神武天皇陵は、その名のとおり日本の初代天皇とされる神武天皇の陵です。
宮内庁により奈良県橿原市大久保町の遺跡名・俗称「四条ミサンザイ」がこれに治定されており、陵の名としては畝傍山東北陵(うねびやまのうしとらのすみのみささぎ)と呼ばれます。
日本で長い間尊崇を集めてきた天皇の中でも特別な存在ともいえる初代天皇の墓所ですので、丁重に祀られた上で引き継がれてきた場所だと思われがちなのですが、中世には荒廃してその場所すらわからなくなっています。
そのため、前記の畝傍山東北陵が本当に神武天皇陵であるかは必ずしも明らかではありません。
以下、治定に至る経緯から順に神武天皇陵について説明していきます。
【目次(タップ可)】
神武天皇陵の所在
文献上の記録
史実としては必ずしも存在が立証されている訳ではない神武天皇ですが、遅くとも飛鳥時代にはその陵が存在したことが記録されています。
すなわち、古事記では「畝火山の北の方の白檮尾上」に、日本書紀では「畝傍山東北陵」に神武天皇陵があったとされているのです(現在の奈良県橿原市にある畝傍山の北ないし東北にあったとする点では共通しているのですが、記紀で記載された所在場所は微妙に異なります。)。
また、壬申の乱の際に大海人皇子が神懸りした際に「高市社の事代主神と身狭社の生霊神」が表れ「神日本磐余彦天皇の陵に、馬及び種々の兵器を奉れ」と神託を受けたため、 神武陵に使者を送って挙兵を報告したとされていることから、天武天皇治世にも神武天皇陵が残存しており、そこに陵寺として大窪寺が建てられたと考えられています。
さらには、延喜式第21巻「諸陵式」に平安初期の神武天皇陵が東西1町・南2町の広さであったとされ、また貞元2年(977年)に同地に国源寺が建てられたとされていますので、少なくとも平安時代に入る頃にも神武天皇陵が残存していたと考えられます。
中世期に所在不明となる
飛鳥時代には皇族の陵墓の守衛・清掃などを担当する陵守(養老律令により陵戸)が使役され、持統天皇5年(691年)の規定では天皇陵には5戸・その他の王の墓には3戸の陵守により陵墓が守られていました。なお、養老2年(718年)制定の養老律令により、陵戸は諸陵寮の管理の下で賤民の扱いを受けることとなっています。
もっとも、中世になって朝廷の力が低下していったことにより陵戸制度が維持できなくなり、次第に陵墓が荒廃していきました。
そして、神武天皇陵にも同様に荒廃し、遂にはその所在すらわからなくなってしまうという結果となってしまいました。
江戸時代の神武天皇陵探し
江戸時代に入って太平の世が訪れると、江戸幕府により天皇陵を整えることにより朝廷の庇護者となってその権威を高めようと考えの下で天皇陵の修陵事業が検討されます。
そして、元禄期頃から万治期・延宝期・享保期・文久期など複数回に亘って様々な天皇の修陵が行われました。
そして、神武天皇陵についても、元禄の修陵事業の一環として所在調査から始められました。
ところが、江戸幕府の調査では、神武天皇陵所在地についての確たる証拠を見つけることができず、可能性として6箇所が想定され、そのうち記紀の記載を基に①塚山(現在の奈良県橿原市四条町・畝傍山東北裾野)、②丸山(現在の奈良県橿原市山本町)、③神武田(現在の奈良県橿原市大久保町、ミサンザイ)の3ヵ所が有力候補地と考えられることとなりました。
① 塚山
塚山は、藤原京造営時に破壊された四条古墳群(計10数基)を構成していた1つと考えられる直径約30m・高さ約3.5mの円墳円墳であり、現在神武天皇陵とされている場所から約250m北側に位置しています。
② 丸山
丸山は、畝傍山の中腹・現在神武天皇陵とされている場所から約250m南側に位置しています。
丸山の場所が畝傍山の中腹にあるところ、古事記にある畝火山の北の方の白檮「尾上」=尾根の上に最も整合すると考えられたこと、丸山には洞村と呼ばれる差別を受ける集落があったところ、前記のとおりかつては賤民の扱いを受ける陵守・陵戸が陵を守っていたことから、差別を受ける集落があったということはそこに天皇陵(神武天皇陵)があったことの証明であることなどから候補地となりました。
もっとも、丸山については、発掘調査なども行われていないため、そもそも誰かの墓であったのかどうかすら不明です。
③ 神武田(ミサンザイ)
神武田(ミサンザイ)は、現在神武天皇陵とされている場所です。
ミサンザイが、「みささぎ」が転化して付けられたと考えられることなどから候補地となりました。
なお、「神武田」は一般にそのように呼ばれていたという程度の地名で検地帳に載っているような公的なものではなく、読み方も「じぶのた」・「じんむた」・「しんむた」・「じむた」などとされており決まっていませんでした。
江戸幕府が塚山に治定
元禄の修陵の際には、前記3箇所の神武天皇陵候補地で意見が拮抗したのですが、確たる証拠に基づくこともなく江戸幕府によって四条塚山を神武天皇陵とすると治定されました。
そして、この後、四条塚山が約150年間に亘って神武天皇陵として扱われることとなります。
孝明天皇が神武田に変更(1863年2月)
ところが、その後も本居宣長・蒲生君平が丸山説を、谷森善臣がミサンザイ説を唱えるなどし、四条塚山を神武天皇陵とすることに対する反対意見があり続けました。
その後、幕末の動乱期に権威を失っていった江戸幕府は、再び朝廷の権威を利用しようと考え、文久期に再び天皇陵の修陵(文久の修陵)を行うこととしたのですが、この際に丸山説を主張する北浦定政の「神武天皇御陵考」・ミサンザイ説を主張する谷森善臣の「神武天皇御陵考」が山陵御用掛に提出されたことにより再び神武天皇陵の所在が論争となります。なお、このときには江戸幕府公認していた塚山説はすでに検討の対象にすらなりませんでした。
もっとも、もともと明確な証拠が存在しないために結論が出ない論争であったため、最終的には文久3年(1863年)2月15日に孝明天皇の勅裁によって神武天皇陵が神武田に治定されることで決着することとなりました(神武天皇が塚山からミサンザイに変更)。
その結果、この時点ではその名のとおり水田として利用されていた神武田が、突然の神武天皇陵治定により大改修が行われることとなり(田→陵)、江戸幕府により工面された1万5000両を用いて宇都宮藩により整備(文久の修陵)が開始されることとなります。
他方、神武天皇陵ではなくなった四条塚山は、明治11年(1878年)に綏靖天皇陵に治定され現在に至っています。
八月十八日の政変の契機となる
もっとも、この文久の修陵を利用して大事件が勃発します。
三条実美などの急進派公家や真木和泉ら長州藩士らが画策して孝明天皇を大和に行幸させ、その間に御所を焼き払い天皇を長州に迎えるとの計画が進められたのです。
そして、この計画に乗せられた孝明天皇により、文久3年(1863年)8月13日、大和行幸の詔が渙発されたのですが、この画策は失敗に終わって(八月十八日の政変)、孝明天皇の大和行幸も中止となっています。
現在の神武天皇陵
神武天皇陵完成(1863年11月)
そして、前記のとおりの紆余曲折を経た文久3年(1863年)11月、ついに神武天皇陵の修陵が完了します。
神武天皇陵修陵完成後の同年11月28日に孝明天皇が勅使柳原光愛を神武天皇山陵に派遣し、また同年12月8日には孝明天皇自ら御所東庭に下り立ち神武天皇陵を拝し祈りを捧げています(孝明天皇紀)。
橿原神宮の急造
また、江戸時代末期に神武天皇陵が完成したのですが、その後に陵の近くに神武天皇即位を証する神社を創建すべきであるとの地元の請願が出されます。
そこで、この意見を受けて、明治23(1890年)年の皇紀2550年に合わせて、即位の地である橿原宮跡に神武天皇とその皇后を祀る橿原神宮が創建されました。
橿原神宮には、明治天皇の意向によって、本殿に京都御所の温明殿・拝殿には京都御所の神嘉殿(後の神楽殿・平成5年/1993年に焼失)が用いられ、最高社格の官幣大社に列せられました。
その後、当初約2万坪で創建された橿原神宮が、その後の神武天皇2500年祭・皇紀2600年整備事業などで順次拡張され、現在の規模となりました。
神武天皇陵のさらなる整備
さらに、現在所在地(記紀が基準とした畝傍山からは東北約300m離れた現在の奈良県橿原市大久保町洞)に鎮座することとなった神武天皇陵もまた明治時代にさらに整備が進められ、明治31年(1898年)に幅円墳(このため宮内庁上の形式では円丘とされています)が築かれ古墳の体裁が整えられました。
そして、大正6年(1916年)には畝傍山中腹にあった洞村(208戸)が天皇陵を見下ろしているため不敬であるとして集団移転させられる事件が起こり(洞村移転問題)、その後皇紀2600年(昭和15年/1940年)までに洞村跡地全域に及ぶ範囲で拡張工事が行われ、現在のような堂々たる姿になりました。
現在の神武天皇陵の構造
現在の神武天皇陵は、幅約16m・1辺の長さ100m余四方の周濠の中に高さ5.5mの八陵円形円墳が配される構造となっています。
そして、そこに至るまでに玉砂利が敷かれた長い参道が設けられ、かつての国源寺の跡とされる土壇を基礎として土手・鳥居・拝所などが設けられたことにより(国源寺は明治初期に大窪寺跡地に移転)、これらを含めた範囲は東西500 m・南北約400mを誇る規模となりました。
なお、神武天皇陵は、幕末に治定・整備されたものであるため埋蔵文化財包蔵地とはされてはいません。