【韓国併合に至る経緯】清国冊封下にあった朝鮮が日本に併合されるまで

明治維新を成功させた日本では、幕末期に江戸幕府が締結した不平等条約改正を目標として富国強兵政策を進めたのですが、それと並行して周辺国に対する圧力を強めて行きました。

明治時代の日本は、北海道・琉球・千島などを次々と取り込んでいったのですが、さらに大陸進出への野心をもってその橋頭堡となりうる朝鮮や台湾の獲得を目指していきました。

このうち、朝鮮に対しては、清国の冊封下から離脱させた上で、不平等条約を押し付けて日本が優位な立場にあることを示し、その後3度に及ぶ日韓協約によって外交・財政・内政を順に剥奪して保護下に置くという経過を経た後、明治43年(1910年)8月についにこれを併合してしまうに至りました。

本稿では、以上の明治維新後から韓国併合に至るまでの経緯について、簡単に説明していきたいと思います。

朝鮮の清国からの独立

清国の冊封下にあった朝鮮半島(~1869年)

李氏朝鮮が治めていた幕末期までの朝鮮半島では、清国を宗主国とする冊封体制の下にありました。

そのため、明治維新後の明治2年(1869年)に、明治新政府が、朝鮮に対して新政権樹立の通告と条約に基礎づけられた近代的な国際関係の樹立を求める国書を持つ使者を送ったのですが、朝鮮は中国皇帝が朝鮮に下す際に用いる「皇上」・「奉勅」などの言葉が用いられていることを理由に国書の受取りを拒否しています。

その後、日本から何度も同様の国書を李氏朝鮮政府に送ったのですが、朝鮮側はその都度受け取りを拒否したため、日朝外交の膠着が始まります(書契問題)。

清国の冊封下からの離脱下準備(1875年)

その後も日朝間の関係は進展を見せなかったため、日本側では、膠着した協議を有利に進展させるため、測量や航路研究を名目として朝鮮近海に軍艦を派遣して朝鮮に圧力をかけることが検討され、「雲揚」と「第二丁卯」という2隻の軍艦が朝鮮沿岸に派遣されることとなりました。

この2隻の軍艦に対し、明治8年(1875年)9月20日、朝鮮首府漢城北西岸の漢江河口に位置する江華島(現在の仁川広域市江華郡)に設置されていた砲台から攻撃が加えられる事件が起こります。

砲撃を受けた日本の軍艦が砲台に対して反撃をしたため、交戦状態となりました(江華島事件)。

その後、日本は、最初に攻撃をしてきた朝鮮側を批判し、その責任を追及します。

そして、日本は、軍事的圧力を加えたことにより、朝鮮との間で、朝鮮を清国の冊封体制から離脱させる下地となる「朝鮮国は自主の邦にして日本国と平等の権を保有せり」と記載させた条約(日朝修好条規)締結に成功します.

なお、この結果、朝鮮を属邦と考える清国と、これを認めない日本との対立が顕在化していきます。

朝鮮開国(1875年)

1637年に清国から朝鮮国王として封ぜられた後、清を宗主国とする冊封体制に入って鎖国を続けていた朝鮮でしたが、1842年締結の南京条約により宗主国の清国が、また1854年締結の日米和親条約により隣国日本が開国するなど、朝鮮のみが鎖国を続けるには国際環境が厳しいものとなっていました。

前記の日朝修好条規は、朝鮮国を自主の邦とした一方で、日本の治外法権を認めること・関税自主権がないなどの点で日本が欧米列強各国との間で結ばされた不平等条約と同様のものとなっていました。

この不平等条約に基づいて朝鮮は開国を強いられることとなり、明治8年(1875年)に釜山、明治13年(1880年)に元山、明治16年(1883年)に仁川が続けて開港することとなりました。

開国後の朝鮮の混乱

もっとも、外圧により開国を迫られた朝鮮では、幕末期の日本と同様に開国派(明治維新に感化された金玉均、洪英植、朴泳孝らなどの青年官僚)と、鎖国維持派(高宗実父の興宣大院君など)、さらには清国臣属維持派(高宗妃の閔妃擁する閔氏一族など)らの間で政争が繰り広げられるようになります。

具体的には、明治15年(1882年)に興宣大院君らの煽動を受けた閔氏政権やや朝鮮人兵士が漢城で反乱を起こして鎮圧され(壬午事変)、また明治17年(1884年)には開化派によるクーデターが勃発するも清国の軍事介入により鎮圧されて失脚するなどして(甲申政変)、混乱を極めます。

この立て続けに起こる政変による混乱を見た清国は、閔氏一族を後見して朝鮮政権を掌握させ、朝鮮への影響力を強めました。

ところが、明治18年(1885年)、政権を取り戻そうとした高宗が秘密裏にロシア帝国に支援を要請していることが露見する(露朝密約事件)したため、朝鮮への影響力を維持しようとした清国は大院君を朝鮮に帰国させ、高宗を廃して嫡孫の永宣君を王位に擁立して大院君を摂政に収めさせることとします。

この後、大院君は、全琫準を通じて東学党との関係を深め、明治19年(1894年)6月、閔妃政権の退陣を求めるため東学党を蜂起させて全羅道を占領し圧力をかけていきます(甲午農民戦争)。

他方、苦しくなった閔氏政権が、自力での反乱鎮圧を諦めて清国に救援を依頼たため、清国から2000人の陸兵が派遣されました。

日本軍の朝鮮半島派兵

このとき、この朝鮮半島でのどさくさを見た日本は、朝鮮半島にいる日本人保護を理由として、天津条約の取り決めに従って8000人もの混成旅団を朝鮮半島に派遣しました。

以上の結果、朝鮮半島に清国軍と日本軍が進軍し、これらの軍により朝鮮反乱軍は鎮圧されました。

そこで、朝鮮は、清国と日本に対して朝鮮半島からの撤兵を求め、明治19年(1894年)7月上旬から交渉が続けられたが決裂します。

こうして朝鮮半島に清国軍と日本軍が駐留することとなり、日清間の緊張が高まっていきました。

日本は、興宣大院君を擁した新政府の樹立を目論んで復権させて清国に対する絶縁を表明させようとしたのですが、清国の報復を恐れた朝鮮王朝がこれを拒否したため、同年7月14日に二度目の絶交書を清国側へ通達しました。

そして、同年7月16日に日英通商航海条約を結ぶことに成功し、懸案していたイギリスの中立的立場を確認したことから、翌同年7月17日に清国との開戦を閣議決定します。

その上で、同年7月23日に朝鮮王宮を占拠して高宗を捕え、日本に協力的姿勢を示す大院君を新政府首班とすることを認めさせた上で、その大院君から清国兵追放を要請する文書を獲得し、清国と戦う大義名分を獲得しました。

日清戦争勃発(1894年7月)

以上の経過を経て、日本軍は、明治19年(1894年)7月25日に海戦(豊島沖海戦)で、同年7月28日に陸戦で清国駐留部隊を駆逐することで漢城周辺を制圧し、同年8月1日に清国に対して正式に宣戦布告して日清戦争が始まりました。

そして、日本軍が、明治20年(1895年)2月に山東半島・威海衛を攻略して黄海及び渤海の制海権を掌握したことにより、清国首都北京や天津一帯への攻撃が可能となった結果、清国の戦意が喪失します。

そこで、日清両国の間において、同年3月20日より日本に有利な形での講和交渉が始まりました。

清国からの朝鮮独立(1895年4月17日)

そして、明治20年(1895年)4月17日、日本全権伊藤博文・陸奥宗光と清国全権李鴻章の間において、①清が朝鮮独立を承認(宗主権の放棄)、②清が遼東半島・台湾・澎湖諸島を日本に割譲、③清が2億両の賠償金を日本に支払う、④日清修好条規を破棄して新たな通商条約を締結する、⑤開港場・開市場での外国企業による工場経営を正式に認める、⑥揚子江の航行権を認め、沙市・重慶・蘇州・杭州を開市・開港場とする内容の日清戦争の講和条約(下関条約)が締結されました。

これらの内容は、いずれも日本に有利な特筆すべきものなのですが、本稿ではこのうちの清が朝鮮への宗主権を放棄してその独立を承認したことが重要なものとなります。

高宗による朝鮮近代化政策失敗

朝鮮における日本指導下での改革政策

下関条約により清国の支配を脱した朝鮮では、日本の指導の下で朝鮮史上最初の憲法である「洪範14条」を制定するなどして改革(甲午改革)が進められます。

これに対し、朝鮮国王高宗は、押し付けのものであるとして一旦は改革を拒んだものの、後にこれを許可し、金弘集政権が誕生して租税の金納化・通貨改革・身分差別の撤廃、刑罰の縁坐制と拷問の廃止などが進められていきました。

朝鮮内部での権力闘争(1895年4月23日)

ところが、明治28年(1895年)4月23日、日本の大陸進出を警戒したロシアが、フランス・ドイツと共同して遼東半島を清国に返還するよう勧告(三国干渉)し、これに屈した日本が遼東半島を清国に返還したため、朝鮮半島に対する日本の影響力が低下します。

これを好機と見た高宗の妃閔妃は、ロシア帝国に接近し、その力を背景に金弘集内閣の兪吉濬・金嘉鎭・朴泳孝などを相次いで追放し、閔妃主導の親露派の内閣を誕生させました。

もっとも、閔妃台頭の陰で失脚していた大院君が水面下で活動を続け、明治20年(1895年)10月8日、開化派の禹範善を介して日本と結んでクーデターを起こして閔妃を殺害することにより復権を果たした後(乙未事変)、閔妃以前の改革を再開させます(乙未改革)。

ところが、閔妃派閥であった事大党の李範晋らが、高宗を取り込んだ上、明治21年(1896年)にロシア軍の支援を受けて高宗をロシア公使館に移して再び朝鮮の実権を握ります(なお、この後、金弘集ら開化派の閣僚が処刑されて親露派内閣により政治が行われました(露館播遷))。

この後、朝鮮半島を巡って悪化した日露関係を改善するために小村寿太郎駐朝鮮国公使とウェーバー駐朝鮮国ロシア公使との間に協定が結ばれたことから、明治30年(1897年)2月、身の安全が確保できたと判断した高宗がロシア公使館から慶雲宮に帰還しています。

大韓帝国成立(1897年10月12日)

朝鮮における実権を取り戻した高宗は、明治30年(1897年)10月12日、国号を「大韓」と改めた上で、自ら皇帝として即位し、専制君主国家の成立を目指します。

また、高宗は、ロシア公使アレクセイ・ニコラビッチ・シュペイエルの要請を受けて、度支部(財務省)の顧問を英国人ジョン・マクレヴィ・ブラウンからロシア人キリル・アレキセーフへと交代させ (度支顧問事件)、明治31年(1898年)2月に露韓銀行を設立させるなどして、経済発展を目指していきます。

ところが、同年1月にロシアが太平洋艦隊の石炭庫基地とするために釜山の絶影島を租借要求する事件(絶影島貯炭庫設置問題)が起きるなど、ロシアによる領土的野心が見られるようになります。

そこで、ロシアの動きに対して、大院君が高宗に諫言を行ったのですが、高宗から一蹴されてしまいます。

光武改革失敗

以上のとおり、ロシアの力を利用して進められた高宗による皇帝専制政治改革でしたが、明治31年(1898年)7月に皇帝譲位計画が、同年9月に金鴻陸による高宗・皇太子暗殺未遂事件(毒茶事件)が起こるなど、政権内における反発が相次ぎます。

また、成果の見えない経済政策に対して国民の支持が集まりませんでした。

困った高宗は、明治32年(1899年)8 月、「大韓国国制」を発布し、皇帝が韓国の統帥権・法律制定権・恩赦権・外交権などを独占することとし、この強大な権力を基に、臣下や国民の反対を許さない形での皇帝専制による近代化政策(光武改革)を進めることとします。

この点、光武改革の1つとして行われた税収増加を目論んでの光武量田事業と呼ばれた土地調査と土地国家所有制への切り替えは土地所有者の反発や資金不足から徹底することはできず、また京城~木浦間の鉄道敷設計画は資金不足により取り掛かることすらできませんでした。

さらに、貨幣原盤を流出させるなどして偽造通貨が流通するなどした結果、韓国独自貨幣発行にも失敗してさらなる財政悪化をもたらしました(通貨の混乱を極めた韓国では自国通貨の信用性すら失われたため、明治38年/1905年7月に日本と同一の貨幣制度を採用することとし、以降の韓国貨幣は大阪造幣局で鋳造されるようになりました。)。

日本による韓国政治への介入

ロシアの満州進出(1901年9月)

明治34年(1901年)9月7日、義和団の乱の戦後処理に関する清国と八カ国連合軍と清・義和団との最終議定書(北京議定書)が締結されると、これを根拠としてロシアが満州(中国東北部に位置する東北3省)を事実上占領し、同地域の権益を独占します。

このロシアによる満州進出(南下政策)の動きに対し、満州をロシアに押さえられてしまうと満州と陸続きである韓国における権益が脅かされると判断した日本は、ロシアとの協調を模索します。

また、この動きとあわせてヨーロッパでロシアと対立するイギリスに接近し、第1次桂内閣で日英同盟の締結と韓国の保護国化を進める方針がとられます。

そして、明治35年(1902年)に日英同盟が成立したことにより、朝鮮半島・満州を巡るロシアとの軍事的な緊張が高まりました。

高宗の動き

この状態下において、韓国皇帝であった高宗がロシア皇帝に密使を送ってロシアへの協力を約束する動きをします。

ところが、この時点では、韓国に対する領土的危険は日本よりもロシアの方が高いと判断していた韓国国民は、日本側に好意的であったため、またもや韓国政府と韓国国民に大きな乖離が生まれています。

日露交渉決裂

緊張が高まる日露関係を改善するため、日露間で関係改善交渉が続けられたのですが、ロシアに南下政策を撤回する意思はなく、明治37年(1904年)についに交渉が決裂します。

その結果、日本では、韓国からロシア軍を一掃するためにロシアと開戦することに決定しました。

なお、同年1月21日、日露の緊張が高まっていることに危機を感じた韓国は、日露交戦が勃発した場合、韓国は戦時局外中立の立場をとると宣言して清・イギリス・フランス・ドイツなどの承認を獲得し、軍事衝突に巻き込まれないように努力しています。

日露戦争開戦(1904年2月10日)

いつの日を日露戦争の開戦日と考えるかは資料により異なるのですが、明治37年(1904年)2月8日に戦闘が始まり、同年2月10日に互いに宣戦布告が行われた結果、日露戦争が始まります。

韓国に戦争協力を強いる(1904年2月23日)

以上の経過を経て日露戦争が始まったのですが、その主戦場は朝鮮であり、日本は、満州に到達するための補給路上に位置する韓国の通行権を確保する必要があります。

ところが、この時点では、朝鮮や満州は日本の領土ではありませんので、法的には日本軍がこれらの場所に軍を展開することができません。

この不都合を取り除いて、韓国に戦争協力させるため、日本は、同年2月23日、日本が韓国領土内にて日本軍の行動の自由を認める施政忠告権・臨検収用権を持つとする日韓議定書を韓国との間で締結し、この問題を解決します。

なお、日韓議定書は、日本側に有利な条項もあるのですが、他方で、日本政府が韓国皇室や韓国の独立及び領土を確実に保障する片務的防衛義務を負うなどとされており、必ずしも日本に一方的に有利なものとはなっていません。

韓国を保護国化していく

韓国財政権剥奪(1904年8月22日)

日韓議定書により韓国内に軍を展開させることができるようになった日本は、韓国に配置した軍による圧力を、もってさらに韓国の内政への関与を図ります。

そして、日本は、韓国に対し、明治37年(1904年)8月22日、韓国政府は日本政府の推薦する日本人1名を財務顧問に、外国人1名を外交顧問として雇ってその意見に従わなければならない、また外交案件については日本政府と協議のうえ決定・処理しなければならないとする協約(第一次日韓協約)を結ばせることに成功します。

この協約に従って、大蔵省主税局長であった目賀田種太郎が財務顧問に、アメリカ駐日公使館顧問であったダーハム・W・スティーブンスが韓国外交顧問に就任し、事実上、日本が韓国の財政権を獲得し、外交権に強い影響力を及ぼすこととなりました。

当然ですが、韓国側はこの内容に納得しておらず、皇帝高宗は、明治38年(1905年)7月にロシア・フランスに密使を派遣するなどしてその是正を訴えています。

日露戦争終結(1905年9月4日)

陸戦では旅順・奉天で、海戦では日本近海での大規模戦闘を経て、最終的にアメリカ斡旋の下で日本とロシアが停戦合意に至り、明治38年(1905年)9月4日に講和条約としてポーツマス条約が調印され日露戦争が終結に至りました。

 列挙区各国への韓国統治への根回し

(1)アメリカとの協定(1905年7月)

戦後の韓国統治を国際的に認めさせるため、日本は、日露戦争の終結前後から列強国にアプローチを始めます(なお、この行為は、日清戦争後に三国干渉を受けて遼東半島を失ったことに対する反省からなされたものでした。)。

まず、明治38年(1905年)7月29日、日本の内閣総理大臣兼臨時外務大臣であった桂太郎とフィリピン訪問途中に来日したアメリカ合衆国特使であったウィリアム・タフト陸軍長官との間で、アメリカがフィリピンを保護国化することを認める対価として日本が韓国を保護国化することをアメリカに対して認めさせることに成功します(桂・タフト協定)。

(2)ロシアとの講和条約(1905年9月)

次に、明治38年(1905年)9月5日に、日露戦争の講和条約として結ばれたポーツマス条約により、戦争賠償金の支払いをしないこととしつつ、満洲及び朝鮮からロシアが撤兵すると共に、日本に樺太の南部を割譲することが決まり、日本が韓国に影響力を及ぼすことをロシアに認めさせました。

なお、ポーツマス条約にて韓国に対する日本の優越権を認めたロシアは朝鮮半島への干渉を取りやめたため、満州・韓国での対ロシア緊張関係が緩和していき、日本の朝鮮半島に関する支配権が欧米列強の協調外交に組み込まれていきました。

(3)日英同盟更新(1905年10月)

さらに、イギリスの駐韓公使であったジョーダンは韓国の立場になって日露の干渉を排除するために尽力していたのですが、日露戦争の終結時頃には、日清戦争後に独立した韓国の状況を見ていると、韓国の政治家に統治能力がないため、此処10年の韓国は名目上の独立国に過ぎずこのまま独立国として維持されるのは困難であるとの考えに至り、マクドナルド駐日公使の同意の下で、韓国は日本に支配されることが韓国人自身のためにもなるという結論をイギリス本国に報告しました。

この結果、明治38年(1905年)10月の日英同盟更新に際し、日本は、イギリスのインド以東の安全を日本が保証することの対価として、日本の韓国保護国化を認めさせることに成功します。

なお、このときの日英同盟更新は、イギリス安全を日本が守るという内容への変更であったため、日本とイギリスの関係がそれまでの厳正中立(防守同盟)から攻守同盟に変更されています。

韓国外交権接収(1905年11月17日)

明治38年(1905年)7月のロシア・フランスに続けて、韓国皇帝の高宗が、同年10月にアメリカ・イギリスに密使を派遣するなどして対日関係の是正を訴えます。

これらの一連の韓国側の行動を見た日本は、韓国が外交案件について日本政府と協議することを定めた同協約第3条を遵守する意志がないと考え、韓国の外交権を完全に剥奪してこれを日本が掌握できる協約の締結を要求していきます。

そして、同年11月17日、日韓両国は、韓国が外交権を日本に譲渡する内容の第二次日韓協約を締結するに至りました。

この結果、韓国は事実上日本の保護国となり、日本が外国の外交を担当することとなったため、韓国外交を司る機関として統監府(韓国統監府)が置かれ、初代統監として伊藤博文が派遣されました。

ハーグ密使事件(1907年6月)

第二次日韓協約の締結により実権を失った高宗は、欧米列強の干渉により日本に第二次日韓協約を撤回させ、日本から外交権の回復しようと考えます。

そこで、高宗は、列強各国に事情を説明するため、オランダのハーグにおいて明治40年(1907年)6月15日から開催されることとなっていた第2回万国平和会議に密使を派遣し、日本による韓国支配を糾弾することとしました。

もっとも、第2回万国平和会議は国際紛争平和的処理条約批准国の会議であったために締約国ではない韓国は参加権がなかった上、第二次日韓協約によりに外交権を失っていたことから、韓国は各国と接触することさえできませんでした(ハーグ密使事件)。

そのため、ハーグに赴いた韓国密使は、各国の新聞で韓国の主張を訴える戦略に切り替えました。

ところが、既に日本が列強各国への根回しをしていたこともあり、列強各国は韓国の主張に耳を貸すことさえしなかったため、高宗の計画は失敗に終わります。

他方、この行為により高宗の秘密外交は国際的に露見することになり、日本国内世論からも厳しい批判に晒されます。

この結果、明治40年(1907年)7月19日、この問題の責任をとって高宗が韓国皇帝を退位し、その子である純宗が即位するに至りました。

韓国内政権管理(1907年7月24日)

ハーグ密使事件を受け、能力のない韓国政治は韓国民衆にとって不幸であるとして、世界の平和と安寧のためにも韓国を日本に併合すべきであるとの世論が日本国内で高まります。

その結果、明治40年(1907年)7月24日、韓国内政権を日本に譲り、日本が設置した韓国統監府が定める日本人が韓国官吏となることとなる旨の協約(第三次日韓協約)が締結されました。

この結果、韓国内政もまた日本の管理下に入ることとなりました。

韓国軍解散(1907年8月1日)

そして、韓国内政権を得た日本は、明治40年(1907年)8月1日、韓国を完全に指揮下に置くために韓国軍を解散させてしまいます。

以上の日本の行為に対し、韓国国民の怒りが爆発して激しい抗議行動が頻発し、日本は日本の保護下に入った李完用首相邸が焼き打ちにされる事件が起こります。

また、韓国軍が解散したことに大量に発生した退役軍人が日本に対する抵抗運動を強め、同年末頃には儒学者であった李麟栄が「衛正斥邪」のスローガンを掲げて各地で戦っていた義兵を糾合して首都ソウルの奪還を目指す動きに発展します。

このときは、日本軍が東大門でこれを撃破したのですが、この戦いが各地の義兵勢力を勢いづけ、以降の大規模な義兵闘争に繋がっていきました。

韓国併合へ

韓国併合準備(1909年7月)

以上の動きを見た日本では、混乱する韓国情勢を沈静化させるため、韓国を日本に併合してしまうべきであるとの世論が高まっていきました。

そこで、明治42年(1909年)3月30日、外務大臣の小村寿太郎が、倉知鉄吉外務省政務局長に韓国併合断行を明記した意見書を起草させて桂太郎首相に提出します。

この小村意見書に対し、桂太郎首相・伊藤博文韓国統監の同意が得られたことから、同年7月6日に桂内閣において「適当の時期に韓国併合を断行する方針および対韓施設大綱」が閣議決定され、日韓併合準備が整いました。

伊藤博文暗殺(1909年10月26日)

そこで、韓国併合を前提とする日露関係の調整する目的で、ロシア蔵相ウラジーミル・ココツェフと会談するため、日本から枢密院議長伊藤博文が渡航します。

ところが、明治42年(1909年)10月26日、伊藤博文が、その途中に立ち寄ったハルビン駅(ロシアが清から租借している土地内)で朝鮮民族主義者の安重根に暗殺されてしまいます。

この事件が起こるまでは、日本に対する警戒心からロシアが欧米列強の中で唯一韓国への支援を継続していたのですが、伊藤博文暗殺にロシアが関与したとの疑念を払拭させるために韓国の関係を断絶して日本との協調路線に転ぜざるを得なくなってしまいました。

その結果、伊藤博文暗殺事件により、韓国を支援する国が存在しなくなってしまいました。

また、国際協調派の元老であった伊藤博文が失われたことにより、日本国内においても山県有朋らの軍閥を抑える勢力がいなくなってしまい(伊藤博文暗殺後には韓国統監も陸軍大臣という武官・寺内正毅が務めるようになります)、韓国に対する強硬意見に支配されていきました。

韓国併合(1910年8月29日)

明治43年(1910年)6月3日、併合後の韓国に対する施政方針が閣議決定され、同年8月6日、韓国首相である李完用に韓国併合の受諾が求められました。

そして、同年8月22日、漢城においてで寺内正毅統監と李完用首相との間で韓国併合条約が調印され、同年8月29日の裁可公布により発効しました。

この条約により、日本が韓国を併合する形で韓国が消滅し、第二次世界大戦終結まで朝鮮半島が日本の統治下に置かれることとなったのです。

なお、韓国消滅に伴い、大韓帝国政府と韓国統監府は廃止され、新たに朝鮮全土を統治する朝鮮総督府が設置されています。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA