・一橋・清水)となったのですが、そのうちの4家(紀伊・田安・一橋・清水)が紀州藩・徳川吉宗に連なる血筋となりました。

この結果、徳川吉宗の思惑通り、将軍継承資格から尾張徳川家を事実上締め出すことに成功しています(4/5が紀伊系・1/5が尾張)。

政治力・軍事力の不保持

自領を有し藩を運営しなければならなかった御三家(尾張徳川家・紀伊徳川家・水戸徳川家)とは異なり、独立した家をなさずに将軍の親族として江戸城内に屋敷が与えられていただけの御三卿には、領国経営・軍役・参勤交代の義務がありませんでした。

そのため、御三卿は、将軍の親族として幕府の儀式に参加する程度の公務に参加する義務があるだけで、政治的な面では何もすることがありませんでした。

その結果、御三卿の主な役割は、将軍家に後嗣がないときのスペアと(一橋家からの第11代将軍徳川家斉・第15代将軍徳川慶喜、明治維新後の田安家の徳川家達など)、その家格の高さを利用しての御三家・譜代大名家への養子提供に限られていきました。

また、独立した家と扱われなかった御三卿では、相続の概念が用いられず、当主の実子が家督を継ぐ場合でも将軍から改めて賄料を与えられるという形をとり、「相続」の語は用いられませんでした。

待遇

御三卿当主候補者が元服すると従三位に叙されて八省の卿もしくは右衛門督の官職と権中将を兼任し、家督相続により御三卿当主となった後は参議となって田安・一橋・清水を号し、長寿に達すると権中納言や従二位権大納言へ昇進するのが通常でした(第11代将軍徳川家斉実父の一橋家2代・徳川治済は生前に従一位准大臣に昇り、没後太政大臣を追贈されています。)。

また、江戸幕府内においても、政治的権力を持たなかった御三卿でしたが、その格式は尾張徳川家と紀伊徳川家に準じるものとされ、その当主及び嫡子には徳川の苗字の使用を許されました(庶子は松平)。

さらに、御三卿正室は、御三家正室と同様に「御簾中」と呼ばれ、同等の扱いを受けました。

そして、御三卿の席次は、御三家の当主とその嫡子の間とされ、形式的には江戸城中において老中や大老よりも上位とされました。なお、御三家の家格は尾張>紀州>水戸で固定していたに対し、御三卿の家格任官した順番により前後しました。

領地との結びつき

前記のとおり、御三卿はいずれも独自の城を持たず、江戸城内に与えられた屋敷地に居住しました。

そのため、関東と畿内周辺の数か国に分散していた各10万石の御三卿領は、郡代の下に置かれた代官所によって運営されました。

江戸城内に留まっていたこともあり、御三卿と領地の結びつきは極めて弱いものとなっていました。

創設後の御三卿

御三卿が政治に関与し始める

以上のとおり、将軍を輩出するための家格のみ高く、実質的には無力だったはずの御三卿でしたが、江戸城中における政治の担い手である老中や大老よりも上位の席次にある上、江戸に常在しているためにその影響力が高まっていき、次第に政治に口を出し始めるようになります。

特に、一橋家2代・徳川治済と、その子である第11代将軍・徳川家斉が多子だったこともあり、一時期は一橋家の血筋が、将軍・御三卿・水戸家以外の御三家・親藩や、外様大名のうちの福岡藩黒田家まで及ぶこととなり、絶大な影響力を手にしました(もっとも、その後、一橋家祖・徳川宗尹の血筋は田安家でしか続かず、逆に御三家から庶子や隠居した元当主が入って一橋家や清水家を相続するという、複雑な関係となりました。)。

御三卿の性質変化

幕末期に徳川宗尹の直系が絶えた一橋家に、水戸徳川家から徳川慶喜が入り、幕政に名実ともに深く関わっていきます。

このとき、徳川慶喜は、幕政や家領の経営に直接当たり、家領で農兵の徴募を行って直属の兵を整えていきます。

また、徳川慶喜の弟である徳川昭武が明屋敷となっていた清水家を継ぎ、幕府の遣欧使節団の代表を務めた後に留学生活を送るなどして、ほぼ全期をヨーロッパで過ごすに至っています。

明治期以降の御三卿

田安藩・一橋藩立藩(1868年5月)

明治維新後の明治元年(1868年)5月に田安家・徳川慶頼と一橋家・徳川茂栄が立藩し、新政府より独立藩として認められます(維新立藩・徳川宗家も静岡藩立藩)。

なお、清水家については、当主であった徳川昭武が、徳川慶喜の名代としてパリ万国博覧会に参加するために渡欧していた上、帰国後に水戸家を相続することが決まっていたため立藩されることはありませんでした。

田安藩・一橋藩廃藩(1869年)

もっとも、領地との関係が薄かった田安藩・一橋藩は、翌明治2年(1869年)の版籍奉還の際に他藩に先立って廃藩とされました。

このとき、田安藩・一橋藩共に知藩事に任命されることはなく、田安家は3148石・一橋家は3805石の家禄が支給されるにとどまりました(明屋敷となっていた清水家も、明治3年/1870年に家督相続した徳川篤守に家禄2500石が支給されるにとどまりました。)。

伯爵叙爵(1884年)

その後、明治17年(1884年)の華族令により、御三卿がそれぞれ伯爵を叙爵しています。

もっとも、清水家は、明治32年(1899年)に当主の徳川篤守の借金問題により爵位を返上した後、昭和3年(1928年)に航空分野での功績から徳川好敏(徳川篤守の子)が男爵に返り咲いています。

他方、伯爵を維持した田安家・徳川達孝(徳川家達実弟)と一橋家・徳川宗敬は、貴族院伯爵議員として政府政治に携わることとなり、特に徳川宗敬は第二次世界大戦後に最後の貴族院副議長を務め、参議院議員在職時にはサンフランシスコ講和条約調印の際に日本側全権委員に加わるなどの活躍をしています。

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