【ロシア側から見た日露戦争の原因】なぜロシアは東アジアに向かったのか

明治37年(1904年)から明治38年(1905年)9月までの間、大日本帝国とロシア帝国との間で戦われた日露戦争ですが、なぜこの戦争が起こったのでしょうか。

日本側から見ると、日清戦争により獲得したはずの遼東半島が三国干渉により奪われた対ロ悪感情や、朝鮮半島の支配権を巡るロシアとの軋轢が主たる原因と説明されるのが一般的です。

では、ロシアの戦争目的は何だったのでしょうか。

ロシアの政治的・経済的中心地はモスクワやサンクトペテルブルクがある領土西端部です。

そのため、極東の地は、ロシアから見ると辺境地に過ぎません。

それにも関わらず、ロシアは、国家・国民に多大な犠牲を強いてまで獲得しなければならない利益がこの極東の地あったのです。

本稿では、なぜロシアは日本と戦争してまで極東の地に進出して来たのか、その理由について歴史的経緯を順に説明していきたいと思います(なお、本稿は、あくまでも日本史ブログであり、日本史を理解する限度で必要な範囲の説明に留め、世界史分野となる詳細な説明は割愛します。)。

ロシアの南下政策目的

1721年11月に建国し、ユーラシア大陸北部に広大な面積を領したロシア帝国(以下、単に「ロシア」といいます。)ですが、その国土の大部分は高緯度に位置する寒冷地であることから耕作できる作物の種類が限られ、農業生産力が高いとは言えませんでした。

そして、寒冷地でも耕作できる麦を収穫することはできるのですが、麦の収穫時期は秋ですので、収穫した麦を集荷して海外に売却しようとする頃には海が凍り、ロシアの麦を海外に輸出して金銭を得ることは困難でした。

このような状況下であったため、ロシア帝国では、温暖湿潤のよりよい環境を求める機運がありました。

また、ロシア内で得ることができない資源・物資などについては交易で獲得する必要があるのですが、ロシア内では、黒海・日本海・ムルマンスク地区・カリーニングラードを除くほとんどの港湾が冬季に結氷し、使用不可能となってしまいました。

これによる冬季の港湾使用制限は、政治・経済上のデメリットとなるだけでなく、ロシアの軍事戦略上も看過できないデメリットとしてあり続けました。

そこで、ロシアとしては、これらのデメリットを払拭するため、温暖地域の獲得と、年間を通して凍結することのない「不凍港」の獲得を目指し、国家政策として南下政策を推進していきました。

このロシアの動きに対し、膨大な資源や人口を擁するロシアが本格的に海洋進出を始めると利権を侵害されると考えた西欧諸国は危機感を強めます。

バルカン方面・中央アジア方面への南下失敗

バルカン方面への南下政策(1821年頃~)

不凍港を目指すロシアは、まずは、ロシアの政治的・経済的中心地から最寄りとなるルートでの不凍港を模索します。

このときまず考えたのが、アゾフ海を通って黒海に抜け、その先のバルカン半島から地中海に抜ける海ルートでした。

このルートは、ロシアが国教とするために強い影響力を持つギリシア正教会の本拠地があるギリシア(バルカン半島)があり、また同じスラブ人が多く住む地域であったために協力を得ることが容易であったため(パン=スラブ主義)、ロシアの南下ルートとして最も利用しやすいルートと考えられていました。

① ダーダネルス海峡・ボスフォラス海峡の通航権獲得

そこで、まず、ロシアは、1821年に勃発したオスマン帝国からのギリシア独立を支援する独立戦争(ギリシア独立戦争)においてギリシアを支援することで自らの政策を実現しようと図ります。

そして、ギリシア側がオスマン帝国側に海戦で勝利したタイミングで、ロシアは、オスマン帝国からダーダネルス海峡及びボスフォラス海峡の自由通行券権を認めさせることに成功しました。

② ダーダネルス海峡・ボスフォラス海峡の独占通航

ギリシア独立戦争終結後に、オスマン帝国側で戦ったオスマン帝国とエジプトがシリアの領有権を争って仲違いをし、1831年から両国間で戦争が勃発します(第1次エジプト・トルコ戦争)。

このとき、ロシアは、オスマン帝国側に与し、その際に前回獲得したダーダネルス海峡・ボスフォラス海峡について、ロシア以外の外国船の通航を禁止することをオスマン帝国に認めさせてしまいました。

③ ダーダネルス海峡・ボスフォラス海峡の通航権喪失(1840年)

その後、再びオスマン帝国とエジプトがシリアの領有権を争って1839年から両国間で戦争状態となったのですが(第2次エジプト・トルコ戦争)、ここでもロシアはオスマン帝国側に与して参戦します。

ところが、この戦争時にロシアの南下政策の野望が欧米列強に周知されることとなり、全力でつぶしにかかられます。

1840年に締結された同戦争の講和会議(ロンドン会議)において、ダーダネルス海峡・ボスフォラス海峡について、全ての外国軍艦の通航が禁止されることに決まり、ロシアは先の戦争で獲得したこれらの海峡の独占通航権はもちろん、単なる通航権さえも失ってしまったのです。

以上の結果、アゾフ海→黒海→地中海という海ルートでの不凍港獲得は失敗に終わりました。

④ 黒海通航が不可能となる(1856年)

以上の結果、ロシアは、より直接的にオスマン帝国を支配下に置き、その影響下で黒海航行権を獲得しようと考え、オスマン帝国がフランスに聖地エルサレムの管理権を譲渡したことを問題視し、1853年にギリシア正教徒の保護を名目として同国と開戦するに至ります(クリミア戦争)。

ところが、このロシアの野望は、ロシアの南下を阻止しようとするイギリス・フランス・サルデーニャの反発に遭い、これらの国がオスマン帝国側に与したため、これら連合軍にロシアは大敗北を喫します。

そして、1856年のクリミア戦争の講和条約であるパリ条約が締結され、そこで黒海が中立化されることが定められたことが決められたため、ロシア艦隊が黒海を通行することができなくなりました。

この結果、ロシアのバルカン半島方面からの南下政策(アゾフ海→黒海→地中海)の失敗が確定します。

中央アジア方面への南下政策(1864年頃~)

バルカン半島方面での南下政策に失敗したロシアは、次に、現在のカザフスタン→ウズベキスタン→トルクメニスタン→アフガニスタン→パキスタンへと順に南下し、アラビア海に抜けるルートを目指します。

そこで、ロシアは、1864年、現在のカザフスタン南部にあったコーカンド=ハン国(西トルキスタンのウズベク人の国家の1つ)に侵攻を開始した上で、翌年現在のウズベキスタンの首都にあたるタシケントを占領します(なお、ロシアは、1867年にタシケントにトルキスタン総督府を置いています。)。

また、同じくウズベキスタン人の国であったブハラ=ハン国とヒヴァ=ハン国にも侵攻して、この両国を保護国としてしまいました。

その後、ロシアは、遊牧民国家であったトルクメニスタンにも侵攻を開始した上で、ロシア領トルキスタンを設置してしまいました(1881年には最後のトルクメニスタン方が破れ、以降トルクメニスタン全域がロシアの支配下に置かれることとなりました。)。

もっとも、ロシアのトルクメニスタン進出は、その南東に重要植民地であるインドを有するイギリスを刺激し、以降のロシアの南進に対してはイギリスの抵抗を受けることとなりました。

この結果、これ以上のロシアの南進が困難となり、トルクメニスタンまで進出したロシアと、イギリス領インドを抱えるイギリスが、その中間に位置するアフガニスタンとイランを緩衝地帯とすることでにらみ合いが続くこととなったのです。

そして、ロシアとしても、当時の覇権国家であったイギリスを敵に回してまで南進政策を続ける判断はできず、中央アジア方面からアラビア海に抜ける南下政策もまた失敗に終わります。

東アジア方面に進出

東アジア方面への南下政策(1891年頃~)

バルカン方面・中央アジア方面の2方向での南下政策に失敗したロシアは、やむなく次の手段として、東アジア方面に抜けるルートを模索します。

この点、17世紀頃からの東進政策によりシベリアをその支配下においていたロシアでしたが、東アジア方面は政治・経済の中心地であったモスクワやサンクトペテルブルク(ペトログラード)から遠く、容易に進出できる地域ではありませんでした(シベリアの開拓にも手を焼いていました)。

もっとも、冬の海に進出することが悲願となっているロシアにとって、この時点では東アジア以外に不凍港を得る手段がありませんでした。

そこで、ロシアは、まずは1860年に、太平天国の乱とアロー号戦争で弱体化した大清帝国との間で北京条約を締結し、外満洲全土の割譲を受けると共に、悲願の不凍港となるウラジオストクの獲得に成功します(この後、ウラジオストクから太平洋に進出するルートを確保するため、1891年にシベリア鉄道を着工します。)。

また、ロシアは、明治31年(1898年)3月に対日賠償金の援助に対する担保と清国内で起こる排外主義運動に対する責任を理由とする「旅順大連租借に関する条約」を締結し、遼東半島南端にある旅順・大連の25年間に渡る租借権と、東清鉄道と大連とを結ぶ支線(南満洲支線)の鉄道敷設権を獲得します。

これにより、ロシアは、遼東半島に2つ目となる不凍港(軍港である旅順・貿易港である大連)の獲得に成功します。

ロシアとしては、獲得した不凍港を守り抜くため、明治33年(1900年)に発生した義和団の乱(北清事変)を利用して遼東半島全域にロシア軍を展開させ、さらには旅順を要塞化して軍事要塞化してその防御力を高めます。

さらには、遼東半島にまでシベリア鉄道を延伸することにより兵站を整えた上、更なる領土拡大を志向していきました。

勢力を高める日本と対立

ところが、この東アジア方面におけるロシアの勢力拡大は、同地域への進出を図る(主に朝鮮半島の支配権を確保しようとする)日本の利益と相反します。

三国干渉によって遼東半島を返還させられるという屈辱を受けた日本は、臥薪嘗胆を合言葉にして、悲憤慷慨する国民に負担を求めてロシアを仮想敵国とするとてつもない軍拡を行います(日清戦争が終わった明治28年の総歳出は約9160万円【軍事費率32%】であったにもかかわらず、翌明治29年には約2億円【軍事費率48%】に急増しています。

具体例を挙げると、大日本帝国海軍において、明治29年(1896年)から海軍拡張計画(第一期拡張計画・第二期拡張計画)を策定・実行し、後の六六艦隊計画・八八艦隊計画などの帝国海軍対露戦備の中核をなしていきました。

この急速な軍備拡大は、まだまだ生産力に乏しかった時代の無理な生産体制でしたので、日清戦争に勝利したはずの日本の国民生活は明るいものではありませんでした。

それにも関わらず、三国干渉のみならず、その後のロシアの南下政策が日本国民の我慢・忍耐に対する怒りのはけ口となり、ロシアが日本国民のヘイトを集めていたため、国民総意により軍拡が進められていきました。

そして、急速な軍拡により、日本国内でロシアとの対決を求めるナショナリズムの高揚・対ロ強硬論が高まっていきました。

ロシアの満州進出(1901年9月)

明治34年(1901年)9月7日、義和団の乱の戦後処理に関する清国と八カ国連合軍と清・義和団との最終議定書(北京議定書)が締結されると、これを根拠としてロシアが満州(中国東北部に位置する東北3省)を事実上占領し同地域の権益を独占したことから、これら一連の動きがロシアの海洋進出を畏れるイギリス等の列強各国を刺激します。

このロシアによる満州進出(南下政策)の動きに対し、満州をロシアに押さえられてしまうと満州と陸続きである韓国における権益が脅かされると判断した日本は、ロシアとの協調を模索します。

また、この動きとあわせてヨーロッパでロシアと対立するイギリスに接近し、第1次桂内閣で日英同盟の締結と韓国の保護国化を進める方針がとられます。

そして、明治35年(1902年)に日英同盟が成立したことにより、朝鮮半島・満州を巡るロシアとの軍事的な緊張が高まりました。

そして、シベリア鉄道の全線開通が迫る1902年には、対ロ強硬論が最高潮を迎えた日本と、ロシアの海洋進出を恐れるイギリスとの間で軍事同盟(攻守同盟条約)となる日英同盟が締結され、共同してロシアの拡大を防止することが約束されました。

日露交渉決裂

緊張が高まる日露関係を改善するため、日本とロシアとの間で関係改善交渉が続けられたのですが、ロシア側に南下政策を撤回する意思はなく、明治37年(1904年)についに日露交渉が決裂します。

その結果、日本では、日本が影響力を持つ韓国とその周辺からロシア軍を一掃するためにロシアと開戦することに決定されました。

日露戦争開戦(1904年2月10日)

そして、明治37年(1904年)2月8日に戦闘が始まり、同年2月10日に互いに宣戦布告が行われた結果、日露戦争が始まります。

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