三国干渉(さんごくかんしょう)は、明治28年(1895年)4月23日、フランス・ドイツ帝国・ロシア帝国の列強三国が、日本に対して、6日前である同年4月17日に調印(国家代表者間による交渉・条約文作・署名による内容確定)された日清戦争の講和条約である下関条約(批准は同年5月8日)の内容うちの1つである日本による遼東半島所有を放棄して清に返還するよう求めた勧告です。
日本側としては、日清戦争において多くの損害を被りながら獲得した遼東半島を失うことに抵抗が多かったのですが、当時の日本陸海軍に列強三国を相手にして戦うだけの国力はなく、やむを得ずに勧告に従って遼東半島を返還するという決断に至っています。
この点については、日本政府のみならず日本国民全体が悲憤慷慨し、この屈辱を忘れないために「臥薪嘗胆」をスローガンとして、国力増強・軍事力増強に努めていくようになりました。
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下関条約調印
下関条約調印(1895年4月17日)
明治28年(1895年)4月17日、赤間関(現在の山口県下関市)の料亭春帆楼において、日本側の伊藤博文内閣総理大臣と陸奥宗光外務大臣、清国側の李鴻章北洋大臣直隷総督と李経方欽差大臣が会同し、全文及び11か条からなる日清講和条約(下関条約)が調印されました。なお、主な内容は以下のとおりです。
(第一条)清国は、清・朝間の宗藩(宗主・藩属)関係を解消することにより朝鮮国が完全無欠なる独立自主の国であることを確認し、独立自主を損害するような朝鮮国から清国に対する貢・献上・典礼等は永遠に廃止する。
(第二条、第三条)清国は、遼東半島(鴨緑江と遼河に挟まれた地域の営口・海城・鳳凰城を結んだ線より南側)・台湾・澎湖諸島など付属諸島嶼の主権ならびに該地方にある城塁、兵器製造所及び官有物を永遠に日本に割与する。
(第四条)清国は、賠償金として2億両(約3.1億円・清の歳入総額2年半分相当)を7年年賦で日本に支払う。
(第五条)割与された土地の住人は、自由に所有不動産を売却して居住地を選択することができ、条約批准2年後も割与地に住んでいる住人は日本の都合で日本国民と見なすことができる。
(第六条)清国は沙市・重慶・蘇州・杭州を日本に開放し、日本国臣民は清国の各開市・開港場において自由に製造業に従事することができる。また清国は、日本に最恵国待遇を認める。
(第七条)日本は、3か月以内に清国領土内の日本軍を引き揚げる。
(第八条)清国は、日本軍による山東省威海衛の一時占領を認める。賠償金の支払いに不備があれば日本軍は引き揚げない。
(第九条)清国にいる日本人俘虜を返還し、虐待もしくは処刑してはいけない。日本軍に協力した清国人にいかなる処刑もしてはいけないし、させてはいけない。
(第十条)条約批准の日から戦闘を停止する。
(第十一条)明治28年(1895年)5月8日=光緒21年4月14日、山東省芝罘において、大日本国皇帝および大清国皇帝にて批准書の交換を行う。
批准準備(1895年4月20日)
下関条約の調印後の明治28年(1895年)4月20日、同条約についての広島大本営にて明治天皇による裁可・批准がなされます。
そこで、内閣書記官長の伊東巳代治が、全権大臣となって同批准書を携え、批准書交換地とされた芝罘(現在の山東省煙台市)に向かいました。
なお、清国側でも、同年4月20日、李鴻章一行が天津に到着し、そのうちの講和使節の随員であった伍廷芳とアメリカ人外交顧問のジョン・W・フォスターが北京に赴いて清国総理衙門に条約書を届けています。
こうして、日本・清国の双方が、調印された下関条約の批准のための準備を進めていきました。
遼東半島に対する列強の思惑
ところが、下関条約の内容のうち遼東半島の日本割譲が列強(特にロシア)で問題となりました。
これは、清国の首都がある北京に近い場所にあることからここを日本に押さえられることが清国の存続に大きな脅威となるのみならず、清国の権威を失墜させて政治の不安定性をもたらすこととなり、これにより、列強各国の対清政策の根幹を揺るがす危険性があったためです。
さらに、朝鮮への強い影響力を持った日本が遼東半島を支配すると、日本が黄海全域の制海権を獲得しうることとなり、日本によるその後の清国・満州に対するさらなる侵攻の疑念が生じることとなりました。
特に、ロシアは、南下政策を取り満州における権益拡大と東アジアへの進出を図っていたロシアでは、極東へ出るための不凍港として旅順・大連を重要視しており、これらが位置する遼東半島を重要拠点と考えていたため、この重要拠点となる遼東半島が日本に奪われると、ロシアによる東アジアへ向かう海路が失われるとして対応を迫られます(そればかりか、遼東半島に日本軍が駐留することとなると、ロシアが権益拡大を進める満州に対しても日本が進出して来る危険性が生じます。)。
そのため、ロシアとしては日本の遼東半島獲得は絶対に許されない状況となっていました。
そこで、ロシアは、下関条約調印前の明治28年(1895年)4月8日、列強各国に対して極東問題についての話し合いを提議します。
これに対し、イギリスは、世論の反発を理由としてこれを拒否したのですが、1892年にロシアと露仏同盟を結んでいたフランスと、フランスとロシアの双方と敵対行動を取ることを好ましくないと考えたドイツがこれに賛同します。
なお、フランス・ドイツは、ロシアとの協力関係を失わないためにロシアに協力することとしたのですが、それとは別に、恩を感じた清国から租借地を得られる可能性があるためにフランスによる極東進出の足掛かりともなり得るという打算もありました(また、ドイツ国内で黄色人種に対する脅威論=黄禍論もその一助となっていました。)
三国干渉
三国干渉(1895年4月23日)
そして、明治28年(1895年)4月23日、東京駐在のロシア帝国・ドイツ帝国・フランス共和国の3国の公使が外務省を訪れ、病気のため兵庫県舞子に静養中だった外務大臣・陸奥宗光に代わり応接した林董外務次官に対し、日本の遼東半島領有は清国の首都北京を脅かすだけでなく、朝鮮の独立を有名無実にし、極東の平和の妨げとなる東アジアの平和を乱すものとなることから、友誼ある忠告として、遼東半島を清国に還付をするよう求めるとの勧告書を交付してきました(三国干渉)。
御前会議(1895年4月24日~)
三国干渉を受けた伊藤博文首相は、翌明治28年(1895年)4月24日、広島において御前会議を召集します。
この御前会議において、伊藤博文は、出席者に対して、①勧告の全面的拒否・②列国会議を招集してこの問題の処理を当該会議に委ねる・③勧告を受けいれて遼東半島を返還するという3つの案を提示し、その検討を求めました。
日本政府としては、多くの損害を被りようやく獲得した遼東半島を失うことに抵抗が強かったのですが、当時の日本陸海軍に列強三国を相手にして戦うだけの国力はなく、勧告の全面拒否(①案)は選択できませんでした。
そのため、御前会議の席上では列国会議の開催を求める案(②案)あるいはイギリス・アメリカなどに仲裁を願い、落ち着き場所を探るという内容に意見が集まっていきました。
そこで、まずはイギリスの仲裁により三国干渉を撤回させることを期待して、駐英日本公使の加藤高明からイギリス政府に協力の打診をするなどして打開策を探っていきます。
ところが、イギリスとしても3カ国もの大国を相手にしてまで日本に肩入れすることはできず、明治28年(1895年)4月29日、イギリス外相キンバーリー伯爵から協力できないとの回答を伝えられています。
また、日本に好意的な国と考えられていたアメリカにも協力を求めたのですが、局外中立を理由に断られています。
苦渋の決断
困った伊藤博文らが、当時兵庫県舞子にて病床にあった外務大臣・陸奥宗光の下を訪れて意見を求めたところ、陸奥宗光から、列国を集めて会議を開くには時間がかかりすぎる上、列国会議の開催を求めた場合には遼東半島返還のみならず、その他の下関条約条項に問題が波及する可能性があるため妥当ではないとの意見が述べられました。
そこで、日本政府としては、自ら旅順口を除いて遼東半島放棄するとの折衷的提案をしたのですが、ロシアがこれを拒否します。
また、このとき、三国干渉を理由として批准書交換の延期を申し入れてきたため、日本政府としても後がない状況に追い込まれます。
結局、打開策のない日本政府としては、勧告を受けいれて遼東半島を返還する(③案)以外の選択肢がなくなり、同年5月4日に遼東半島放棄の閣議決定がなされ、これに明治天皇の裁可がなされ、日本政府として勧告を受けいれて遼東半島を返還するという結論に至りました。
そして、同年5月5日、この内容を独仏露の駐日公使に通告します。
遼東半島返還(1895年5月10日)
明治28年(1895年)5月8日、清の芝罘において下関条約の批准書が交換され、その効力が発効します。
その上で、明治28年(1895年)5月10日、日本は遼東半島を清に還付します。
なお、この後、遼東半島還付の代償条件の話合いが始められ、同年11月8日に3000万両(4665万円)の支払いを条件とする遼東還付条約が締結されました。
三国干渉後の列強各国の中国進出
日本に対して遼東半島の返還を求めてきた列強でしたが、他方で、自身は、その後に清国への軍事介入(分割支配)を始めていきます。
その理由は、清国が日清戦争にて日本に敗れるまでの間は、列強は清国の軍事力を警戒して清国への積極的な介入を控えていたのですが、清国が極東の小国にすぎない日本に敗れたことにより、大国と思われていた清が実は小国程度の国力しか有しないことが明らかとなったからです。
列強は、清国介入手段として、清国に対して対日賠償金の支払いに充てるためとして借款供与を申し出てその見返りとしたり、または何らかの理由を付けて軍事的圧力をかけるなどしたりして、租借地や鉄道敷設権などの権益を獲得していきました。
ロシア
ロシアは、明治28年(1895年)、フランスと共に、下関条約にて負担することとなった対日賠償金の借款供与を申し出ます。
これに対し、清国欽差大臣の李鴻章が、明治29年(1896年)、ロシア皇帝ニコライ2世の戴冠式に出席するためにサンクトペテルブルクを訪問した上で、ロシア外務大臣アレクセイ・ロバノフ=ロストフスキー及び財務大臣セルゲイ・ヴィッテと会談し、50万ルーブルの賄賂と引き換えにロシアの満州における権益拡大を認める内容の露清密約(李鴻章-ロバノフ協定)を結びます。なお、このとき副総理であった張蔭桓にも25万ルーブルのわいろが支払われています。
そして、明治31年(1898年)3月には、対日賠償金の援助に対する担保と、清国内で起こる排外主義運動に対する責任を理由として、「旅順大連租借に関する条約」が結ばれました。
その結果、ロシアは遼東半島南端にある旅順・大連の25年間に渡る租借権と、東清鉄道と大連とを結ぶ支線(南満洲支線)の鉄道敷設権を獲得します。
その後、明治33年(1900年)に発生した義和団の乱(北清事変)を利用して遼東半島全域にロシア軍を展開させ、旅順を要塞化するとともに、鉄道や軍港を設置するなどして更なる領土拡大を志向していきます。
ドイツ
ドイツは、明治30年(1897年)、宣教師殺害を理由に膠州湾を占領し、翌明治31年(1898年)にこれを租借するに至りました。
イギリス
イギリスは、明治31年(1898年)1月、長江流域からビルマへの鉄道敷設と長江流域を他国に割譲しないことを清国に確認させ、その上で香港対岸の新界を租借します。
また、翌明治32年(1899年)には、九龍半島及び威海衛の租借にも成功します。
フランス
フランスは、明治32年(1899年)、広州湾一帯の租借に成功します。
三国干渉後の日本
新たな権益獲得に失敗
以上の列強各国の中国切り取りに対し、日本も乗り遅れまいとしたのですが、三国干渉による軍事的・政治的権威の失墜により朝鮮半島への影響力が低下したこと(親露派の閔妃台頭など)や下関条約で割譲を受けた台湾の平定に手間取ったことなどから(乙未戦争)大きく出遅れ、台湾に近い福建省を他国に租借・割譲することを禁止する約定を取り付けるのが精一杯でした。
軍拡へ
日本政府は、三国干渉による遼東半島喪失という屈辱に対し、臥薪嘗胆を合言葉にして、悲憤慷慨する国民に負担を求めてロシアを仮想敵国とするとてつもない軍拡を行います(日清戦争が終わった明治28年の総歳出は約9160万円【軍事費率32%】であったにもかかわらず、翌明治29年には約2億円【軍事費率48%】に急増しています。
具体例を挙げると、大日本帝国海軍において、明治29年(1896年)から海軍拡張計画(第一期拡張計画・第二期拡張計画)を策定・実行し、後の六六艦隊計画・八八艦隊計画などの帝国海軍対露戦備の中核をなしていきました。
この急速な軍備拡大は、まだまだ生産力に乏しかった時代の無理な生産体制でしたので、日清戦争に勝利したはずの日本の国民生活は明るいものではありませんでした。
それにも関わらず、三国干渉のみならず、その後のロシアの南下政策が日本国民の我慢・忍耐に対する怒りのはけ口となり、ロシアが日本国民のヘイトを集めていたため、国民総意により軍拡が進められていきました。
そして、急速な軍拡により、日本国内でロシアとの対決を求めるナショナリズムの高揚・対ロ強硬論が高まっていき、日露戦争に向かっていくこととなったのです。