蘇我理右衛門(そがりえもん)は、天正19年(1591年)に銅と銀の合金(粗銅)から鉛を利用して銀と銅を精錬する技術である南蛮絞り(南蛮吹き)を確立し、日本から明国へ安価な粗銅として銀が流れて行くことにより国富が失われることを停止させた人物です。
また、住友家に養子に出した長男・住友友以が、蘇我理右衛門が開発した南蛮絞りの技法を用いて住友家を日本国内の3分の1とも言われる膨大な量の銅精錬業者に成長させたことから、そのきっかけを作った蘇我理右衛門が住友家の業祖として称されるに至っています。
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蘇我理右衛門の出自
出生(1572年)
蘇我理右衛門は、元亀3年(1572年)、蘇我平兵衛の次男として河内国五條(現在の大阪府東大阪市枚岡)で生まれます。
銅精錬・銅細工として独立(1590年)
成長した蘇我理右衛門は、銅精錬・銅細工の修業を経て、天正18年(1590年)に京の寺町五条(松原)において銅吹所を設けて「泉屋」の屋号で銅精錬業者として独立します。
なお、屋号の「泉屋」は、近所の五条天神の夢告から「セン」の音を貰い、これに父・蘇我平兵衛の出身地である和泉国の「泉」字を充てたと言われています。
南蛮絞り・南蛮吹き開発(1591年)
蘇我理右衛門が銅精錬・銅細工として独立した天正18年(1590年)頃は、明の海禁政策の緩和の影響から日本と明国との間で民間貿易が盛んに行われていた時期でした(時期的に朱印船貿易も)。
この貿易では、日本からは金・硫黄・太刀などに加え、銅が輸出されていたのですが、この頃の日本では灰吹法などの精錬技術がなかたため、中に銀が混入した状態の銅を輸出していました。
日本から銀が混ざった銅(銅と銀の合金=粗銅)を購入した明国商人は、購入した銅と鉛の合金に鉛を混ぜて加熱し、融点の違いを利用してまずは銅を精錬した後(銅と鉛は混ざりにくく融点は1085度、銀と鉛は混ざりやすくこの合金の融点は割合により異なるものの400度前後)、灰吹法により骨灰皿の上で銀を精錬することにより、銅価格のみで購入した銅と銀の合金(粗銅)から銅のみならず銀まで得ることに成功し、大きな利益を得ていました。
明国商人の利益は日本商人の損害であり、日本側は、この頃の日明貿易により膨大な量の銀をほぼ無償で明国に流出させてしまっていました。
この日本側の損失に歯止めをかけたのが蘇我理右衛門です。
蘇我理右衛門は、天正19年(1591年)、泉州堺で南蛮人から銅と銀の合金(粗銅)から鉛を利用して銅を精錬する技術を教えてもらい、粗銅から銀を精錬する技術を確立します。なお、南蛮人から教授された銀精錬技法であるため、南蛮絞り(南蛮吹き)といいます。
この技法により、日本から明国へ安価な粗銅として銀が流れて行かないようになったのです。
そして、安価な粗銅として銀が海外に流出することを防いだ蘇我理右衛門の名声は一気に高まり、方広寺大仏や方広寺梵鐘用の銅納入にも携わるなどして成功を収めていきます。
蘇我理右衛門の最期
住友政友の姉を妻とする
蘇我理右衛門は、京都に書物と薬の店である富士屋を開き、現在に繋がる住友家の家祖となった元涅槃宗僧侶兼越前国丸岡出身の商人・住友政友の姉を妻とし、その間に4男2女を儲けました。
長子の住友友以が住友家の養子となる
他方、蘇我理右衛門の妻の配偶者である住友政友は、住友家を興した上で、一男一女を儲けたところ、息子の住友政以には「富士屋」の跡を継がせ、娘には蘇我理右衛門の長男・住友友以を養子婿として迎えていました。迎え泉屋住友を興しました。
ところが、住友政以と住友友以の妻が続けて急死したため、住友友以が、住友政以の妻を後妻に迎えて住友2代目となりました。
住友友以が住友家を大発展させる
住友家を継いだ2代目・住友友以は卓越した経済の才能を持っており、商売を大きくするには京都では狭すぎるとして寛永元年(1624年)に大坂の陣後の再開発が進められる大坂に出張所を出した後、その成功を見て寛永7年(1630年)には本店を大坂淡路町1丁目に移して大坂銅吹屋が設立されました。
この大坂銅吹所は、大成功を収めたために淡路町では手狭となり、寛永13年(1636年)に長堀茂左衛門町(現在の大阪市中央区島之内)に移転しています。
大坂に移った泉屋は、当時の日本国内の約3分の1の銅を精錬していたと言われており、言うまでもなく日本最大の銅吹所(精錬所)でした。
また、住友友以(と蘇我理右衛門)は、南蛮絞りの技法を広く大坂の同業者(大坂屋・平野屋・大塚屋などの吹屋)にも伝授したため、大坂が日本一の銅吹きの町となって全国の銅山から粗銅が集積されて精銅が行われるようになりました。
蘇我理右衛門死去(1636年6月29日)
そして、蘇我理右衛門は、寛永13年(1636年)6月29日に亡くなりました。享年は65歳でした。
住友家の業祖として称えられる
その後、住友家3代目の住友友信が江戸・長崎に支店を出したり、吉岡鉱山・幸生鉱山など鉱山経営へと事業を拡大したりし、また、4代目・住友友芳が別子銅山を開業したことにより、住友家は銅の製錬事業から資源事業全般へと事業を拡大させて大発展します。
また、元禄14年(1701年)には、銀座の加役として銅座を設立され、全国の銅山で産出される荒銅が全て大坂銅吹屋に集積され統制されることとなりました。
以上のとおり、住友家は、蘇我理右衛門の血が入って大発展したため、商家を興した「住友政友を家祖」、南蛮絞りを開発して後の家業となる銅吹所発展のきっかけを作った「蘇我理右衛門を業祖」として称えています。