綏靖天皇陵は、第2代天皇であるとされる綏靖天皇の陵です。
宮内庁により奈良県橿原市四条町の遺跡名・俗称「塚山」「塚根山」がこれに治定されており、陵の名としては桃花鳥田丘上陵(つきだのおかのえのみささぎ)と呼ばれます。
日本で長い間尊崇を集めてきた天皇の中の墓所ですので、丁重に祀られた上で引き継がれてきた場所だと思われがちなのですが、中世には荒廃してその場所すらわからなくなっています。
そのため、前記の桃花鳥田丘上陵が本当に綏靖天皇陵であるかは必ずしも明らかではありません(そもそも、綏靖天皇が実在していたかすら定かではありません。)。
以下、紆余曲折を経て現在地の治定に至った経緯を基に綏靖天皇陵について説明していきます。
【目次(タップ可)】
現在の綏靖天皇陵に至るまでの経緯
文献上の存在記録
史実としては必ずしも存在が立証されている訳ではない綏靖天皇ですが(むしろ、存在がかなり疑問視されています)、日本書紀では「桃花鳥田丘上陵」、古事記「衝田岡(つきだのおか)」所在と記載されていることから、遅くとも飛鳥時代には存在していたことがわかっています。
また、平安時代に定められた延喜式・諸陵寮に「桃花鳥田丘上陵」が東西1町・南北1町・守戸5烟で遠陵と記載されていることから、少なくとも平安時代に入る頃にも綏靖天皇陵が残存していたと考えられます。
中世期に所在不明となる
守衛・清掃などを担当する陵守(養老律令により陵戸)が使役されることにより守られていた皇族の陵墓でしたが、中世になって朝廷の力が低下していったことによりこの陵戸制度が維持できなくなり、次第に様々な陵墓が荒廃していきました。
そして、綏靖天皇陵にも同様に荒廃し、遂にはその所在すらわからなくなってしまうという結果となってしまいました。
江戸時代の天皇陵探し
その後、江戸時代に入って太平の世が訪れると、江戸幕府が天皇陵を整えることにより朝廷の庇護者となってその権威を高めようと考え、天皇陵の修陵事業が進められることとなりました。
そして、元禄期頃から万治期・延宝期・享保期・文久期など複数回に亘って様々な天皇の修陵が行われ、綏靖天皇陵についても、元禄の修陵事業の一環として所在調査から始められました。
江戸幕府がスイセン塚古墳に治定
元禄の修陵に際して行われた探陵では綏靖天皇陵の所在は明らかとならなかったのですが、江戸幕府は、明確な根拠なく畝傍山北西麓にあるスイセン塚古墳(前方後円墳・墳丘長55m)を綏靖天皇陵と治定します。
なお、このとき、初代天皇である神武天皇の陵が、畝傍山東北裾野に位置する塚山(現在の奈良県橿原市四条町)に治定されています。
現在の綏靖天皇陵
神武天皇陵論争
前記のとおり治定された綏靖天皇陵・神武天皇陵でしたが、いずれも明確な根拠なく決められたものであったため、その治定に強い疑義が持たれていました。
特に、初代天皇である神武天皇陵については様々な知識人から疑問が噴出し、四条塚山を神武天皇陵とすることに対する反対意見があり続けました。
その後、幕末の動乱期に権威を失っていった江戸幕府は、再び朝廷の権威を利用しようと考え、文久期に再び天皇陵の修陵(文久の修陵)を行うこととしたのですが、この際に再び神武天皇陵の所在が論争となります。
もっとも、もともと明確な証拠が存在しないために結論が出ない論争であったため、最終的には文久3年(1863年)2月15日に孝明天皇の勅裁によって神武天皇陵が神武田に治定されることで決着することとなりました(神武天皇陵が塚山から神武田/ミサンザイに変更)。
綏靖天皇陵の治定変更(1878年)
神武天皇陵の治定変更により、塚山が神武天皇陵ではなくなってしまったのですが、塚山は、藤原京造営時に破壊された四条古墳群(計10数基)を構成していた1つと考えられるため、別の天皇(綏靖天皇)の陵とするのにふさわしいのではないかと考えられました。
そこで、明治11年(1878年)、綏靖天皇陵がスイゼン塚から塚山することにより、神武天皇陵ではなくなった四条塚山に綏靖天皇陵が移されて治定し直されることとなりました。
現在の綏靖天皇陵
以上の経過によって治定された綏靖天皇陵=桃花鳥田丘上陵は、直径約30m・高さ約3.5mの円墳と推測されています。
発掘調査(2017年)
治定された後も円墳状であることがわかるものの古墳であるか否かすら明らかでなかった綏靖天皇陵でしたが、平成29年(2017年)に立ち入り検査が行われ、明確な判断には至らなかったものの古墳の可能性が高いと推測されに至っています。