【守口宿】東海道最後の宿場町

守口宿(もりぐちしゅく)は、現在の大阪府守口市本町1・2丁目、竜田通1丁目、浜町1・2丁目付近にあった東海道最後の宿場町(東海道五十七次の57番目の宿場町)です。

淀川洪水対策として大坂と伏見を結ぶ全長約27kmの淀川堤防上の道(文禄堤)沿いに建ち並ぶ特徴的な宿場町でした。

大坂からわずか2里(約8km)・枚方宿からも3里(約12km)という距離の近さから、当初から馬継ぎがなく人足のみの勤めとなっていた上、淀川に面していながら川舟との連絡がなかったために淀川舟運の発展につれて次第に客を失っていった宿でもあります。

守口宿指定に至る経緯

守口について

守口の名称が資料上初めて登場するのは、正平2年(1347年)に創建したとされる現在の大阪府守口市佐太中町7丁目11-17所在の来迎寺の「来迎寺縁記」です。

その後、この地名は様々な文書に出てくるのですが、森口・杜口・守口など様々な字が当てられていました。

その後、安土桃山時代に全国統一を果たした豊臣秀吉は、隠居城として伏見に新城を築きます。

それまで、淀川は度々氾濫し大雨が降ったりすると大坂と伏見の交通が遮断されることが多かったのですが、伏見に入った豊臣秀吉は、降雨量が多い場合にも通行可能となるルートを指定して堤防を築くよう毛利家に命じます。

そして、この命を受けた毛利家により、文禄5年(1596年)、大坂と伏見を結ぶ全長約27kmの淀川堤防とその上の道(文禄堤)が完成しました。

この文禄堤は守口の町中を貫通しており(というより、守口の町が文禄堤上に築かれており)、守口の町が交通の要衝となりました。

その後、関ヶ原の戦いを経て支配者の地位が豊臣家から徳川家に移ると、新たに支配者となった徳川家康が、慶長6年(1601年)、江戸と京都を結ぶ主要ルートである東海道を整備します。

もっとも、徳川家康は、豊臣家がある大坂までの街道整備を行うことはせず、陸運の大動脈であった東海道も、江戸・日本橋から京・三条大橋までと定めたため(東海道五十三次)、守口の町も主要街道からは外れてしまいました。

東海道延伸

もっとも、慶長20年(1615年)に大坂の陣で豊臣家を滅ぼした江戸幕府は、大坂の経済力を取り込むために再建に着手した上で同地を直轄化することとし(実際に直轄地としたのは元和5年/1619年)、それまで江戸と京を結んでいた東海道を大坂まで延伸することとします。

この延伸ルートとして江戸幕府が目を付けたのが、豊臣秀吉が築いた伏見・大坂間を結ぶ文禄堤でした。

江戸幕府は、整備費用を節約するために大坂と伏見を結ぶ文禄堤上に街道を整備し(京街道)、さらに伏見から髭茶屋追分までの間に大津街道(伏見通)を整備することにより東海道を約54km延長します。

守口宿が宿駅指定(1616年)

そして、東海道延伸に伴い、江戸幕府は、延伸された東海道の道中にある伏見・淀・枚方・守口に計4宿の宿場町を整備し、元和2年(1616年)に守口宿を宿駅に指定しました(宿駅制定証文)。

このうち、守口宿は、大坂に向かう場合には最後の、大坂側を出る場合には最初の宿場町とされ、東海道と奈良街道(清滝街道・守口街道)の分岐点として栄えました。

守口宿の構造

守口宿は、文禄堤上に東海道に沿って続く南北(上見付・下見付間)11町51間の細長い宿場町です。なお、前記のとおり、京街道は豊臣秀吉によって築かれた文禄堤を再整備することによって使用されましたので、その道中にあった守口宿の本陣・問屋場・旅籠・茶屋などの主要建物は、文禄堤上に設けられ、これが当時のメインストリートとなっていました。なお、文禄堤は淀川の堤防ですので周囲より高台となっていたところ、その名残は現在も残されているため、現地に行っていただければ守口宿跡だけ高台に位置していることがよくわかります。

大坂からわずか2里(約8km)・枚方宿からも3里(約12km)という距離の近さから、当初から馬継ぎはなく、人足のみの勤めとされました。

清滝街道との分岐点であったことから同街道に向かう旅人向けの旅籠や茶屋で繁盛した一方で、淀川に面していながら川舟との連絡がなかったために淀川舟運の発展につれて次第に客を奪われて苦しくなっていった側面もありました。

天保14年(1843年)作成の「東海道宿村大概帳」(道中奉行所編)によると、本陣1軒・旅籠27軒・問屋場1軒・民家177軒・人口764人の構成であったとされています。

一里塚

守口宿の京側一里塚は、守口宿から京側一里先にある守口宿への出入口の目印(あと1里で守口宿に到着するという目印)です。

上見付

上見付は、守口宿の上側(京側)の出入口です。

上見付から下見付までの間が守口宿とされています。

瓶橋

盛泉寺(東御坊)

盛泉寺は、慶長11年(1606年)に東本願寺の末寺として、教如上人が開基したと伝えられる寺です。

盛泉寺は東御坊、同寺の西側にある難宗寺が西御坊と呼ばれました。

盛泉寺の本堂は元和元年(1615年)に大坂の陣の戦乱の際に消失し、その後の風水害を経て、天保6年(1835年)に再建された本堂が現在に至っています。

難宗寺(西御坊)

難宗寺は、文明9年(1477年)に蓮如上人が守口坊として建立し、慶長16年(1611年)に本願寺掛所となり、西御坊と呼ばれるようになったと言われます。

元和元年(1615年)に大坂の陣の戦乱の際に消失し、その後の風水害を経て、文化4年(1807年)に再建された本堂が現在に至っています。

守口道標

守口道標は、難宗寺と本陣との間のクランク部分に置かれた道標です。

高札場

高札場は、江戸幕府が定めた法律・規則、地位で定めた御法度・掟などを墨書きした木版を掲げる場所であり、守口宿の高札場は現在の国道一号線「八島交差点」付近に設けられていました。

守口宿の高札場は、長さ2間1尺5寸(約4m)・横幅5尺5寸(約15m)の枠に、6枚の札が掲げられていたと伝えられています。

その後、守口宿の廃止に伴い、高札場も失われたのですが、平成28年(2016年)に位置を変えて再建されています。

本陣(吉田八兵衛家)

守口本陣は、大名・勅使・幕府役人などが宿泊した幕府公認の宿です。

守口本陣のすぐそばには問屋場(宿場の人馬の継立事務を行う役所)が設けられたため、本陣前の街道は15mもの道幅が設けられました(守口宿の他の場所の道路幅は2間半【約4.6m】)。

来迎坂

来迎坂は、文禄堤から東向きに下る坂道であり、奈良街道への起点となっていました。なお、分岐点には道標が残されています。

かつて坂の下に来迎寺があったことからその名が付され、現在も来迎町という地名として残されています。

なお、現在の来迎坂は石階段となっています。

十三夜坂

十三夜坂は、文禄堤から下る坂道であり、中高野街道への起点となっていました。

丁子屋(茶店)

丁子屋は、淀川船着場(大坂・八軒屋、枚方・鍵屋、淀・下町、伏見・京橋船屋などと往来)や下見付近くにあった茶店です。

丁子屋は、これらの陸路・水路を行く旅客を相手に営業し、大いに賑わいました。

丁子屋廃業後、本門佛立宗の開祖である日扇聖人が京から大坂に向かう途中に同店で休憩した後に亡くなったという由縁から、明治29年(1896年)、同店跡地に宥清寺出張説教所が創建され、それが昭和21年(1946年)に鶴林山義天寺となって現在に至ります。

下見付

 

守口宿廃止

明治5年(1872年)に守口宿が廃止され、現在までにその遺構の多くが失われています。

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