【第46代孝謙天皇・第48代称徳天皇】道鏡を寵愛して皇統を危険に晒した女帝

孝謙天皇/称徳天皇(こうけんてんのう/しょうとくてんのう)は、聖武天皇と人臣史上初の皇后となった藤原氏出身の光明皇后との間に生まれた皇女であり、藤原氏の思惑により日本史上唯一の女性皇太子となり、その後即位した史上6人目の女性天皇です。

孝謙天皇として即位したのですが、即位後は、光明皇后とその甥である藤原仲麻呂の傀儡として扱われました。

その後、藤原仲麻呂の意を受けて、一旦は淳仁天皇に譲位して太上天皇となったのですが、光明皇后が死亡すると道鏡と協力して藤原仲麻呂を討伐します(藤原仲麻呂の乱)。

その後、称徳天皇として重祚すると、政敵を次々と粛清して強い権力を握り、その権力を女性として入れ上げていた道鏡に譲ろうとして奔走します。

もっとも、この計画は、和気清麻呂の手により失敗に終わり(宇佐八幡宮神託事件)、称徳天皇は失意の中で崩御されました。

なお、称徳天皇の死後、皇位が天智天皇系の光仁天皇が即位したため、称徳天皇は天武系最後の天皇となっています。 “【第46代孝謙天皇・第48代称徳天皇】道鏡を寵愛して皇統を危険に晒した女帝” の続きを読む

本能寺の変が起こった場所はなぜ「本能寺」だったのか?

戦国時代で最も有名な事件といえば「本能寺の変」です。

天下統一を目前にした織田信長が、天正10年(1582年)6月2日、家臣である明智光秀の謀反により横死したという事件であり、教科書はもちろん映画・小説・ドラマなどでも何度も紹介される日本人なら誰でも知っている大事件です。

明智光秀の謀反理由は不明であり、現在まで明らかとなっていないことから様々な説が唱えられています。

他方、あまり話題になっていないことがあります。

それは、数ある京の寺院の中で、発生場所がなぜ「本能寺」だったのかということです。

当時の本願寺は不便な下層エリアに位置しており、一応の防衛構造を持ってはいたものの織田信長が寝所にするには不安がある場所だったこともあり、実は織田信長が本能寺にいたのは偶然だったのです。

以下、本能寺の変の際に織田信長が本能寺にいた理由について簡単に説明します。 “本能寺の変が起こった場所はなぜ「本能寺」だったのか?” の続きを読む

【本願寺の歴史】成立から東本願寺と西本願寺に分かれるまでの経緯

本願寺は、親鸞が開いた鎌倉仏教の1つである浄土真宗(ただし、浄土真宗の宗旨名が用いられるようになったのは親鸞没後)の寺院です。

日本最大の信者を持つ仏教宗派の中心寺院なのですが、元々は貧乏寺院であった上、建立しては破却されるという苦難を経て京都に辿り着いた歴史があります。

また、ようやく京都に辿り着いた後も、豊臣・徳川の争いに巻き込まれて東西に分裂し現在に至っています。

本稿では、現在に至る本願寺の歴史について簡単に説明していきたいと思います。

なお、当ブログは歴史ブログであり、また筆者は宗教家ではないため、教義や作法など宗教的な内容はわかりませんので、その旨ご了承下さい。 “【本願寺の歴史】成立から東本願寺と西本願寺に分かれるまでの経緯” の続きを読む

【化野】平安京西側にあった三大葬送地の1つ

化野(あだしの)は、京都嵯峨の奥に位置する小倉山麓手前の緩やかな傾斜地です。

仇野・徒野とも書かれます。

かつて平安京三大葬送地の1つとして多くの遺体が葬送された場所でした。

化野を詠んだ歌も数知れずあり、その名は「無常の野」の意として人の世のはかなさの象徴としても用いられた場所でもありました。 “【化野】平安京西側にあった三大葬送地の1つ” の続きを読む

【守護大名と戦国大名の違い】

いずれも室町時代における軍事勢力の長の呼称である守護大名と戦国大名の違いを説明できますか。

学術的な細かい定義はおいておいて、ざっくり一言で行ってしまうと、室町幕府によって守護職任命されてその権威をもって分国を支配する者が守護大名であり、自らの軍事力・経済力によって領国を支配する者が戦国大名です。

イメージとしてはそれほど違いがないかのように思えてしまうのですが、権力の背景の違いから、大名の居住地・領国の実務支配者・居城の位置・国人に対する影響力の程度など、実際には多岐に亘る大きな違いが存在しています。

本稿では、この守護大名と戦国大名の違いについて、その成り立ちから簡単に説明したいと思います。 “【守護大名と戦国大名の違い】” の続きを読む

【樟葉宮】大阪府枚方市にあった継体天皇即位宮殿跡

樟葉宮(くすはのみや)は、古墳時代に即位した大王(第26代)天皇である継体天皇が即位した宮殿です。

先代であった第25代武烈天皇が後継者なくして崩御されたため、越前国を治めていた継体天皇が次期大王(天皇)として迎えられることとなりました。

このとき、継体天皇は、越前国を出て当時の都であった大和国に向かっていたのですが、その道中で即位することとなり、即位をし、さらにその後4年間に亘って滞在した場所が河内国樟葉の樟葉宮です。

大和国に向かっていたのになぜ河内国樟葉で即位したのか、その後なぜ樟葉宮に4年間も滞在したのかなどの詳しいことはわかっていません。

また、樟葉宮跡地についても伝承地とされており、必ずしも正確とは言えないのかもしれませんが、古代を偲ぶ一助となればと思い、本稿では樟葉宮について簡単に紹介したいと思います。 “【樟葉宮】大阪府枚方市にあった継体天皇即位宮殿跡” の続きを読む

【奈良奉行所】大和国に築かれた江戸幕府の繋ぎの城

奈良奉行所は、江戸幕府が地方の主要都市に設置した遠国奉行の1つであり、奈良廻り八カ村の行政・訴訟、大和国内の寺社支配を職掌とする役所です。奈良町御奉行・南都町奉行・南京奉行とも呼ばれます。

慶長18年(1613年)に中坊秀政が奈良奉行に任命されたのをはじめとして江戸末期まで42代に及ぶ奉行が任命されました。

有事の際には、上方から江戸までの繋ぎの城の機能を持っていたため、その他の地域の奉行所と比べても異常なほどの巨大な要塞でした。 “【奈良奉行所】大和国に築かれた江戸幕府の繋ぎの城” の続きを読む

【本町の曲がり】東横堀川にあった謎のクランク

「本町の曲がり」とは、現在の大阪市中央区内を南北に流れる東横堀川のうち、本町橋(北側)と農人橋(南側)との間にある折れ曲がり部分をいいます。

東横堀川開削時にできた謎のクランクであり、自殺の名所として有名な場所でもありました。

現在までにクランクは緩いS字カーブに造り変えられまたその上空には阪神高速の高架が架けられていますので、現在の姿は往時の姿ではないものの、往時の名残が残る場所となっています。

本稿では、この本町の曲がりについて、その完成の経緯から簡単に見ていきたいと思います。 “【本町の曲がり】東横堀川にあった謎のクランク” の続きを読む

【智積院】京都東山にある根来寺

智積院(ちしゃくいん)は、現在の京都市東山区にある真言宗智山派の総本山の寺院です。

開山は玄宥僧正、山号は五百佛山(いおぶさん)、寺号は根来寺(ねごろじ)となっています。

京都の東山にある寺院であるにもかかわらず、根来寺という和歌山県岩出市にある新義真言宗総本山寺院の寺号が付されているのには悲しい歴史的沿革があります。

本稿では、智積院観光が楽しめるよう、京都東山に建てられて真言宗智山派の総本山にまでなった歴史を踏まえ、智積院について簡単に解説していきたいと思います。 “【智積院】京都東山にある根来寺” の続きを読む

【天下茶屋の地名由来】天下人・豊臣秀吉の茶屋

大阪市西成区「天下茶屋」や、大阪市高速電気軌道 (Osaka Metro) の「天下茶屋」駅の由来をご存じですか。

大阪の天下人ゆかりの茶屋があったことからその名が付されました。

本稿では、この「天下茶屋(てんがちゃや)」という地名の由来について、簡単に説明していきたいと思います。 “【天下茶屋の地名由来】天下人・豊臣秀吉の茶屋” の続きを読む