【フェートン号事件】長崎の黒船来航

フェートン号事件は、文化5年(1808年)8月、鎖国体制下の長崎港にイギリス軍艦が侵入し、江戸幕府の遠国奉行(地方機関)である長崎奉行から薪・水・食料を脅し取った事件です。

ヨーロッパにおけるナポレオン戦争で争っていたイギリスとフランスの争いの余波が日本にまで飛び火して発生した事件であり、フランスの支配下に入ったオランダの船舶を追って長崎湾に入って来たイギリス船・フェートン号が、ことのついでに長崎奉行を脅して物資を強奪していきました。

イギリス艦・フェートン号には日本(江戸幕府)と事を構える意思はなく、また日本側にも人的被害が出なかった事件ではあるのですが、国の1つの地方機関が、たった1隻の軍艦の武力に屈するという国辱的事実を全世界に知らしめてしまった事件となりました。

本稿では、フェートン号事件に至る国際情勢を簡単に説明した上で、フェートン号事件の経緯について説明していきたいと思います。

フェートン号事件発生の経緯

江戸幕府の鎖国政策(1641年)

寛永16年(1639年)にポルトガル人船の来航を禁じて鎖国体制を作り上げた江戸幕府は、ヨーロッパ諸国のうちでは商業的な貿易のみを目的とすることを約束したネーデルラント連邦共和国(後のオランダ)のみ通商を許可します。

その後、寛永18年(1641年)、オランダ東インド会社の商館が、平戸から長崎出島(ポルトガル人が出国したため空き地となっていました)に移されました。

以降、出島においてオランダ商館との貿易が行われるようになりました。

なお、江戸時代初期にはイギリスも平戸に商館を設置して日本と貿易していたのですが、オランダとの営業競争に敗れて元和9年(1623年)に長崎平戸の商館を閉館して対日貿易から撤退しています。

鎖国体制の危機

19世紀頃になると、鎖国政策をとっていた日本に外国船が頻繁に接近してくるようになります。

まず、最初に問題となったのはロシアでした。

寛政元年(1789年)におこった国後島におけるアイヌ蜂起の際にロシアとの連携を危惧し、江戸幕府は蝦夷地と江戸湾の海防の強化を始めます。

また、江戸幕府は、寛政10年(1798年)に近藤重蔵・最上徳内らに択捉島を探索させて「大日本恵登呂府」の標柱を立てたり、寛政12年(1800年)に八王子千人同心を蝦夷地に入植させた上で享和2年(1802年)に東蝦夷地を直轄化したりしてロシアとの境界線の特定を意識する行動を始めます。

こうした北方対策に苦慮していた江戸幕府に対し、南方でさらなる衝撃を与えた事件が本稿で問題となるフェートン号事件です。

ネーデルラント連邦共和国滅亡(1795年)

フェートン号事件発生のきっかけは、当時、ヨーロッパで勃発していたナポレオン戦争(フランス革命でフランス皇帝となったナポレオンによるヨーロッパ侵略戦争)でした。

ナポレオンに率いられてヨーロッパ各地を転戦したフランス軍は、1794年9月にオランダへの侵攻を開始し、1795年1月にネーデルラント連邦共和国を滅亡させて、同地にフランスの傀儡国家であるバタヴィア共和国を建国します。

そして、その後、ナポレオンは、1806年に弟のルイ・ボナパルトをオランダ国王に任命し、バタヴィア共和国が消滅してホラント王国(オランダ王国・1810年にフランスに併合)を成立させます。

この結果、オランダがフランスの支配下に入ることとなり、オランダ貿易商もまたその支配下で対日貿易を続行することとなりました。

フランスとイギリスとの対立

他方、ナポレオン戦争は、ヨーロッパのみならず世界各国に広がっており、アジアの植民地争奪戦にまでその影響を及ぼしていました。

そして、フランスと対立するイギリスが、ネーデルラント連邦共和国滅亡により統治力が失われたアジア各国のオランダ領を獲得するために、アジア各地に軍艦を派遣してオランダ領を制圧した上で、オランダ船を拿捕するなどしてアジアの制海権を獲得していきます。

以上のとおり、ナポレオン戦争の余波がアジアの海にも及んでおり、東アジア海域でも、イギリス海軍とフラン海軍(オランダ海軍)とのせめぎあいが続いている状態となっていました。

以上の状況下で発生したのがフェートン号事件です。

フェートン号事件

フェートン号長崎侵入(1808年8月15日)

前記のとおり、イギリスは、東アジアに軍艦を派遣してフランス船の掃討作戦を展開していたのですが、その対象は、フランスの支配下にあったオランダ船にも及びます。

このとき東アジアに派遣されていたイギリス海軍のフリゲート艦フェートン号(フリートウッド・ペリュー艦長)は、オランダ船の貿易港となっている長崎出島近海をパトロールし、オランダ船がいればそれらを拿捕しようと考えます

もっとも、この時点では、江戸幕府は国交のないイギリス船の長崎入港を認めないことは明らかですので、フェートン号は、にオランダ国旗を掲げることにより国籍を偽って長崎湾に侵入します。

そして、フェートン号は、文化5年(1808年) 8月15日、長崎港の南側(現在の女神大橋の南側辺り)に停泊して長崎湾を封鎖し、ボートを出して、長崎港付近でオランダ船を捜索し始めます。なお、フェートン号が長崎に侵入した月が8月であった理由は、オランダ船は当時のオランダのアジア拠点であったバタヴィア(現在のインドネシア・ジャカルタ)から季節風を利用して西進してくるため長崎・出島に入港するのが7~8月、出航するのが11月となるのが一般的であったため、8月であれば長崎湾内に多数のオランダ船が停泊しているであろうと考えたためと推測されます。

オランダ商館員2名拉致

他方、長崎湾に停泊したフェートン号にオランダ国旗が掲げられていたため、出島のオランダ商館は同船がオランダ船であると誤認し、慣例に従って、オランダ商館員ホウゼンルマン及びシキンムルの2名が、長崎奉行所のオランダ通詞らを連れて小舟でフェートン号を出迎えて同船に乗り込もうと試みます。

フェートン号としては、オランダ商館員が乗り込んで来れば国籍を偽っていたことがバレてしまいますので、秘密裏に行っていたパトロール作戦を終了させ、強硬策に出ることとします。

具体的には、オランダ商館員2名を拉致してフェートン号に連行した上で、オランダ国旗をイギリス国旗に掲げ直した上で、武装ボート3隻を下ろして大々的に長崎湾内でのオランダ船の捜索を始めます。

江戸幕府側の失態

突然イギリスの武装ボート3隻が長崎湾内を動き回ることとなったため、これを見た長崎住民はパニックに陥ります。

また、当然ですが、このあまりに横暴なイギリス艦の行動に江戸幕府側は激怒します。

長崎港の長である長崎奉行・松平康英は、オランダ商館長(カピタン)ヘンドリック・ドゥーフを避難させた上で、商館員2名の奪還を約束し、長崎湾内の警備を担当する佐賀藩にフェートン号の抑留または焼き討ちを命じます。

この点、天領(江戸幕府直轄領)である長崎の警備は、寛永18年(1641年)から福岡藩と佐賀藩が1年交代で1000人の兵を駐屯させて長崎の警備を担うこととされており、このときは佐賀藩の担当年でした。

ところが、2年に1度の頻度で1000人もの兵を1年間長崎に留めておく費用負担は相当なものであり、藩の財政を大きく圧迫していましたことから、佐賀藩は、経費削減のために江戸幕府に無断で警備人員を10分の1である100人程度にまで減らしていたのです。

そのため、長崎奉行の松平康英から対応を命じられた佐賀藩は、人員不足からフェートン号に対して何らの対応もできませんでした

佐賀藩兵がいないと聞かされた長崎奉行・松平康英は焦ります。

困った松平康英は、急ぎ、薩摩藩・熊本藩・久留米藩・大村藩などの九州諸藩に応援の出兵を求め、フェートン号に対応するための兵を出すよう求めます。

脅迫に屈する(1808年8月16日)

何らの対応をとることができない江戸幕府の状況を見たフェートン号艦長のペリューは、文化5年(1808年)8月16日、商館員の1人を解放した上で、ことのついでに長崎奉行に対して出港準備のための薪・水・食料(米・野菜・肉)の提供を要求し、これがない場合は港内の和船を焼き払うと脅迫します

この脅迫に対し、フェートン号に対する対抗手段のない長崎奉行・松平康英は、オランダ商館長(カピタン)であったヘンドリック・ドゥーフの説得もあって、フェートン号の要求に屈するという選択をします。

松平康英は、せめてもの抵抗として要求された水の提供を少量し、翌日以降に追加提供すると偽って、九州諸般からの応援兵力が到着するまでの時間稼ぎを図ることとし、長崎奉行所にて手配した食料・飲料水と、オランダ商館から提供された豚と牛をフェートン号に積み込みます。

そして、これらの提供を受けたフェートン号では、残る1人の商館員を釈放して出航の準備を始めます。

フェートン号出港(1808年8月17日)

翌文化5年(1808年)8月17日未明、大村藩主・大村純昌が藩兵を率いて長崎に到着し、松平康英と大村純昌がフェートン号に対する抵抗策の協議を始めたのですが、長崎湾内にオランダ船がいないことを確認したフェートン号としては、そのまま同地に停泊する理由がないため、焦る幕府方を無視してゆうゆうと出航して長崎港外に去ってしまいました。

以上がフェートン号事件の経緯です。

フェートン号事件後

長崎奉行切腹と肥前藩処分

以上のとおり、フェートン号事件は、江戸幕府側から見ると、1つの国家防衛機関がたった1隻の軍艦に脅されてこれになすすべもなく屈して薪・水・食料を脅し取られたという国辱的な事件です。

文化5年(1808年)8月17日、長崎奉行・松平康英が、他国の脅迫に屈してしまった国辱の責任を取って自らの意思で切腹します。

また、長崎防衛の兵を江戸幕府に無断で削減させていた佐賀藩士数人も責任を取ってこれに続いて切腹します。

さらに、江戸幕府は、長崎警備の任を怠った責めを追及し、同年11月、佐賀藩主・鍋島斉直に100日の閉門を命じました。

以降の江戸幕府の対応

長崎では、フェートン号事件の失態を反省し、ドゥーフや長崎奉行・曲淵景露らによって臨検体制の改革が行われ、秘密信号旗を用いるなど外国船の入国手続きが強化されました。

もっとも、その後も日本近海にイギリス船の出現が相次ぎ、文政7年(1824年)の大津浜事件と宝島事件の後、江戸幕府は文政8年(1825年)、日本の沿岸に接近する外国船は見つけ次第に砲撃して追い返すべきとする異国船打払令を発令するに至ります。

以降の肥前藩の近代化

また、フェートン号事件により、身をもって諸外国との科学技術力の差を見せつけられた佐賀藩では、ここから大きく舵を切り、近代化を目指して富国強兵化政策を進めていきます。

鍋島直正(閑叟)が第10代藩主に就任すると、大がかりなリストラを行って役人を4割程度にまで削減して経費を節減し、また交易・産業育成・農業改革などに尽力し藩財政を潤わせていきます。

そして、これらにより捻出した資金を基に、科学技術の研究機関(精錬方)を創設し、鉄鋼・大砲・蒸気機関・電信・ガラスなどの研究・開発・生産を行って西洋技術の摂取に努めます。

そして、その後も佐賀藩は、一貫して産業革命を推し進め、日本有数の軍事力と技術力を獲得し、明治維新の立役者となっていくこととなりました。

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