豊臣秀吉が死去した後、その後釜を狙う徳川家康と、豊臣政権の維持を目指した石田三成が対立し、全国の大名がこのいずれかに与することで全国を二分する対立構造が出来上がります。
そして、慶長5年(1600年)9月15日、美濃国不破郡関ヶ原(現在の岐阜県不破郡関ケ原町)を主戦場として両陣営が激突する大戦に至りました。
あまりにも有名なこの戦いは徳川家康方の勝利に終わり、敗将となった石田三成は、戦後に同地からの逃亡したのですが、その後捕縛され斬首処分となっています。
もっとも、逃亡後から斬首までの経緯については余り知られていません。
これは、二次資料により様々な経緯が記載されているのですが、必ずしも確定的に明らかなものではないこともその一因となっていると考えられます。
本稿では、関ヶ原の戦い後の石田三成の行動について、諸説あるその逃走経路をかいつまみつつ、その概略を簡単に説明していきたいと思います(なお、一次資料による確定的なものではないため、あくまでも推測的な概略として見ていただければ幸いです)。
【目次(タップ可)】
関ヶ原の戦い敗戦後に佐和山城を目指す
関ヶ原の戦い敗戦(1600年9月15日)
関ヶ原の戦いの際に笹尾山(現在の岐阜県関ケ原町)に本陣を置いていた石田三成は、慶長5年(1600年)9月15日午後2時または3時頃、同地で自軍の総崩れを目にします。
こうなるともはや挽回の余地はなく、石田三成は、急ぎ同地から退却する必要に迫られました。
佐和山城帰還を目指す

このとき、石田三成は、一旦は自らの居城であった近江国佐和山城を最初の退却目的地として選択します。
自分の拠点ですので当然の選択です。
この点、佐和山城は、関ヶ原から30km程度しか離れていない上、中山道と北国街道を押さえる補給・通信の要衝であり、さらには琵琶湖水運を利用して大坂城に入っていた毛利輝元との連絡を取り合うことで再起を図ることができる場所として、退却先としても最適でした。
もっとも、敗将は落武者狩りの対象となるため、敗戦後の行動は容易ではありません。
しかも、関ヶ原の戦い後に陣場野(徳川家康最後陣地)で首実検を行っていた徳川家康が、届けられる石田三成方の大将首が少なかったことから、指揮下の諸将・在地勢力・民衆に対して石田三成方諸将の捕縛を命じたために大規模な山狩りが行われることとなり、石田三成の佐和山城帰還は困難を極めました。
佐和山城帰還を断念
そして、徳川軍が続々と居城である佐和山城に向かっていくのを見た石田三成は、佐和山城帰還を断念します。
本拠地帰還を諦めた石田三成は、伊勢方面から海路で大坂へ向かうか、または北陸へ抜けて親豊臣勢力と合流するかを検討しなければならなくなりました。
ここで、石田三成が選んだのは、北方への逃避行でした。
北方への逃亡に切り替える
9月15日(本戦当日)の逃走経路
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北を目指す石田三成は、笹尾山の本陣を捨てて、まずは伊吹山麓方面への逃走を始めました。
当時の近江・美濃の間には11本の峠道(当時の峠道は尾根を利用した最短ルートでした)があり、笹尾山から伊吹山方面へ抜けるためには、北国街道(北国脇往還)を通るのが最も便利なのですが、当然このような主要街道には徳川家康方の監視の兵が配備されていますので、石田三成がこのルートを通ることはできません。
そこで、脇道を選んで進むことします。
笹尾山を離れた石田三成は、伊吹山の尾根沿いに上平寺→弥高→春照→上野と進んで姉川を超えます。
そして、上板並(現在の米原市)を経て東草野の曲谷に辿り着いた石田三成は、同地にあった炭焼小屋(石田ヶ洞)に隠れて一夜を越しました(白山神社由緒書)。
なお、石田三成は、幼い頃に手習いを受けた草野谷で保護を求めたものの、徳川家康の厳しい探索を理由に断られたとする説もあります(庵主物語)。
9月16日の逃走経路
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翌慶長5年(1600年)9月16日、石田三成は、曲谷を出て七曲峠を越え、寺師を経て谷口集落(田根荘、現在の谷口集落は洪水被害により明治29年/1896年に当時の場所より南方に移動しています)に辿り着きます。
このとき、60戸規模の谷口集落の庄屋が石田三成を匿ってくれることとなり、石田三成は同地で2泊(同日及び翌同年9月17日)することとなりました。
もっとも、石田三成が谷口に滞在している間に悲しい出来事が起こります。
石田三成の居城であった佐和山城が落城したのです。
佐和山城落城(1600年9月17日)
関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康としても、石田三成が居城である佐和山城に戻って再起を図ろうとすることは容易に想像できます。
また、石田三成が関ヶ原の戦い本戦に多くの兵を動員していたとはいえ、その居城であった佐和山城には守備兵として約2800人が残されており、そこに指揮官が戻ってくるとやっかいです。
そこで、徳川家康は、関ヶ原の戦いに勝利した当日は兵を休ませ、その後に小早川秀秋軍を先鋒とする攻撃隊を編成し、直ちに佐和山城攻めを命じます。
そして、慶長5年(1600年)9月17日、小早川秀秋軍を先鋒とする佐和山城攻撃が始まります。
城主不在の状況で始まった防衛戦では佐和山城側の士気を維持できず、同年9月18日に佐和山城内で長谷川守知などが裏切って徳川方を手引きしたため、石田正継・石田正澄・皎月院(三成の妻)などの石田一族が戦死または自害し、佐和山城が落城します。
9月18日の逃走経路
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佐和山城が陥落した翌日である慶長5年(1600年)9月18日、石田三成は、谷口集落を出発してさらに北に向かうこととしました。
なお、石田三成は、谷口の地を出発するに際し、自らに良くしてくれた谷口集落の庄屋に持っていた刀・鳩八の紋・石田姓を与え、その恩に報います。そして、石田姓を与えられた庄屋の家では、これを御神体として祠(平成29年/2017年建替)を建てて石田三成を祀ることとしています。
谷口集落を出発した石田三成は、小谷山の北側を抜けて高野(現在の滋賀県長浜市高月町)を経て北進していきました。
そして、同日、古橋にあった法華寺(現在の滋賀県長浜市木之本町古橋)に到達します。
石田三成は、幼少期に法華寺の塔頭であった三珠院茶坊主を務めて修行していたとする説もあり(三珠院が有名な三献の茶のエピソードの舞台となった場所とする説もあります)、また石田三成の母が古橋出身だったこともあって、法華寺周辺は良く知った場所でもありました。
そこで、真偽は明らかではありませんが、同日は、石田三成が三珠院で1泊した可能性が高いと考えられます。
9月19日の逃走経路
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もっとも、法華寺の塔頭である三珠院に滞在することは余りに危険ですので、石田三成は、翌慶長5年(1600年)9月19日、三珠院を出てさらに北に向かいます(三珠院を出た理由が石田三成の意思によるものだったのか、追い出されたためであったのかは不明)。
ところが、連日の逃避行で消耗し、さらになれない逃亡生活で腹を下していた石田三成に長距離を移動する体力は残されていませんでした。
そこで、石田三成は、北方にあるオトチの岩窟に身を隠すこととしたのです。
石田三成捕縛
石田三成捕縛(1600年9月21日)
その後の慶長5年(1600年)9月21日、石田三成は、田中吉政の家臣により捕縛されました。
石田三成が田中吉政により捕縛されたことについては、多くの資料で確認されるため間違いないと思料されるのですが、その経緯・そのときのエピソードについて推測による様々な二次資料が作成されているため、明らかではありません。
田中吉政がいた日吉神社へ送られる
捕縛された石田三成は、田中吉政が陣所としていた日吉神社(現在の滋賀県長浜市高月町井口122)に送られます。
石田三成と田中吉政は、いずれも北近江の出身であり、旧浅井家臣時代から近くに住むなど旧知の間柄でした。
そこで、田中吉政は、連行されてきた石田三成を哀れに思い、体調を気遣って薬と韮粥を振る舞います。
石田三成は、一旦はこれを辞退したものの、田中吉政から大将たるものの最期の嗜みとして健康を保つべきと説得され、これらを食すこととしました(常山紀談)。
その後、田中吉政は、石田三成を大津城にいる徳川家康の下に送るため、乗り物に乗せた上で、宮部善八を付けて井ノ口を出発させました。
大津城へ送られる(1600年9月22日)
慶長5年(1600年)9月22日、高宮(現在の滋賀県彦根市)→守山(現在の滋賀県守山市)を経て大津城に送られた石田三成は、まずは城の門前でさらされます。
このとき、石田三成に前に福島正則がやって来て、馬上から、お前は無益な反乱を起こして捕まり何という惨めなことかと揶揄したところ、これに対して石田三成が、武運拙く敗れたため福島正則を生け捕ることができなかったのが残念だと返したとされています(武功雑記)。
また、石田三成は、続けてやって来た小早川秀秋に対しては亡豊臣秀吉を裏切って恥ずかしくないのかの罵り、他方で同情の言葉をかけられた黒田長政の前では涙を流したと言われています。
その後、大津城に入れられ、大津城内にいた徳川家康の前に引き出されました。
このとき、石田三成は、徳川家康に対して、敗戦はときの運でもあり恥じることはない、自分は天運に恵まれずに敗将となったのだから早く首を刎ねよと言います。
この話を聞いた徳川家康は、石田三成の態度に感服し、大将の器量であると高く評価したと言われています。
そして、この対面で斬首処分が言い渡され、石田三成は上方に送られ、京で斬首処分とされることに決まりました。
なお、真偽は無視不明ですが、石田三成が上方へ送られる道中に、和田神社(現在の滋賀県大津市)で一向が休息する際、石田三成が繋がれたとするイチョウの木が同神社に残されています。
石田三成の最期
上方へ送られる(1600年9月27日)
その結果、石田三成は、慶長5年(1600年)9月27日、大坂に護送された後、同年9月28日に小西行長・安国寺恵瓊らと合わせて堺の町で市中引き回しにされます。
その後、同年9月29日、京都に護送され、京都所司代であった奥平信昌の監視下に置かれました。
なお、捕縛後、劣悪な環境にあった石田三成の衣服がボロボロとなっていたため、これを哀れに思った徳川家康が石田三成に小袖を届けさせます。
このとき、石田三成は、その小袖の送り主が誰かと尋ねたところ、「江戸の上様(徳川家康)からだ」と言われました。
これに対し、上様=豊臣秀頼であり、徳川家康は上様ではないと言って嘲笑したとされています(常山紀談)。
斬首(1600年10月1日)
そして、慶長5年(1600年)10月1日、京に送られた石田三成は、小西行長・安国寺恵瓊らと共に六条河原で斬首されました。享年は41歳でした。
辞世の句は「筑摩江や 芦間に灯す かがり火と ともに消えゆく 我が身なりけり」でした。
なお、真偽は不明なのですが、この処刑直前のエピソードがあまりにも有名なので、一応紹介しておきます。
石田三成が処刑される前にのどが渇いたと言って水を所望したところ、警護の者から水の代わりに干し柿を差出されました。
石田三成が、干し柿は「痰の毒であるから食べない」と言って干し柿を受け取らなかったため、周囲の者に間もなく首を刎ねられる人が毒を心配するのかと笑われます。
これに対し、石田三成は、小物には分からないだろうが、大義を思う者は、首をはねられる瞬間まで命を大事にするものだ、それは何とかして本望を達したいと思うからであると答えたとされています(明良洪範)。
その後
斬首された石田三成の首は、三条河原で晒された後、生前親交のあった春屋宗園・沢庵宗彭に引き取られて大徳寺三玄院(現在の京都市)に葬られました。
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